第71話 椿姫の過去➁
翌日、椿姫は小鳥遊の誤解を解くために彼に声を掛けた。
「どうしたの? 北白河さん」
「小鳥遊くんっ、あのね、私、」
椿姫はそこではっとする。
教卓前に集まっていたクラスの女子達が、自分を見ながらこそこそ話している。その中には咲良の姿もあった。
そしてクラス中に聞こえるように、大きな声で話し始める。
「ねえ、聞いた? 椿姫って彼氏二人いるらしいよ~?」
咲良の言葉に、椿姫は何も考えられなくなった。
「え……?」
咲良は椿姫を馬鹿にしたような笑みを浮かべ、友人達に話し始める。
「私、椿姫の幼馴染でしょ? だから毎日聞かされてるの。二人の彼氏の話。しかも二人も彼氏いるくせにどっちも本命じゃないんだって~!」
「えっ、椿姫ちゃんが?」と周りの女子生徒も興味深そうに咲良の話に耳を傾けている。
椿姫と同じように固まっていた小鳥遊に咲良は言う。
「だから小鳥遊くんも気を付けた方がいいよ~? 椿姫、男を侍らせて楽しんでるだけだから」
親友だと思っていた咲良の言葉に衝撃を受けた椿姫は、愕然とし否定の言葉すら出てこなかった。椿姫はそのまま力なく自席へと腰を下ろした。そんな椿姫を噂するように教室のあちこちで囁き声が聞こえた。
そうして椿姫は以降咲良によって流された嘘の噂によって友人達をも失い、そのまま中学に進級した。
中学に進級した椿姫の生活は変わらなかった。
咲良とは別の学校に進学したものの、小学生の頃に広まった椿姫の噂は、以降も流布され続けていた。
「北白河さん、すぐ友達の好きな人取るらしいよ~」
「他校に彼氏が数人いるって」
「北白河さん、すぐに男子に色目使うよね、美人でスタイルいいからって男子も騙され過ぎ。本性見なよ」
入学早々広まった噂は椿姫一人では否定しきれず、椿姫はいつしか噂を否定することも、他者と関わることもしなくなった。
そうしてずっと一人で過ごし続けた中学三年生の夏の日、椿姫にとって救いとなる出逢いがあったのだ。
それが涼との出逢いだった。
一人で高校の学校見学に来ていた椿姫は、屋上で躓いてしまい膝を擦りむいてしまった。
誰も椿姫に手を差し伸べなかった中、涼だけがその手を椿姫に伸ばしたのだ。
「そのことがどれだけ嬉しかったか、きっと誰も想像出来ないと思います。男子には軽い女だとからかわれ、女子には疎ましがられてきた私に、声を掛けてくれた唯一のひと」
椿姫は涼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ありがとうございます、涼くん」
涼によって椿姫の心がどれだけ救われたか。涼によって椿姫の日常がどれだけ明るくなったか。
優しいはずの椿姫がどうして他者と積極的に関わろうとしないのか、涼はようやくその真相を知った。
大切な友人を失っただけでなく裏切られた過去が椿姫を消極的にさせたのだ。
(椿姫さんなら簡単に友人が出来るとは思っていたが、確かにそんなことがあれば一歩踏み出すのは怖くなるだろうな……)
椿姫の気持ちは痛いほどに分かる。純粋無垢であった小学生時代に出来た心の傷は、ちょっとやそっとでは消えない。涼の潔癖症だってそうなのだから。
「話してくれてありがとう、椿姫さん」
涼は柔らかく微笑みながら、言葉を紡ぐ。
「俺に声を掛けるのだって勇気がいっただろ? それなのに俺に声を掛けてくれて友人になってくれてありがとう」
そうして涼は、椿姫の瞳を力強く見つめ返した。
「椿姫さんをもう、そんな目には遭わせない」
「涼くん……」
「澪や皐月、岬さんや佐久間くんだって、絶対に椿姫さんの味方だ。何があっても。だから……」
涼はそこで一度言葉を切る。
「椿姫さん、今悩んでることを聞かせてくれないか?」
「あ……」
椿姫は大きな瞳を瞬かせると、ふっと肩の力を抜いた。
「涼くん、やっぱり気が付いていたのですね」
「まあな」
椿姫は自分の弱さを隠すように、少しだけ口角を上げて見せた。
「呼び出されてるんです。溝口さんに」
「やっぱりそうか……」
涼を睨んでいると思われた溝口 八重だが、涼が視線を感じる時いつも傍には椿姫がいた。もしかしたら涼を睨んでいたのではなく、椿姫を睨んでいたのかもしれない。
「私、正直溝口さんが怖いです」
椿姫は握った手に力を込める。
「また、ありもしない噂を流されて、涼くんや澪ちゃんに迷惑を掛けてしまったらと思うと、私……っ」
椿姫の言葉を遮るように涼は口を開く。
「さっきも言ったが、そうはならない。誰にどんな椿姫さんの噂を聞かされようとも、俺は今まで一緒に過ごしてきた椿姫さんの言葉を信じる」
涼の言葉に、ぱっと顔を上げた椿姫の瞳が見開かれる。
「俺は別に誰にでも優しいわけじゃない。椿姫さんが優しいから、俺も優しくしたいんだよ」
初めての勉強会で潔癖症の涼を気に掛けて除菌液を用意してくれたこと。
涼はきっとずっと忘れないと思っている。それが、潔癖症と向き合ってみようと思ったきっかけなのだから。
「溝口が椿姫さんを傷付けようとするなら、俺が椿姫さんを守るよ」
涼の言葉に椿姫の瞳がきらりと膜を張ったように見えた。そうして椿姫は顔を上げて、真っ青な空を仰ぎ見る。
「私の親友さんは、とても優しくて強い人です……」
涼を振り返った椿姫の瞳はもう濡れてはおらず、代わりに少しだけ頬が赤くなっていた。




