死神
いつからそこにいたのかわからない。
気がつけば、陽炎のように揺らめく影が自分を見下ろしていた。
『……だれ、なの?』
震える声で尋ねると、感情を全く感じさせない言葉が返ってくる。
『誰? ──そうだな、お前たち人間の定義からすると死神という存在だ』
そうなんだ。
あっさりと受け入れたのは、目の前に広がる光景が子供でもわかるくらい異常だったから。
死神がどういう存在なのか、絵本で読んだことがあるから知っている。
『ぼくのたましいをうばいにきたんだね。いいよ、はやくうばって』
死神は死を糧として生きている。人間からすれば、恐ろしいだけの存在。
なのに、ちっとも怖いと思わなかった。
地獄のような光景が目に焼き付いているからなのか。
単に人間の言葉を話しているからそう思うのか。
それとも別の理由があるのか。
幼いアストにはわからない。
わかるのは、死神なら確実に自分を殺してくれるということだ。
『──なぜ自ら死を望む?』
すぐに殺してくれると思っていたのに、思いもよらない言葉が返ってくる。
そもそも、口がないのにどうして話すことができるんだろう。
アストは不思議に思いながら、
『おとうさんもおかあさんも、あのおっきなばけものに食べられた。ともだちも村のひとたちもみんなころされた。ぼくだけが生きてたって仕方がないよ。早くころして』
死神は頬から顎にかけて手を滑らせる。
『では、なぜあの場から逃げた?』
『え?』
『あのまま大人しくしていれば、お前も両親と同じく食われていたはずだ』
『それは……』
なんでだろう?
あのときは逃げることしか頭になかった。
理由を聞かれたって、わからない。
『生きたいから逃げたのではないか?』
問われ、考える。
落とした視線の先では、兵隊アリが羽が千切れてもがく蝶に群がっていた。
『そうなの、かな?』
自分でもよくわからなくなってきた。
『理解不能だ。だからこそ観察のしがいもある』
観察?
言ってることもよくわからない。
『個体識別名は?』
『え? なに?』
『名前を聞いている』
『な、なまえはアスト・ヴァレッドストーム』
『ヴァレッドストーム?」
『う、うん。ヴァレッドストーム』
束の間の沈黙後、死神は人間には絶対にできない動きと体勢でアストの顔を覗き込んだ。
その異様さを目の当たりにし、今さらながらに身体が震えてきた。
『やっぱりぼくのたましいをうばうの?』
死神はアストの質問には答えず、
『これが奇縁というものか。中々に興味深い。それと勘違いを正しておく。魂が刈り取れるのは、死んで間もない人間と自我のない赤子だけ。お前の魂はもはや刈り取れない』
『じゃあ、じゃあどうするの? 僕をむしゃむしゃ食べるの?』
たとえばそこの、兵隊アリのように。
「食べもしない。まずは生きろ。それがお前に与える最初の課題だ」
──生きろ。
その言葉が耳鳴りのように響き、わけもわからず涙が溢れてくる。
死神はアストの頭に手を乗せて、
『死ぬのはいつでも、それこそ片手間でもできる』
パチリと音がするのと同時に、アストの視界は闇に包まれた。
『え⁉ なに⁉』
叫んだ次の瞬間には、見たこともない建物がアストを見下ろすように建っている。
自分が住んでいた村や街にだってこんなに大きな建物はなかった。
周囲は深い木々で覆われ、見たこともない巨大で不気味な鳥が、紅く光る瞳でアストのことをジッと見つめている。
『ここ、どこなの?』
声を潜めて尋ねるアストに、
『冥界の門。しばらくの間、お前が生きていく場所だ』
その日を境に、アストと死神の奇妙な生活が始まった。
そして、死神から生きるための術を強制的に学ぶことになる。
それは子供心にも死んだほうがマシと思えるほどの過酷な日々だった。
────季節は巡り、時が刻まれていく。
あの日、全てを失い死ぬことを願った小さな子供は、十五年の時を経て、たくましい青年へと成長していた。
──とある昼下がり。
冥界の門の一画にある練兵場でストレッチをしていると、何もない空間に裂け目が生じた。
同時に氷に亀裂が入るような音が響き、裂けた空間の中から、逆巻く嵐を背に黒い影が伸び出てくる。
初めて見たときは恐怖で腰が抜けたけれど、今では単なる日常の光景にすぎない。
ちなみに出現の仕方には様々なバリエーションがあり、アストは密かに当てっこゲームをしている。
ちなみに今回はハズレだ。
「今日はどんな無茶ぶりを? 言っておくけどこの前みたいにアンゴラを十匹狩るまで帰ってくるなっていう無茶ぶりはもう嫌だから。ほんと、死にかけたんだから」
くたびれた靴紐をきつく縛りながら、アストは死神──ゼットを見ることなく言った。
「死にたいのではなかったのか?」
「またそんな子供の頃の話を持ち出して……もしかしなくても嫌味ですかね?」
あの日の光景は忘れたくても忘れられない。きっとこれからも忘れることはないだろう。
だが、幼かったあの頃とは違う。
今は両親や村人たちの分まで生きることが自分に課せられた使命であり、そして供養だと思っている。
成長する中で、生きる目的もできた。
地獄すら生温いゼットの訓練に耐えているのもそのためだ。
(まぁ実際耐えられてはいないし、ここを出れるあてもないんだけど……)
「──嫌味? これが嫌味なのか?」
「はい、それはもう立派な嫌味でございます」
「なるほど。覚えておこう」
ゼットの言葉に、アストはため息を吐く。
一時が万事この調子だ。
「で、今日の訓練は?」
「訓練はしない」
想定していなかった言葉に、一瞬思考が停止してしまう。
顔を上げるのとほぼ同時に、
「受け取れ」
ゼットは突然何かを投げて寄越す。反射的に受け取ったものを見ると、漆黒色に染まった長剣と短剣だった。
「剣? なんで?」
アストは、自分の足元に置いている長剣に視線を落とす。
(刃こぼれは──とくにしていない)
そもそも刃こぼれしていたら、アストが気づくより先に、ゼットが魔術で直してしまう。
(わからない。なんで今さら剣なんだ?)
あらためて受け取った剣を見てみると、ゼットの身体から常に立ち昇る黒い霧と同様のものが流れ始めた。
「──なぁこれって」
尋ねようとしたとき、アストは初めてゼットの違和感に気づいた。
「左腕、なんでなくなっているんだよ」
「お前が気にすることじゃない」
ゼットは淡々と口にする。
「いや気にするって。めちゃくちゃ気にするから。──えっ? まさか自分の腕を剣にしたってこと?」
「だったらどうだというんだ?」
「どうだって……一体何を考えているんだよ」
何でもありのゼットのことだから、そのうち腕が生えてくるのかもしれない。
だからといって、腕を剣に変える理由にはならないはず。
「何をそんなに慌てている」
「普通は慌てるの。自分の腕を剣にしちゃったら普通の人間は慌てるものなの」
「お前は普通の人間なのか?」
「う。そ、そうあらためて言われるとちょっと自信が……」
ゼットに拾われてからの十五年、やっていることは訓練とデモンとの戦闘。ただそれだけ。人間らしい営みを送っているとは到底言えない。
そもそも冥界の門に来てから、一度たりとも人間と会ったことがないのだ。
「と、とにかく慌てるの!」
「そうなのか……中々に面白い」
満足そうにうなずくゼット。
アストは白け顔で、
(これっぽっちも面白くない)
呆れが一周回って、さらに呆れてしまう。
「どちらにしてもお前が気にすることではない」
「だから気にするの! とにかくこれは返すから」
突き返すも、ゼットは受け取ることを拒んだ。
「なんでだよ……」
「今のお前に拒否権はない」
きっぱりと断言した以上、死んでも受け取ることはないだろう。
死神だけに、死ぬ姿はまるで想像できないけど。
「──なぁ、長剣はわかるけどなんで短剣?」
訓練は元よりデモン相手でも、長剣一本で戦ってきた。アストが短剣を使うのは、獲物の皮を剥ぐときくらい。
「お前は接近戦の割合が高い。短剣があれば取り回しもきく」
「そうなの?」
意識したことはなかった。
「お前本来の戦闘スタイルは、体術と短剣を駆使したものだ」
「いや、体術はまだわかるけど、短剣なんて戦闘で使ったことないから。もしかして、長く生き過ぎてボケちゃったの」
「──やはり自覚はなしか」
「なに? その微妙な言い回し」
「まだまだ脇が甘いが、この世界で生きる術は一通り身に着けさせた。あとは好きなように生きるがいい」
「──は? え? ちょっ」
ゼットはアストが問いかける間もなく、景色と同化するように消えてしまった。
今のは初めて見るパターンだ。
(まだそんな隠し玉があったのかよ……)
「いやいや、そうじゃなくて。あとは好きなように生きろ? 突然なんだよ。──ははーん。意図はわからないけど、これも訓練の一貫だな」
そう確信し、アストはゼットが戻ってくるのを待った。
一日。
一週間。
一ヶ月。
ゼットが再びアストの前に姿を現すことはなかった。




