第35話 side 椿姫
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中学生の頃の椿姫は、今と変わらず友人もおらず、一人で過ごすことが多かった。
いじめられているというわけでは全くなかったが、女子からはあまり好かれていなかった。
椿姫がなにをしたというわけではない。ただ、誰々の好きな人が椿姫のことを好きだとか、椿姫のせいで好きな人を取られたとか、そんなしょうもない噂が広まり、椿姫は女子に声を掛けにくくなってしまったのだ。
椿姫はもともと大人しく、積極的に友人を作るような性格ではなかったため、誤解を解くこともできず必然的に一人になるしかなかった。
そんな中学生活を送っていた三年生の夏のとある日。
椿姫は津田森高校の学校見学に参加した。
将来を明確に決めていたわけではないが、ヴァイオリンを習っていた椿姫は、音楽科のある公立高校、津田森高校に興味を持っていた。家から近く比較的通いやすいのも候補に入れた理由の一つだった。もちろんいくつか私立のお嬢様高校の受験も考えていたのだが、せっかく通うなら高校は楽しく通いたいと思い、興味のある学校は片っ端から学校見学に参加していたのだ。
その日も椿姫は一人で、津田森高校の校舎を回っていた。
屋上から見える景色は、ほとんどが緑であったものの、景観はよく、落ち着いた雰囲気が椿姫の性にあっていた。
(こんなに近くに干潟があるのですね)
校舎の裏には干潟があって、なにやら見たことのない模様の鳥も来ていた。
「ダブルダッチ部、このあとパフォーマンスするって!」
「マジ!? 行こ行こ!」
椿姫と同じように学校見学に来ていた女子達が、慌てたように屋上を出て行く。
(ダブルダッチ部……そんな部活動まであるんだ、見てみたいです!)
そう思った椿姫は、他校の生徒達と同じように屋上を出ようとして、何故かなにもないところで躓いてしまった。
「わっ……」
膝をついた拍子に、肩から掛けていたスクール鞄の中身が見事に散らばってしまった。恥ずかしくなった椿姫は、一瞥していく生徒を意識しないよう必死にそれらを拾い集める。
するとそこに一人の青年がやってきて、椿姫の荷物を一緒に拾ってくれたのだ。
「あ、ありがとうございます!」
椿姫は慌ててお礼を述べる。勢いよく下げた頭を持ち上げると、目の前には端正な顔立ちの青年が眉間に皺を寄せて立っていた。
「す、すみません……拾ってくださり、ありがとうございました……!」
椿姫が再度お礼を述べると、青年は険しい表情のまま、自身の鞄へと手を突っ込む。そうして取り出したものを、椿姫へと差し出した。
「え……?」
椿姫は青年に差し出されたそれらをまじまじと見つめる。
「絆創膏と、消毒液……?」
椿姫が不思議そうに青年の掌の上のものを見つめていると、彼はぶっきらぼうに言った。
「膝、血出てる。これ使えよ」
「え、あ、本当です……!」
言われてはじめて、椿姫は自分の膝から血が滲んでいることに気が付いた。
青年はそれらを椿姫に押し付けるようにして、さっさと行ってしまった。
「あ、あの……!」
再度口にしようとしたお礼の言葉は、青年には届かなかった。
(絆創膏だけじゃなくて、消毒液まで持ち歩いているなんて、とても用意周到な方……)
椿姫は厚意に甘え、早速傷を消毒して絆創膏を貼った。
手当をしながらも、考えるのは彼のことばかりだった。
(少し怖そうな雰囲気だったけれど、すごく優しい人だったな。同じ三年生、ですよね……? それにしては制服もスクール鞄も新品みたいにぴしっとしていました)
学ランも鞄も、三年間使用していたにしてはやけに綺麗だった。容姿にも気を遣っていそうだったし、もしかしたら育ちの良い人なのかもしれないと、椿姫は思った。
その後も彼の姿を探してみたものの、以来会うことはできなかった。
それから月日は流れ、受験シーズンがやってきた。
私立の女子校を第一志望にしながらも、椿姫は公立の津田森高校も受験することにした。当然のようにどちらの高校にも合格した椿姫は、どちらに進学するか、ものすごく悩んだ。
決め手はやはり、学校見学のあの日の彼だった。
昨日のことにように思い出せるあの夏の暑い日の屋上での出来事を、椿姫は忘れられずにいた。
(また彼に会いたい……会ってお礼を言いたいです)
彼は見学に来ていただけで、津田森高校に進学しているかはわからない。それでも椿姫は、もしかしたら会えるかもしれないと、一縷の望みに賭けてみることにしたのだった。
津田森高校はやはりいいところだった。周りは住宅に囲まれており、遊ぶところは全くなかったが、自然豊かで、生徒達も穏やかでのんびりした人が多かった。
けれど結局、椿姫が彼に会うことはなかった。
(他の高校に進学されたのかも……)
そう少し残念に思っていた、三月のことだった。入学から実に一年が経とうとしていたその日、椿姫はようやく彼を見つけたのだ。
期末テスト返しも終わって、その順位が廊下に貼り出された。椿姫もちらりと見ておこうと、人だかりのできている順位表の前へとやってきた。
椿姫の点数はいつも通りで、名前も確認したし教室に戻ろうと踵を返しかけたとき、賑やかな声が耳に入った。
「涼! すごくね!? 二十四位!? お前ってこんなに頭よかったっけ!?」
「皐月、声がでかいぞ。別に二十四位ってそれほどすごくないだろ」
その照れたような少しぶっきらぼうな声に、椿姫は振り返った。そこにはやけに目立つ金髪の青年と、ぴしっと制服を着こなした黒髪の青年が立っていた。
「いやいやすげーよ! 三百何人いて、二十四位ってめっちゃ上位じゃん!」
「そりゃどーも。もういいだろ、行こうぜ」
「あ、涼、来週発売のゲーム買うだろ? 買ったら一緒にやろうぜ」
驚いている間にも、二人の青年は遠ざかっていく。
(いた……、この学校にいたんだ……!)
あの少しぶっきらぼうな言い回しに落ち着いた声は、紛れもなくあの夏の日に椿姫の荷物を一緒に拾ってくれた青年だった。
声を掛けたい気持ちはあれど、椿姫は一歩踏み出せず、彼の後ろ姿を見送ってしまった。
それからはっとして、順位表に目を移す。
(そうです! お名前! お名前はなんと仰るのでしょうか……!)
先程、友人であろう金髪の青年に、りょう、二十四位、と言われていたのを頼りに、椿姫は順位表へと目を凝らす。
(二十四位、りょう、二十四位…………)
「あった……!」
思わず声に出てしまったことなど気に留める余裕もなく、椿姫はその名前をじっと見つめた。
『二十四位 一年A組 藤沢 涼』
「藤沢……涼、くん……。藤沢くん……」
一年以上が経って、ようやく知ることのできた恩人の名前に、椿姫は嬉しくなってつい笑みを零してしまった。
(藤沢くん、やっと、見つけました……!)
けれどそれからも時々廊下で擦れ違うことはあれど、椿姫はなかなか声が掛けられなかった。
そんなふうにもたもたしていると、気が付けば二年生に進級し、クラス替えが行われた。
「嘘……」
進級したクラスには、あのときの青年、もとい涼がいたのだ。
涼は相変わらずつまらなそうに空を見ていて、けれど、皐月や澪と話すときだけは、表情が柔らかで心を許しているように見えた。
椿姫はまたラッキーなことに、皐月の隣の席であった。涼はよく皐月の席に遊びにくるので、椿姫はその姿をこっそり覗き見ていた。
(やっぱりあのときの方は、藤沢くんです)
そう一人嬉しくなった。
それからも涼と二人きりになれるチャンスを狙っていた。あのときのお礼を言おうと、ずっと心に決めて、涼のことを目で追っていた。
だから涼が綺麗好き、というよりは潔癖気味であることも、椿姫は知っていたのだ。
そうしてやってきたのが、あの日のノート集めのときだった。
数学教務室に向かう涼の後ろをついて行って、椿姫は声を掛けたのだ。
*
椿姫の顔を不思議そうに見つめる涼に、椿姫は微笑む。
(やっぱり憶えていないですよね、あのときのこと)
勉強会と称して、ゆっくりと話せるときにお礼を伝えようと思ってはいたのだが、なんとなく言い出せないまま、今まできてしまった。
涼が椿姫の荷物を拾ってくれた中学生のあのとき、もうすでに涼は潔癖症だったはずなのだ。それなのに、赤の他人の椿姫の荷物を拾ってくれた。本当は触れたくなかったはずなのに。
そのことがまた、椿姫の心を温かくする。
(涼くんは、本当に優しい人です)
急に声を掛けた椿姫にも、勉強を教えてほしいなんて図々しいお願いにも、涼は真摯に答えてくれて、接してくれている。
(優しい涼くんが好きです。この気持ちはやっぱり、恋、なんでしょうか……?)
涼ともっと一緒にいたい。もっとお喋りしてみたい。仲良くなりたい。
このような感情を、椿姫は初めて男子に抱いた。
「涼くん、これからも仲良くしてくださいますか?」
今はまだこのままの関係でいい。やっと涼の隣に立つことができたのだから。
涼は一瞬驚いたように目を丸くして、それから少し照れたように破顔した。
「ああ、もちろん。これからもよろしく、椿姫さん」
「はいっ! よろしくお願いします!」
(今はまだ、このままでいいのです。今は、まだ……)




