第25話 大切な友人
涼は手にしていた自身のブレザーを、眠る椿姫にそっと掛けてあげた。緊張と不安から、なんだか心臓がやけにうるさかった。
(大丈夫。北白河さんはきっと嫌がったりしない)
涼も除菌したいとは思わない。椿姫にブレザーを貸しても、嫌だという気持ちはまったく湧いてこなかった。
寒そうに眉間に少し皺を寄せていた椿姫は、涼のブレザーのおかげかまた穏やかな寝息を立てはじめた。涼は少しほっとして、来週の古典の口語訳でもやっておくかと、教科書を広げることにした。しかし結局眠る椿姫の反応が気になって、あまり集中できなかった。
(大丈夫だ、俺の潔癖症の克服は少しずつ進んでいる。他人は俺が考えるほど、きっと俺を汚いなんて思っていないし、興味もないはずだ。大丈夫、大丈夫、気楽に気楽に……)
澪がいつも涼にくれる言葉を、たっぷり言い聞かせる。
潔癖症は心理的要因が大きい。大丈夫だという成功経験を脳に刷り込むのだ。
(脳は存外馬鹿だ。言い聞かせれば、きっと大丈夫になるはず……)
涼が落ち着かずにそわそわしていると、「ふひゃっ!?」という謎の言葉とともに、椿姫が目を覚ました。
涼の心臓が飛び上がるのと同時に、椿姫も覚醒する。
「わっ、私、寝ちゃってましたか!?」
目をぱちぱちと瞬かせていた椿姫は、目を見開くとみるみるうちに頬が真っ赤に染まっていく。
「す、すみません! 藤沢くんっ! 貴重なお時間をいただいておいて、私っ……」
椿姫が慌てて動いた拍子に、肩に掛かっていた涼のブレザーがずるりとずれる。
「え……?」
椿姫は胸元でずれたブレザーをきょとんと見つめる。自分の腕を見て、自身のブレザーは身に纏っていることを確認する。そうして隣に座る涼が紺色のカーディガン姿であるのを見、そして再び手元のブレザーを見、「えっ!」と大きな声を上げた。
カウンター内にいる図書委員がちらりとこちらに視線を向け、また文庫本へと意識を戻した。
口元に手を当て、小さく「すみません……」とつぶやいた椿姫は、涼にずいっと詰め寄る。
「これ……、藤沢くんのですか……?」
涼は一拍おいて、こくりと頷く。
「……寒そうにしてたから掛けたんだけど、迷惑だったか……?」
椿姫がなんと返答するのか落ち着かない涼に対して、何故か椿姫の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「き、北白河さん……?」
「なんて……」
「え?」
「私は、なんてことをしてしまったのでしょうか……っ!」
「え……」
椿姫は涼に向かって深々と頭を下げた。
「藤沢くん、大変申し訳ございませんでした……。藤沢くんの大事なブレザーを、お借りしてしまいました……」
予想だにしなかった椿姫の反応に、涼は目を丸くする。
「え、あ、いや、俺が勝手にしたことなんだけど……」
「でもっ! 藤沢くんは自分のものを他人に触られるのが嫌ですよね? それなのに、私が寝てしまったせいで藤沢くんは、私にブレザーを貸す羽目になってしまって……!」
「あ、いや、別に……」
無理をしたわけでは決してない。放っておけなかった、というのが一番の理由なのだが、それにしてもたしかに、どうしてブレザーを貸してあげようなんて涼は思えたのだろうか。今更になってその疑問が湧いて来る。
椿姫は丁重にブレザーを涼へと返す。
「ありがとうございました……」
「ああ、うん。……えっと、嫌じゃなかったか……?」
ここで椿姫に嫌だ、と言われてしまったら涼の潔癖症はきっと一生治らないだろう。そうなるかもしれないというのに、聞かずにはいられなかった。
涼の質問に、椿姫はぶんぶんと勢いよく首を左右に振る。
「嫌なわけないです……! 温かくて、すごく落ち着く匂いがして、優しい夢を見た気がします!」
嫌じゃない。その言葉を聞いて、涼はほっと安堵の息を漏らす。
「そうか、よかった……」
「藤沢くんこそ、大丈夫なのですか? 私なんかが借りてしまって、嫌な気持ちになっていないですか?」
「なるわけないだろ、だって、」
(あ……)
その言葉がするりと口から飛び出そうになって、涼は自身に驚いた。
(そうか。どうして北白河さんにブレザーを貸してあげようなんて思えたのか、ようやく腑に落ちた。俺は、北白河さんのこと……)
涼は少しはにかみながら、その言葉を口にした。
「……俺と北白河さんはもう、友人、だろ……? 友人が寒そうにしていたら、ブレザーくらい貸すよ」
涼の言葉に、椿姫の大きな瞳が更に大きく見開かれた。それから優しく細められ、椿姫は幸せそうに微笑んだ。
「ありがとうございますっ、藤沢くん!」
「……どういたしまして」
涼はつくづく澪の言う通りだったのだと思い知らされる。
(周りの人間はきっと、俺を汚いなんて思っていない。俺は俺自身が勝手に汚い人間だと思い込み、除菌に囚われていただけだ)
『潔癖症は治せるんだよ!』
腰に手を当て、力強くそう言ってくれた澪の笑顔を思い出す。
いつも脳内でチラついていた夕陽色の教室が、今はぼやけて見えた。あの女の子の姿も顔も、もう思い出せなかった。
「藤沢くんっ!」
「え、あ、はい」
椿姫はまたずいっとその綺麗な顔を近付けてくる。涼は反射的に少し仰け反ってしまう。
「あの! お願いがあるのですが!」
「……お願い?」
椿姫は覚悟を決めたように、思い切ってこう口にする。
「あのっ! 友人だと仰ってくださるのなら、私のことも、名前で呼んでいただけないでしょうかっ!」
「え……?」
椿姫の突然の申し出に、涼は目を丸くする。
「藤沢くんはいつも桜坂さんや辻堂くんを、名前で呼ぶじゃないですか! 私も、友人なら名前で呼ばれたいです!」
澪と皐月は幼馴染で、小さい頃からずっと名前呼びだ。中学高校と友人のいなかった涼は、二人以外を名前で呼んだことはなかった。
(名前呼び……か……)
椿姫、などと呼び捨てで呼ぼうものなら、クラス、いや学校中の椿姫ファンが涼を目の敵にするだろう。恐ろしくてそんなことできるはずもない。だとすると選択肢は一つしかない。
涼はごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくりと口にする。
「……椿姫、……さん……」
椿姫の表情がぱあっと明るくなる。
「はいっ! 涼くんっ!」
「……っ!?」
名前で呼んでほしいと言っていたから、まさかお互い名前で呼び合おうという話だとは思っていなかった涼は、少しくすぐったい気持ちになる。
(なんか、名前で呼び合うようになった初々しいカップルみたいなやりとりだな……)
なんて思うことすら、涼にはおこがましいことだとは承知している。
「さんはなくても、いいんですよ? 私たちは友人ですし」
「あー、うん、そのうち……」
少し不満そうにする椿姫に、今はそう濁しておくことにする。そのうち。もっと親しくなって、涼が潔癖症を克服して自信が持てたら、そのうち。




