制御不能
七月の西日が道場の格子窓から斜めに差し込み、光と影が畳にて踊るなか、攻防に合わせて揺らぐ重い空気は、烏丸玄の頬を淫らに撫でる女のようだった。
彼は壁に背を預けて膝を抱え、ただひたすら、組手に励む〝その人〟を見ている。眉ひとつ動かさず、食い入るように、目を光らせて。
柊紅羽。
高等部三年生。既にその名は《儺学園》の生徒のみならず、ここ百色市の〝関係者〟に遍く、知れ渡っている。今日も彼女を目当てに他校からやってきた男女が、道場の隅に正座で控えていた。その視線に宿る感情は、一様ではない。敬愛から憎悪まで様々だ。
『下手なんだよな、みんな。感情を隠すのが』玄は口を開けずにため息をつく。『まあ、俺も〝こっち〟は隠せないけど……』彼は膝を抱え込む腕に力を込める。
意中の人は、袖のない白い道着で、裸足。起伏の豊かな体は汗みずく……。
玄は十三歳。思春期まっただ中。いかに修行を積んだ身とはいえ、すべての感情を制御できるわけでは決してない。とりわけ、下腹部を苛立たせるこの衝動は厄介を極めた。
組手が終わり、後輩たちが紅羽に頭を下げて退くと、入れ違いに別の面々が進み出て一礼。構える。今度は五人だ。五対一。しかも全員が中堅。さすがに見栄を張っている、と玄も肝を冷やす。しかし、何の問題もなかった。中堅たちは映画の悪役よろしく、一人、また一人と倒れてゆく。紅羽の動作が精確であるせいで、その蹴りを食らって敗れる者たちの軌跡にさえ無駄がない。なにもかもが簡潔で、円滑で、迅速である。
全員が倒れた途端、紅羽は構えを解いて頭を軽く下げ、腰の帯を締めなおし、腕首で額の汗を払ってから、ふらふらと壁際へ戻る五人に背を向けて、高く結い上げていた髪を無造作にほどいた。赤いヘアゴムに束ねられていた烏羽色の長髪が広がり、道着の背を、裸の肩を打つ。一連の動作により玉響、汗ばんで艶めいた腋窩が、腕の陰からほの煌めいた。
玄は咄嗟に目を逸らす。それはとても見たかったものであると同時に、さしあたり最も見てはいけないものの一つだった。いっそうの熱がむくむくと、下腹部に渦巻く。身体は正直だ。玄は膝関節を極限まで曲げてそれを隠す。顔には何も出さない。それには自信がある。でも、〝ここ〟だけは……。
『紅羽さん、相変わらず無防備だな……あんなに美人なのに、気づいてないのかな。それとも……』
ふとそのとき、思惟を遮るようにして、愛しい人の聞き慣れた笑声が「ばか」と。見れば紅羽は健と話しながら、千斗から受けとった白いタオルで汗を拭いはじめていた。顔、首、項、腕、肘、肩、そして……。
『見るな見るな、それはだめだって……』俯いて自分のあれを見る。やはり顔は嘘つきで、ここは正直だった。『どうすんだよこれ、いつなおる……? もうすぐ休憩だぞ……』
気を紛らわすべく、他の何かについて考えようと努めるが、その「何か」がてんで思い浮かばず、焦燥が募る。嫌な汗が額に浮かび、胸が早鐘をつく。絶望的な気持ち。戦闘のさなかでさえこうはならない。
『ヤバいってば……こんなの見られたら絶対嫌われる……』
「次、あんたの番」
不意に声が降ってきた。
恐る恐る目を上げると、やはり紅羽。笑顔ではない、渋面でもない、しかし無表情でもない、名付けようのない表情で、右手を腰に当て、左手はだらりと下げ、やや足を開いた姿勢。髪は肩に流したまま、ヘアゴムは左手首に、タオルを首にかけ、道着の胸元を少し開いて、グレーのチューブトップとそれに包まれた豊胸の谷間を覗かせていた。もともと代謝のよい体質に加え、この蒸し暑さと激しい格闘も与って、汗はひっきりなしに滲んでくる。首筋から流れて鎖骨を伝い、乳間に注ぐので、チューブトップはもうとっくにずぶ濡れ。
『見慣れてるはずなのに、なんでこうなんだろ……おかしいのかな、俺……』
玄は座ったまま動けず、目を逸らし、「今日はいいよ」とだけ返す。
「は?」紅羽の片眉が微かに動いた。「まだ時間あるのに」
「体調が、ちょっと」
「どの辺が?」
「熱っぽい気がして……」
あながち嘘ではない。
「ふぅん。まあ、ゆっくり休みな。でも怠け癖だけはつけないようにしなよ。じゃあ、お先」言下に踵を返す紅羽。《青勇会》のメンバーを従えたその後ろ姿を、目で追わずにはいられない。彼らの声が遠ざかってゆく。そこには彼女の声も含まれる。少し低くて艶と張りに富み、いつもしっとり熱を帯びたあの声が。
残された玄は、膝を抱えたまま、しばらくそこを動けなかった。組手はまだ続いている。紅羽たち幹部の大半が去ったため、十に満たない人影があるのみだが、道着がこすれ、掛け声が飛び、人が倒れる音が響いていた。
『なにやってんだよダサすぎ……』
腹の底で自己嫌悪が渦巻き、我知らず深いため息がこぼれる。六年前のあの夜以来、ずっと彼女を見てきた。最初は命の恩人として、やがて師匠として、時には姉として。足並みをそろえて年を重ね、互いの心と体が育つにつれて、いつしか悩ましいものがそこへ混じりはじめた。夜に別れて朝に会うそのたび、彼女はますます男の欲望を煽る姿になってゆく。あるいは自分がそういう醜い人間に変わり続けているのか。幼い頃は一生、差し障りのない関係でいられると思っていた。いや、そんなことさえ考えなかったかもしれない。ただ夢中でその背中を追ってきたつもりだから。いつか対等な仲になれるように。男として認めてもらえるように。弟子とか戦友とか、家族みたいな関係ではなく、つまり……。
「おう、カラス」
不意に、健の声が飛んできた。彼は九時の方角から、ニヤニヤとこちらへやってくる。道着の前がはだけて、栗色の短髪は汗で張りついていて、その右手には白い水筒。徒に音を立てる無遠慮な足取り。
「なにボーッしてんだ。熱があんだって?」
「まあね」
玄は顔を背ける。
「嘘つけ。立てないんだろ」
答えない。次の言葉を待つ。落ち着け。まだそういう意味とは限らない……。
となりに健が黙って胡座を組む。距離が近い。言葉がない。
「別に」
沈黙に耐えきれなかった。
「まあまあ」健は水筒を傾け、逞しい喉仏を鳴らし、口を拭って「ぶはーッ」と一つ。「わかるぞぉその気持ち」
「なにが」
「姉さんに惚れてんだよな」
「帰る」
「待て待て。ちっと話に付き合えや。たまにゃ先輩風でもふかさしてくれよ」
およそ劣情とは対極の感情をもたらす相手と話してすっかり下半身が落ち着いたばかりに難なく立ち上がろうとした玄の上腕を、健は素早く掴んだ。相変わらず力は強い。こう見えて並外れた努力家だ。「姉さんの役に立てるよう頑張るっす」が、かつての口癖だったっけ。彼女の存在を糧にしているのは、何も自分だけではない。
気に入らなかった。だが同時に、気にもなった。
ため息をつき、玄は健の隣に座り直す。ただし先ほどよりも距離を置いて。
「昔話をしてやろう。俺はどーやって姉さんとの出会いで心を入れ替えたか、だ」
「前も聞いたような」
「ありゃタテマエな。こっちゃ実話。姉さんに口止め、ってほどでもないけどさ、あんま言いふらすなってクギ刺されてんだが」
「それ、俺に何の関係が?」
「冷たい野郎だなおい……いいか。〝それ〟はお前ひとりの悩みじゃない。俺にも経験がある。だから思うんだわ、拗らせるとヤバイってな。つまりあれだ、今よりバカでクズだった頃の俺の話でも聞いて、参考にしてくれ、って感じ。姉さんが何を認めて、嫌うか、俺は身をもって学んでんだよ」
玄は横目で健の横顔を見た。ふざけている様子はない。
「ふーん」曲がりなりにも志を同じくした仲。先を促すには、それで十分だった。
「あれは二年前。ちょうどこんな、くそ暑ィ夏の日だった」




