第62話 なにもないわけない
その日の夜、涼が自室で本を読んでいるとブブっとスマホが振動し着信を告げた。
スマホに表示された名前を確認した涼は、本に栞を挟みスマホに耳を当てる。
「はい」
『りょ、涼くん? 椿姫です。夜分遅くにすみません』
時刻はまだ午後九時を回ったばかりだ。高校生にとって夜分と言うには些か早い。
「大丈夫だよ。それより、体調はどうだ?」
『はい、もうすっかり元気です。お夕飯ももりもり食べました!』
「それはよかった」
電話口の椿姫の声からも体調が回復した様子は感じられた。やはり熱中症か、貧血かで少しふらついただけだったのだろう。
『それでその……改めてご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした……。涼くんは触れられるのが苦手なのに……』
今にも泣き出しそうな椿姫の声に、涼は思わず笑ってしまう。
「大丈夫だよ、直接触られたわけでもないし、寧ろ俺の方が汗でワイシャツが湿っていたんじゃないかと思うと申し訳ない」
なんだかつい最近も同じようなことがあったな、と思い出しながら涼が言うと、通話口から椿姫の弁解の声が聞こえ出す。
『そんなわけありませんっ! 涼くんが支えてくれなかったら私、きっとどこかに頭をぶつけってしまっていたと思います。命の恩人です! 感謝してもしきれませんっ』
「また大袈裟だな」
『そ、それにスポーツドリンクも、あ、ありがとうございました……。美味しかったです……』
飲みかけのスポーツドリンクを渡してしまったことを思い出した涼は、このことには言及せず黙っておくことにする。
「と、とにかく、無事ならよかった。今日は早めに寝た方がいいぞ」
『は、はい! ありがとうございます。それでは、おやすみなさい』
「ああ、おやすみ」
椿姫との通話を切った涼は、自然と詰めていた息をふうっと吐き出す。
体調不良とは言え、椿姫が涼にもたれ掛かってきた時は心底驚いた。
(抱き着かれたのかと思った……)
友人同士である涼と椿姫がそんなことになるわけがないとは思いつつも、変にどぎまぎしてしまったことを深く反省する。
「まさか俺と椿姫さんが、中学生の頃に会ってたなんてな……」
出逢いはどうあれ、今こうして友人として椿姫と付き合えているのだから、過去の自分には感謝しなくてはならない。
「さて、もう少しだけ読んで寝るか」
気を取り直して再度文庫本を広げようと本に手を伸ばした涼に、思わぬ声が掛かる。
「……涼」
声に驚いて自室のドアの方を見ると、そこに立っていたのは澪だった。
「はぁ……澪か。驚かせるなよ。また勝手に鍵開けて入って来たのか?」
澪は何故か藤沢家の合鍵を所持している。どうやら仕事でいないことの多い涼の両親が渡したようなのだが、澪がいつ何時やって来るか分からないため涼は気が気ではない。
今日も今日とて澪は下着のような薄い生地のネグリジェを身に纏っている。胸元がぱっくりと開き、丈は下が見えてしまうのではないかというほどに短い。
涼はふいっと視線を逸らす。
(これネグリジェなんだよな? 澪にとってはパジャマと同じなんだよな? ていうか普通パジャマ姿で人ん家来るか??)
相変わらず貞操観念の薄い幼馴染に涼は溜息をつきたくなる。
「澪、以前も行ったが夜に来るのは、」
澪は話を聞こうとせず、涼のベッドに腰掛けるとぐいっと涼の方へと身を乗り出す。頬を膨らませ涼をじっと睨みつける。
「な、なんだよ……」
視線がぱっくり開いた胸元にいきそうになって、涼は慌てて澪の目を見つめ返す。
澪は持って来ていたらしい、薄い布を涼の眼前へと差し出した。
「涼、これ!」
「は?」
「やるよっ! 潔癖症の克服練習!」
「今からか?」
「今から!」
時刻は午後十時を迎えようという時間だ。澪は典型的朝方人間のため、夜は十一時には就寝している。美容のためにも良くないと早寝の澪が、夜遅くに何かしようと言ってくるのは珍しかった。一緒にゲームをするときですら、こんなに遅い時間だったことはない。
澪は露骨に不機嫌そうに涼を見つめている。こうなった澪は涼が何を言っても聞くことはない。
「はぁ……澪がいいなら」
涼の返答に、「よしっ!」と澪はガッツポーズをする。
どうして強引に潔癖症の克服練習を進めようとするのかは不明だが、涼としてはいずれは挑戦しなくてはならない課題のため、少し急だが腹を括るしかない。
「で、冬の手袋の次はそれか?」
澪が持って来た手袋は、黒の布手袋だった。
「そう! 今日はこのUVカット手袋を使って、触る練習をします! その名の通り、日焼け対策に使う手袋で、当然冬の手袋よりも薄くて通気性もあるよ!」
澪は早速自身の手にUVカット用の手袋を装着する。
確かに冬のもこもこ毛糸手袋に比べたら、指の輪郭もはっきりしており生地が薄くなっているのは見て取れる。
そうして澪は、「はい」と言って自身の手を涼の前へと差し出した。
「……? 俺の手袋は?」
「ないけど?」
「え……」
今回も当然お互いに手袋を付けて握手するものと思っていた涼は、澪の返答に思わず目をぱちくりさせてしまう。
「涼は、私がUVカット手袋をした手を直に触るの。どこから触ってもいいよ?」
涼は差し出された澪の手を見つめる。確かにいつまでもお互いが手袋をして握手するというのも可笑しい。これは涼の克服練習なのだから、涼が直接触れなくては意味がないのだ。
しかし澪のことだから、少しずつ慣らそうと涼の分の手袋も当然用意してくれるものと勝手に甘えていた。
(全く、いつまで澪に甘えてるんだ俺は)
涼は呼吸を整えながら、澪の手を見つめる。
涼が思い切って澪の指先に触れると、何故か澪の方がびくんと身体を揺らした。
「澪……?」
「な、なんでもないから、続けてっ!」
「わ、分かった……」
涼は再び澪の指先に触れ、それをそっと握りしめた。
当然手袋の生地のせいで澪の体温を感じることはなかったが、そこに指があることだけははっきりと分かった。
指先をさらっと撫でると、澪は「ひゃあっ!?」と言って手を引っ込めてしまう。
「りょ、涼の触り方ってなんかえっちじゃない!?」
「は、はぁ!?」
「や、やましいこと考えてるんでしょっ」
「な! そんなわけないだろ! こっちは頑張って克服練習をしてるっていうのに」
とは口では言いながらも、本当のところはいつか澪と直接触れ合えるかもしれない日のことを妄想していた。手袋などなく、いつか直接手を握り合える日のことを。
澪は罰が悪そうに唇を尖らせる。
「ごめん、そうだよね……涼がちゃんと潔癖症に向き合ってるっていうのに、失礼なこと言ったかも」
「ああ、いや別に、気にしてないが……」
二人の間に奇妙な沈黙が流れる。
普段口数の多い澪が、今日は何故か口を開こうとしない。
「……なぁ、澪。何かあったのか?」
「……何かって?」
澪が強引に克服練習を進めようとするなんて今までにはない事だった。確かに少し勢いに任せて克服項目にチャレンジしたことはあったが、澪は結局いつも涼の心の負担にならないかを考えてくれていた。しかし今日はそうではない。澪が進めたいから進める、というあまりに強引な克服練習だった。
「いや、分からないけど……。まぁ、何もないならいいんだが」
「…………あるよ」
「え?」
澪はぽつりと呟くと、涼の胸元に飛び込んだ。




