好きな色
「それがまさに、姉さんとの出会いだった……」
腕を組んだ健は、しみじみと頷く。
今や道場に残っているのは、彼と玄だけ。日はいっそう傾き、夜の気配が忍び寄り、もはや静寂が耳にいたいほど。
「その後もまあ、紆余曲折あったんだが……」
「話が長いな」玄は口を挟み、これ見よがしに欠伸をするが、実のところ相手の話に聞き入っていた。紅羽がまだ高校一年生だった頃の、おそらく自分が聞かされていない出来事。それだけで興味をそそられる。紅羽は何でもおおっぴらに話すたちではない。生活を共にしているとずぼらな言動もときおり目につくが、意外に慎重だったり計算高かったりする。幼い頃から修羅場を踏んでいるので、むしろそれは当然なのだが、さばさばした言動のためか誤解されやすい。現に、紅羽が河川敷で十数人の男と闘い、そこで健と出会っていたなんて、今まで知らなかった。
「おう? そうだな。もうこんな時間になっちまったか」健は部屋の暗さに、今やっと気づいた様子。「知っての通り、俺は順序立てて話をするのが下手だ。ストーリーテラーなんて柄じゃねぇ。だからその紆余曲折ってトコはまたいつか話すことにして、とりあえず〝あの事件〟について語っておこうか」
『あの事件? ああそうだ、そんなこともあったっけ』
健が《青勇会》に入った経緯そのものは、大まかに紅羽からも聞いている。そして、まさにその日、彼女は珍しく闘いに負けかけて、満身創痍で学園に戻ってきたのだった……。
「下頭院か……」目を合わさずに、玄は呟く。
「ああ。嫌な思い出だが、ある意味で〝あいつ〟が俺を変えてくれたんだな」
*
河川敷での出会いから、二ヶ月が経とうとしていた。夏休みは終わり、退屈な授業がはじまり、殺人的な熱波だけが残って、気が滅入る九月の日々。
健はあの日以来、たびたび紅羽に会っていた。ただしそれは、仲間たちのような敬愛に基づく対話ではない。衝突だ。
はじめて言葉を、そして矛をまじえたのは、夏休み前夜の駅前。その時期、彼女は近辺を頻繁に嗅ぎ回っていた。情報の出所は深山文。正確には彼の先輩。健は仲間たちに黙って、紅羽との接触を図った。自分でも何がしたかったのか分からない。ただ、ひたすらに会いたかった。会えばなんとかなる気がした。すべて上手く行くに違いないと、根拠もなく信じていたのだ。いざ顔を合わせるまでは。
黒いタンクトップ、タイトなショートパンツ、白いスニーカーという出で立ちでロータリーを歩いていた紅羽に、健は居丈高な態度で勝負を挑んだ。なぜか。それが彼なりのプロポーズだったから。強い女は自分より強い男が好き、だから紅羽は自分を倒した男に惚れる、などと当時の健は本気で考えていた。しかし、仮にそうであったとしても、自分が紅羽より弱ければ意味がない。そして実際、意味はなかった。
完敗。
それも「そんな悪いやつには見えないから、あまり傷つけたくない」と労られ、手心を加えられて。
二度目は必死のトレーニングを経て五日後。前回と同様、駅前で紅羽を待ち、奇襲。ところがまるで歯が立たず、「一人で向かってくるのは偉い。でも不意打ちはダサいからやめな」と窘められて怒り心頭。
三度目はその十日後。《儺学園》にまで押しかけ、柊紅羽を出せと《青勇会》の末端に求めたところ、すぐに現れた道着姿の彼女に「みんなに迷惑かけんな!」との怒声を浴び、公衆の面前で惨敗。
四回目の邂逅では、さすがの健も腰が引けていた。歓楽街の外れ。夜。人でごった返す歩行者天国にて、二人は言葉の応酬に終始した。お前が気にくわねぇ、〝偽善者ぶって〟いけ好かねえ、女のくせに男より強いなんて云々と、感情論をぶつける健に対して、あたしだって自分が絶対に正しいなんて思ってない、でも法が機能しないこの国では誰か闘わなきゃあいつらにやりたい放題される、そもそも女だって男と同じくらい強くなれる、あたしがそれを証明してると、苛立ちながらも諭す紅羽。結局、彼女の説明を半分も理解できなかった健が引き下がる羽目に。が、その背中に紅羽はこう言った。
「その怒り、別の方向にぶつけてみない? あんた変われるよ。真っ直ぐな目をしてる。喧嘩の筋も悪くない。まだ未熟だけど、鍛え方次第でバケるかも。どう? いっそ不良なんてやめて、あたしと一緒に〝カゲ〟と闘うってのは」
振り向いた健の目に、清い歯列を覗かせるその笑顔は、真昼の太陽よりもまぶしかった。
しかし……。
「俺は〝アッチ側〟だ。テメェらとは死んでも組まねえ」
強がる。悪ぶる。荒れ狂う。少年はまだ反抗の術を、たったそれだけしか学んでいなかった。
事件が起きたのは九月の半ば。
ボーリング場で喧嘩の相手を間違えた健とその仲間たちは、その地下駐車場にて地獄を味わったのだ。
「オォウ。骨、イっちまいましたか」瀕死の健を見下ろして、彼は嘲笑う。「これはもおぉぉしわけない、久々のシャバですのでね、手加減が利かねぇんですよ」
鮮血のように赤い髪を腰まで伸ばした痩身の男。異様な長身だ。とりわけ腕が長い。黒いオープンフィンガーのグローブに包まれた手を下ろせば、その指先は膝に届く。鋲をちりばめた革ジャン。継ぎ接ぎだらけのカーゴパンツ。ハイヒールのショーツブーツ。いずれも漆黒。鼻と眉と顎にピアス。腰にはチェーン。顔の半分を覆う黒いマスクには、白く牙の模様が描かれている。
下頭院麟吾。
〝アッチ側〟の中でも特に残虐な幹部であると、後に紅羽から教わった。
「っ……そっ……もういいだろっ……!」壁にもたれて動けない健は、涙をこらえて相手を睨む。両手両足が壊れていた。打たれたのだ。鞭のように撓る、麟吾の腕に。文も正吉も信康も、その攻撃を被り患部から血を流し、意識不明。皮肉にも、なまじ強かった健だけは一撃での気絶を免れ、麟吾の玩具となっていた。
むしゃくしゃした勢いで喧嘩を売った相手は、恐ろしい男だった。化け物じみて強いだけではない。今まで闘ってきた人間とは根本から何かが違う。
「よかありませんよクソガキ。私は完璧主義者なのでね、どんな雑魚であろうとヤるからには徹底的にヤるつもりです」麟吾は汗と血で汚れた健の上腕に手を伸ばす。「まあ、そんな生き方していたらバラした相手の数もシャレにならなくなりましてね、ヘマ打っちまったわけです。で、さすがにお縄。確かに殺しすぎはよくありませんよねぇ。だから量より質です。多くはヤらない。選んだ相手を極限まで苦しめて殺す」
「アんぎゃあああああああああああッ!」
猛禽類のような親指が、健の体に食い込んでゆく。
「オォウ痛いですねーっ。しかしそれこそが最高の報償だ。私たち《悶絶組》は、安全と快適に至高の価値を見いだしたテメーら賤民に、苦痛の価値を伝えるべく地上に送られた使者なのです。安全で清潔な社会という空虚なキャンバスに、切り刻んだ臓物をぶちまける。これぞ失われた人間性の回復だと思いませんか。だからテメーもありがたがって死ね」
『こいつ、イカれてる……殺される……』
御し難いものが流れ、健の股間を熱く濡らした。初めての体験だ。無数の喧嘩をしてきたが、相手が目の前で漏らす瞬間は見たことがない。だから作り話だと思っていた。誇張表現だと。なのに、自分は〝こう〟か。情けない。しかも、死の間際に……。
『ごめんなさい柊さん、俺がバカだったよ……アンタの言うとおりにしてれば、こんなことには……』
激痛のあまり意識が飛びかけた、ちょうどそのときだった。
「てああああッ!」
そんな雄々しい裂帛の声が聞こえたのは。ほぼ同時に、肩から激痛が引く。違う。麟吾の指が抜かれただけだ。そこを押さえて転げ回り、涙で霞んだ目で様子を窺う。
「正義の味方が不意打ちですか。バレバレですけどねぇ」
「くそっ……相変わらず気持ち悪いやつ……!」
そんな会話にやや遅れて、二人のシルエットが浮かび上がってきた。麟吾の後ろ姿と、もう一人は、中腰で肩を押さえている紅羽だ……紅羽と麟吾が向かい合っている。
「なんで、あんたが……」
「こっちの台詞!」
震える声で尋ねた健に、紅羽は怒声を返す。彼女は河川敷で見たあのときと同じく、《儺学園》の制服を着て、素足でローファーを履いていた。
「おや? テメーら知り合いですか?」
麟吾はにたついて後ずさり、健へ再接近。手を伸ばす。
「その子から離れろ! あたしが相手だ!」裏声を響かせて、紅羽が飛びかかった。麟吾は両腕を鞭のように撓らせて存分に振るう。するとヤスリ状の金属で覆われた彼のグローブが、咄嗟に身を捩った紅羽の腰を掠めた。
「っ……!」さしもの紅羽も起動が読み切れず、汗を滲ませて後退。掠った部分は服が裂け、素肌が覗き、そこから微量の血が滲んでいた。
「偶然じゃねえんでしょう? 私がここにいるって、テメーらに割れてますよね」麟吾は空間を歪ませるような動きで両腕を揺らめかせ、悠然たる足取りで距離を詰める。
「さあね……」腰を落として凜然と、半身に構える紅羽。
「いいですねえ、その強気な目」そこで麟吾の歩調が早まった。「久しぶりにアンアン泣いてくださいよ柊さん! くっせーモンを漏らしながらねえ!」
「キモいって言ってんの!」
常人離れした瞬発力で再び、紅羽が挑む。長い腕をかいくぐってのインファイトを狙い、全力で地を蹴り突撃。
「無駄です」踏み込んできた紅羽を、麟吾は長い脚による前蹴りで迎撃。紅羽は両腕を重ねて狙われた鳩尾を守るが、その衝撃で倒され、尻餅。「ゔっ……」そこに麟吾の両手が降りかかるが、持ち前の根性と運動能力で身を翻す。必死に転がり、次いで両手両足で回転し、間合いから脱出。壁際で片膝をついて構えなおしたが、またしてもヤスリのついたグローブは、彼女の太ももを浅く裂いていた。
「……ッ、はあ……」立ち上がった紅羽の目に焦燥が浮かぶ。
「テメーは我々にとって難敵の一人。私のような幹部が対策を講じていないとでも?」麟吾は追撃を控え、未だ余裕の表情。顔の上半分からは、嘲笑や侮蔑の色が健にも読み取れた。
『ヤバいだろ、これ……あの柊さんが、こんなに押されてるなんて……』全身を戦慄かせながら、彼は這いずって麟吾から離れる。今にうちに逃げなければ、このままでは紅羽が負けて自分も殺されると、恐れていた。
「はっ……! せこい小細工があたしへの秘策? 笑わせんじゃないわよ……」
強気な紅羽の物腰も、今や虚勢にしか映らない。
やがて彼女が覚悟を決めて一歩を踏み出したとき、正吉が意識を取り戻して叫んだ。「柊さん、助けて!」と。紅羽は流し目で彼を一瞥。すぐに敵へ視線を戻して、構えを解かずに微笑んだ。
「待ってな」スカートから伸びる汗ばんだ左右の太ももが、滑らかに入れ替わる。「大丈夫だからね。絶対に守るから!」彼女は黒いスパッツが見えるほど深々と腰を落とし、ほとんど水平に開脚。また飛びかかるつもりだ、と、健は悟る。
「なん……」健は絶句した。『何でこんな状況で、他人のために闘えるんだよ……負けるかもしれないのに、ぐちゃぐちゃに殺されるかもしれないのに……なんで逃げない……?』
昔から好きな色は赤だったが、その頃にはもう意味が違っていた。
武藤健はその瞬間、紅羽にすべてを捧げようと、決意したのだった。
執筆時期 2023/08/02〜2023/08/03




