第53話 男には色々ある
椿姫の家からの帰り道、自転車を走らせながら涼は空を見上げていた。すっかり日は落ち、空には星が瞬いている。だというのに、纏う空気は蒸し暑く背中にじっとりと汗をかいていた。
(椿姫さん、あれから少し様子が可笑しかったが、大丈夫だろうか……)
涼のズボンにお茶を零してしまった椿姫は、酷く狼狽しその後も挙動が可笑しかった。ケーキを食べ終わった涼達は、真面目に勉学に励んだり、お互いの好きな本についての話に花を咲かせたりしていたのだが、所々で椿姫がぼーっとしていたり、はっとしてわたわたし始めたりとどうにも様子が可笑しかったのだ。
ズボンにお茶を零されたとて、火傷することもなかったので涼としては特段気にしてはいなかった。それを伝えてもいるはずなのだが、椿姫の性格では気にしないでくれと言っても難しいかもしれない。
(寝て忘れてくれたらいいんだが)
涼は苦笑を漏らしながら、自転車のペダルを漕ぐ。通りから一本入り、角を曲がったところで藤沢家が見えてくる。自宅の門扉の前で自転車から降りると、庭の方から花のいい香りがした。
そこでふと思い出す。椿姫が慌てて涼のズボンを拭き始めた時、同じように花のようないい香りがしたことを。
椿姫も涼の潔癖症を理解しているはずだが、さすがに触れそうになるほどの距離に近付かれたのは肝が冷えた。一生懸命拭いてくれたのは有難いが、女子にあそこまで近付かれるというのも、涼としては無意識に心臓が忙しなく動いてしまう。
そんなことを思い出していると、風に乗ってふわりと桃のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「涼、こんなところで何してるの?」
その声に驚いて振り返ると、腰に手を当てじとっとした目で涼の顔を覗き込む、澪の姿があった。
「うおっ、びっくりした……。澪か……」
涼の反応に、澪はまたぶすっと頬を膨らませる。
「澪か、ってちょっと酷くない? 誰だったらよかったの?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
何故か不機嫌そうに、澪は涼をじいっと見つめる。
「涼、委員会終わったら報告してって言ったのに」
「あ」
そういえば教室でそのようなことを言われたのだったと今更になって思い出す。
「悪い。忘れてた」
「忘れてたって……」
澪はますます不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「それにどうしてこんなに帰りが遅いの? もしかして、今委員会終わり?」
「ああ、いやそれは、」
椿姫の家に行っていたからだ、と答えようとして涼は口を噤む。
そういえば澪以外の家に行くのは酷く久しぶりのことで、しかも思ったよりも気を遣わずに過ごせてしまった。これも澪との潔癖症克服練習のおかげであり、椿姫の気遣いもあるのだろうが、涼にとってはこの小さな積み重ねが自信になっていく。
涼が思索に耽っていると、澪はずいっと涼に距離を詰める。涼は驚いて一歩後退った。
「み、澪、近いんだが……」
「涼、私に何か隠してない? 委員会で何かあったの? 椿姫ちゃんと何かあったとか?」
「いや別に、特に何もない」
「本当に?」
椿姫の家に行ったことを隠すつもりはなかった涼だが、澪の距離感に耐え兼ねとにかく早く離れてほしいが故に会話を終わらせる選選択肢を取ってしまった。
(好きな女子がこの距離にいるのはさすがにまずい)
澪にとっては幼馴染の距離であったとしても、涼にとっては違うのだ。
「ふーん……ならいいけど」
澪は尚も訝しげにしていたが、ようやく涼から少し離れてくれた。
「ところで澪はどうしてこんなに帰りが遅いんだ? 部活か?」
「そ! お菓子作り部の活動日だったから。そのあとコヒバでお喋りしてたの」
コヒバとは、有名なコーヒーチェーン店、コーヒーバックスの略である。
「甘い物のあとに甘い物か、相変わらず甘党だな」
「涼に言われたくないけどねっ」
「それもそうか」
涼だって椿姫とケーキを食べていたわけだから、揃いも揃って甘党なのである。
「あとで部屋、行っていい? ご飯とお風呂のあとで」
お風呂、という単語によからぬ想像をしそうになった自身の思春期脳を強く横に振り、澪を見据える。
「だめだ」
「えー、なんで~!」
「今日はその、まぁ、なんと言うか予定があるからだ」
「予定って?」
涼に予定などない。ただお風呂上がりでどうせ薄着でやってくるであろう幼馴染を拒否するための嘘でしかない。
「男には色々あるんだよ」
「えっ、色々……?」
何故か顔を真っ赤にした澪は、慌てて向かいにある自身の家へと走って行く。
「そ、そっか! ごめんね! そ、それじゃあまたっ!」
そうしてバタンと玄関のドアが閉まる。
(なんだ、急に?)
澪の誘いを適当に断るために言った言葉なのだが、澪は何をどう解釈したのだろうか。
「家に来られるのは困るが、オンラインならゲームしようと誘いたかったんだが……」
涼は首を傾げながら、自転車を敷地内に入れようやく自宅へと入った。




