第30話 初恋
それからしばらく遊んで、陽も傾いてきた頃。
「じゃあそろそろ帰るよ」
そう言って涼は立ち上がった。
「あ、もうこんな時間なんだ。まだいてもいいのに……」
ゲームに熱中していて、あっという間に夕方になってしまった。澪は名残惜しそうにしているが、そうもいかないだろう。
「ケーキ、ご馳走様。美味しかったよ」
「よかった!」
涼は澪の部屋を出ようとして、しかしくるりと振り返った。今日の潔癖症克服練習で感じたことを、澪に伝えようと思ったのだ。
「みお……」
しかし、玄関まで見送りに来てくれようとしたのか、澪が涼の後ろにぴったりとくっついていた。急に振り返った涼に触れないよう、澪は慌てて後ろに下がった。
が、そのまま足を滑らせて、澪は後ろに引っくり返った。
「きゃ……っ」
「……っ!!」
小さな悲鳴が聞こえたかと思うと、涼の身体は勝手に動いていた。
澪の頭を抱えるように澪を抱きしめ、そのまま倒れ込む。澪の身体を支えることには成功したが、涼は自身の膝を盛大に床に打ち付けた。
「いっ、てぇ……」
じんじんと膝が痛んだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「澪っ! 大丈夫か!?」
「んっ……だいじょうぶ……っ」
涼の下で身じろぎする澪に、ほっと胸を撫で下ろす。
しかしほっとしたのも束の間。涼と澪、お互いの視線があまりの至近距離で絡み合い、二人ははっとして息をのんだ。そうして各々自身の置かれている状況を把握する。
涼が澪を押し倒したような格好になっていて、それを意識した途端、二人の頬が一気に赤くなった。
(この体勢は、まずいだろ……っ)
涼は慌てて澪の上から動こうとして、澪の表情に目が離せなくなった。
涼の下で澪は顔を真っ赤にしており、仰向けになっていてもはっきりわかる胸の膨らみが、忙しなく上下している。目元が少し潤んでいるような、艶やかな表情。そして澪の傍にいるといつも感じる、あの桃のような甘い香りがしてくる。
その瞬間、涼はなにも考えられなくなった。
心臓が走った後みたいにうるさくなって、身体中が熱を持って暑くなる。
(……澪に、……触れたい……)
涼はもう、そのことしか考えられなくなっていた。
澪の柔らかそうな髪、頬、そして胸。お腹や太腿にいたるまで、すべてを触ってみたいと思った。
(俺が触れたら、きっと澪は嫌がる……)
そう頭では警鐘が鳴っているのに、それでも涼は澪に手を伸ばすことをやめられなかった。
(俺は潔癖症だ。おかしい。澪に触れたいなんて思うのは……)
「涼…………」
澪が切なそうに小さく涼の名前を呟く。それを合図にしたかのように、涼は澪の頬に触れようとして……。
突如ピリリリリリリッ! と大きな電子音が室内に響き渡った。
「「!?」」
涼は我に返ったように、慌てて澪の上から退き立ち上がる。音の出所は涼のズボンのポケットからだった。どうやら着信を告げているらしい。
涼はスマホを落としそうになりながらも、通話ボタンをスライドした。
「も、もしもし!」
『おー、涼?』
電話口から皐月のおっとりとした声が流れ出す。
『夜暇か? 一緒にゲームしねえ? 狩りに行きたいモンスターいるんだよなー。素材集めの周回もしたいし、強化したい武器もあってさ。涼が付き合ってくれたらすげー助かるんだけど!』
のんびりした皐月の声が耳に届くと、涼は一気に冷静さを取り戻した。
「あ、ああ、いいぞ」
『サンキュー! じゃ、またあとで連絡するわ!』
皐月がそう言って通話を切ると、澪がゆらりと立ち上がった。
涼ははっとして、澪に向き直る。
「み、澪、悪い! 俺、」
(俺、なにしようとしてたんだ? 皐月が電話を掛けてこなかったら、俺は……)
澪に、触れていたのだろうか……?
「だ、大丈夫だよ、私。かばってくれてありがとう……」
涼は澪の顔を見られず、俯きがちに答える。
「そ、そうか。それならよかった……。えっと、それじゃあ、また……」
「うん……」
涼は澪を振り返らず、一目散に自宅へと戻った。玄関のドアを閉めて、そのままずるずるとしゃがみ込む。
まだ心臓が忙しなく動いて、気持ちが落ち着かない。気持ちが落ち着かないのは、潔癖症だからではない。除菌がしたいわけでもない。
涼は自分の身体の下にいた澪の表情を思い出す。
驚いたような、なにかを期待しているかのような、潤んだ瞳。上気した頬に、少し荒い呼吸。甘い桃の香り。それらが脳内にこびり付いて離れない。
可愛い、愛しい、抱きしめたい、触れたい、自分のものにしたい、大切にしたい、でも壊したい。
そんな説明のつかない感情が、涼の中をぐるぐるする。
澪は幼馴染のよしみで涼の潔癖症の克服の練習に付き合ってくれているにすぎない。
しかし涼は先程思ってしまった。
(きっとこの先の潔癖症の克服練習も、澪となら絶対にうまくいく)
それは何故なのか。
簡単な話だった。
涼は潔癖症であるはずなのに、澪に触れたいからだ。
他人に触れること、他人のものに触れること。涼はそれらを苦手として生きてきた。だというのに、澪に触れたいと思うなんて、おかしな話だった。
欲求不満なのだろうかと、悲しくもなった。幼馴染の女子に変な気持ちを抱いてしまうほど、自分は女子に飢えていたのだろうかと。
でも、きっとそれも違うのだ。
澪を思い出すとき、澪はいつも明るく笑っていて、涼の背中を押すように傍にいてくれる。澪のことを考えると、心が温かくなって、これからもこんな日常が続けばいいと、思ってしまう。
「そうか……」
少し前から抱いていたこの感情や気持ちは、なんなのだろうと思っていた。
どうして澪なら、澪となら潔癖症の克服練習ができるのか。どうして澪となら簡単に克服項目をクリアできるのか。そんなの考えてみれば簡単なことだった。
「……俺、澪のことが好きなのか……」
涼が澪に抱いているのは、恋愛感情だった。
澪が好きだから心を許しているし、一緒にいたいと思うし、どんなときも楽しい。そして、ドキドキもするし、触れたいとも思うのだ。
涼は自嘲気味な笑いを浮かべる。
「潔癖症の俺が、彼女に触れたいなんて、本当笑えるな……」
何十年と澪と一緒にいて、涼はやっと澪への気持ちに気が付いた。
(俺って、相当鈍い人間だったんだな……)
気が付いてしまった澪への恋心に、涼は少なからず戸惑ったが、今までの自分の気持ちを考えると、それがいやにしっくりきてしまったのだ。




