第61話 中学三年生の夏
「涼くん、今日はよろしくお願いしますっ」
放課後、涼の机の前にやって来た椿姫は、相変わらず誰もが目を見張るような可憐な笑みを浮かべて涼に声を掛ける。
「ああ、こちらこそ。よろしく」
今日はこれから球技委員の仕事がある。と言っても来週末にある球技大会で使う備品の確認をするくらいだ。大した手間ではなく、備品の有無や備品の不具合を確認するものだった。
涼と椿姫は刺さるほどの視線を背中に浴びながら教室を後にする。段々とこの視線にも慣れてきた頃だが、一層敵意のような鋭い眼差しを向けてくる者が一人いた。
涼は視線だけでその相手を確認する。肩に掛かる長い金色の髪を払うその姿を。
(……やはり、溝口か)
澪から彼女が溝口 八重と言う名前の女子生徒であることを聞いた。それに彼女が悪い子ではないということも。
(ならどうしてこっちを睨んでくるんだ?)
疑問に思いながら椿姫と並んで教室を出ると、椿姫は自身の手をぎゅっと胸元で握りしめていた。
昇降口を出て、左手のグラウンドのその片隅に体育倉庫が備え付けられている。涼と椿姫は、事前に配られていた備品のチェックシートを見ながら早速仕事に取り掛かった。
「空気が籠って少し暑いですね、涼くん大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。だが、あまり長居はしたくないな」
体育倉庫は窓もなく、入口は正面の一つのみだった。入口から差し込む光は明るいが、奥に行けば行くほど薄暗くじめじめと嫌な空気が沈殿していた。
「埃っぽいな」
「涼くん、私一人でささっとチェックしちゃいますよっ! 涼くんは外で待っていてください」
椿姫としては涼の潔癖症に配慮したのだろう。しかし気遣いは嬉しいがそうもいかない。
「椿姫さん、有難い話だが量も結構あるし、二人で手分けして作業した方が早い。熱中症になっても困るし、手分けして終わらせよう」
「はい、ありがとうございます」
「こちらこそ、気を遣ってくれてありがとう」
椿姫の優しさに涼がお礼の言葉を口にすると、椿姫は心底嬉しそうに口角を上げた。
「涼くんって本当にお優しい方です」
「今俺に優しい要素なんてあったか? 寧ろいつも優しくしてくれるのは椿姫さんの方だと思うけど」
「涼くんが私に優しくしてくれるから、その優しさを返したいって思うんですよ?」
くすくすと上品に口元に手を当てながら、椿姫は穏やかに笑う。そうして思い出したかのように手をぽんと打ち合わせた。
「あ、そういえば。昨日は母がお世話になりました!」
「ああ、いや、俺は何もしてないよ」
「うちの母、何か変なこと言ってませんでしたか?」
「変なこと? そうだな……、家で俺のことを話してくれてるってことくらいか」
「えっ!」
椿姫の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。耳まで真っ赤にした椿姫は慌てたように早口で言葉を紡ぐ。
「あ、あの! その! お、お友達の話を家でするのは当たり前と言いますか!? 今日あった学校でのことを話すのは、食事の席では普通のことではないでしょうか!?」
涼がそのような会話をしていたのは、さすがに小学校低学年くらいまでだったが、どうやら椿姫は高校生になった今も食事の席で学校での出来事を報告しているらしい。
椿姫とその両親が楽しそうに食卓を囲むシーンを想像して、涼はその微笑ましさからつい口元が緩んでしまった。
(椿姫さんってお嬢様だし、もっと厳しい家で育ったものと思っていたが、なんか、可愛らしいな)
涼の緩んだ表情に、椿姫は少し不満そうに頬を膨らませた。
「ちょっと涼くんっ! 笑わないでくださいっ」
「ああ、ごめんごめん。そんなつもりはなかったんだ。なんか可愛いなって」
「へ……?」
「あ……」
涼ははっとして口を噤む。
(つい口から出てしまった……。澪なら、「好きでもない男の子から可愛いって言われてもなんにも嬉しくないから!」とか言いそうだな……)
椿姫も可愛いや美しいなどの言葉は大量に貰っているはずなのだが、涼の予想に反して彼女は更に顔を真っ赤にしていた。
「か、可愛いだなんて……か、からかわないでください……」
ぷしゅ~と頭から湯気でも出てしまいそうな椿姫は小さく呟く。
「からかったつもりはなかったんだが……」
口をぱくぱくさせた椿姫は、慌てて手元のプリントに視線を落とす。
「は、早く委員会の仕事を終わらせなくてはですねっ!」
「そ、そうだな……」
涼も椿姫と同じく手元のプリントに目を落とし、備品の確認に戻る。
そうして二人はしばらくの間、黙々と作業に没頭したのだった。
「よし、これで確認完了だな」
「はい、結構時間掛かっちゃいましたね」
二人が作業を始めて一時間が経過していた。あとは備品を元の棚に戻すだけだ。
隣で作業する椿姫の綺麗な横顔を見ながら、涼は思い切って口を開いた。
「……椿姫さん」
「はい?」
顔を上げた椿姫は、いつもの穏やかな笑顔で涼を見つめる。
「俺と椿姫さん、もしかして中学生の頃に会ったことがあるのか?」
それは涼が昨日からずっと気になっていたことだった。
『中学三年生のあの日』と椿姫の母は言った。それに浅草での校外学習の時。涼が椿姫に自身が潔癖症であることを打ち明けたあの時、椿姫は涼がいつから潔癖症なのか、と聞いてきていた。どうしてそんなことを聞いてきたのか少し疑問に思っていたのだ。
(今はちょうど二人きりだ。話すにはちょうどいい)
涼の言葉に、椿姫の目が大きく見開かれる。
「え、……涼くん、もしかして思い出してくれたのですか!?」
椿姫がぐいっと涼に身を寄せて来る。その触れてしまいそうな距離に涼は思わず身を引きながら答えた。
「思い出したというか、まぁ、その……」
椿姫のこの反応からして事の真相は事実のようである。
(俺と椿姫さん、以前に出逢っていたのか……)
「私、あの時のお礼をずっと言いたかったんです! でもなかなか言い出せなくて今まできてしまって……。遅くなってしまってごめんなさい。あの時は、本当にありがとうございました!」
「つ、椿姫さん、分かったから少し離れてくれ」
「す、すみませんっ」
椿姫はどうやら興奮すると距離感が可笑しくなるらしいことは、涼も薄々気付き始めていた。椿姫が離れて、涼は気を取り直して話し出す。
「それで悪いんだが、その時のことを俺はあまり覚えていなくて……。どういう状況だったか、訊いてもいいか?」
「はいっ!」
そうして聞かされた話は、涼と椿姫が中学三年生だった夏の学校見学の屋上での出来事だった。涼が転んでしまった椿姫に手を差し伸べた時のことだ。
「私、あの時にいただいた消毒液、まだ持ち歩いているんです」
そう言った椿姫は、隅に置いていた鞄から消毒液を取り出す。
「あの時私を気に掛けてくれたのは、涼くんだけでした。それがどんなに嬉しかったか」
椿姫は消毒液をお守りのようにぎゅっと握りしめる。
(そうか、だからか)
涼はようやく腑に落ちた。
どうして椿姫のような美少女が、なんの接点もないはずの涼に話し掛けてきたのか。
椿姫と同じように友人のいない涼に話し掛けたにしては、疑問が残っていた。何故男子の涼なのか、何故成績上位とはいえトップクラスではない涼に勉強の教えを乞うたのか。
それは全て、過去の出来事があったからなのだ。
この前涼を椿姫の家に招いた時と同じだ。椿姫は素直に中学三年生の夏の話が出来なかった。それは涼が忘れていたことで、きっと口に出せなくなってしまったのだ。
「そうか、そういうことか」
当時のことはぼんやりとしていて、はっきりとは思い出せない。学校見学の日、確かに屋上で転んだ女子生徒がいた。それが椿姫だったとは言われるまで気が付かなかった。
「やっと、お礼を伝えることが出来ました」
椿姫は嬉しそうに、涼へと笑顔を向ける。
「……別に、そんなこと気にしなくても良かったのに……」
椿姫が優しい子であることは十分承知している。しかし、そんなにも前から自分のことを気に掛けてくれていたのかと思うと、少し気恥ずかしかった。
(俺なんかをずっと気に掛けてくれていたなんて、やっぱり椿姫さんの方が優しいじゃないか)
「あの、これだけは勘違いしないでほしいのですが」
「え?」
椿姫が切羽詰まったように涼に駆け寄り、ぐいっと顔を近付けて言う。
「お礼を言いたかったのは本当です。でも、今はそれだけじゃなくて、涼くんともっともっと仲良くなりたいし、近付きたいって思ってます」
「あ、ああ、分かってるよ。……ありがとう」
最近椿姫から涼ともっと仲良くなりたいとよく聞いている。友人同士として当たり前のことなのかもしれないが、真っ直ぐに気持ちをぶつけられるというのは少々照れくさくもある。
涼がふいっと視線を逸らすと、椿姫の身体がゆらりと揺れた。
そうして椿姫は涼の胸に飛び込んできた。
「つ、椿姫さんっ!?」
「す、すみません……っ、ちょっと立ち眩んでしまって……すぐ、どきますので……」
蒸し暑く空気の悪い中で長時間作業していたせいか、椿姫の顔色は真っ青になっていた。
椿姫は慌てたように涼から離れようとするが、その足取りはふらふらとしており心もとない。
「とにかく外に出よう」
体育倉庫を出てすぐ、低木の並ぶ植え込みの淵のコンクリートへハンカチを敷き、そこへ椿姫を座らせる。
「これ、我慢して飲んでくれ」
涼は自身の鞄に入っていた残しかけのスポーツドリンクを手渡す。
「あ、ありがとうございます……」
こくこくと喉を鳴らしながら、椿姫はスポーツドリンクを飲み干した。
「大分楽になりました……。ご迷惑をお掛けしてすみません……」
体調が悪いにも関わらず、他者を気に掛ける椿姫に涼は溜息をつく。
「迷惑なんて思わないよ。友人なんだから、体調の悪い時くらい頼ってくれ」
「はい……ありがとうございます……」
少し休むと、椿姫は普通に歩けるくらいにまで元気になり、その日はそのまま帰路に就くことになった。
二人が去り行く後ろ姿を呆然と見ている少女に、二人が気が付くことはなかった。




