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明け方から激しい雨が灰色の日本瓦を叩いていた。浅い眠りから覚めたヴォイドは障子を少し引き開けて外の様子を窺った。
廊下の向こうの平たい庭石の上で、滝のような飛沫が舞っている。今日発つべきか────いや、今日でなくては生きて出られないかもしれない。
中庭を囲む回廊の、昨夜ケイゴが笛を吹いていた場所に一つ動きがあった。部屋の障子戸を開けて出てきたのは、右腕に包帯を巻いたヨシサダだ。
ヴォイドは音を殺して障子を閉めた。
隣の布団ではスグルがうつ伏せになって眠りこけている。剥がれた掛け布団の端からは野放図に細い脚が伸びていた。そもそも浴衣というものは就寝着には不向きだと、ヴォイドはこれを見て思う。布をただ扁平に合わせ縫っただけの着物では、まるで着衣としての用を成していない。
ヴォイドは自分の腕ほどの太さしかないスグルの太腿に、そっと触れた。体毛が薄くきめの細かい柔肌は手のひらに吸い付くようだ。そのままゆっくりと指を滑らせながら、はだけた浴衣と一緒に脚の付け根まで上がっていく。浴衣の裾から下着の一部が覗いた時、ビクンと脚が動いて大きく股が開かれた。
「......ルビジウム、ストロンチウム、イットリウム、ジルコニウム、ニオブ......」
同時に寝言で何かをつぶやき始めた。それが元素の列挙であることはヴォイドにも何となく分かったが、科学分野が著しく後退してしまったのこの時代に、スグルの口が発した物質を知る者などほぼいない。
いかにもスグルらしい反応に、ヴォイドは軽く笑って手を引っ込めた。
部屋の隅の床の間に掛け軸が掛かっている。
達者な筆書きで『六道輪廻』とある。人は六道即ち「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」の間を生まれ変わり死に変わりして迷いの生を続けるという仏教の思想である。
ヴォイドはふと、立ち上がってその掛け軸を捲ってみた。
掛け軸に覆われていた床の間の壁板に、小さな穴があった。よく見ると掛け軸の方にも、画数の多い「輪」の字に紛れて同様の大きさの穴がある。
再びスグルの枕元へ行き、掛け布団を取って、今度は大胆にも上から覆い被さった。
「ん......ほえっ......えっ、何?!」
目覚めたスグルが驚いて脚をバタつかせると、耳元に密着した口がささやいた。
「今すぐここを出る。逃げる時は死ぬ気で走れ」
本来なら礼を言って里を去るのが筋というものだが、送別の言葉が死への餞になるとも限らない以上、こうするしかなかった。
雨音が、回廊を行く2つの足音を消してくれる。
分岐する廊下の先を慎重に目視して、ヴォイドが言った。
「見晴らしが良すぎる。こういう場所には罠が仕掛けられていることが多い」
後退して別の経路を進む。
屋敷の裏手に出ると、建物を取り囲む高さ2メートルの塀の一角に、鉄製の裏門扉があった。
「あそこから普通に出られるかな」
「お前が里側の人間だったらどうする?」
「うーん......熱感知センサーを取り付ける。ああ、でも電気ショックの方が早いか」
「なら塀を越えた方が良さそうだ」
ヴォイドが肩車でスグルをひょいと持ち上げた。
塀には鉄線のようなものは張られていない。張られていたとしても、スグルならさっさとペンチで切り取ってしまうだろう。
スグルが塀を越えて屋敷の外へ出た。次いでヴォイドも────彼にとっては、この程度の障害物は低いくらいだ。
だがあと2秒、遅かった。
「我々のもてなしが、そんなにお気に召さなかったかな」
包帯だらけの痩躯が、軒下で不気味に佇んでいた。
里長の声と同時に、雨粒を切り裂いて無数の矢がヴォイドに降りかかってきた。
「ヴォイドさん!」
塀の向こうのただならぬ喧騒に気づいて、スグルが呼びかける。
「走れ! どこでもいい。必ず見つけてやる」
塀越しに聞こえた声に小さくうなずくと、スグルは歯を食いしばって走り出した。
豪雨の中、向かうべきは北東なのだと思ったが、敷地をその方向に向かって走り続けると、突き当たりに竹で作られた垣根があり、これをどう乗り越えようかとスグルは立ち止まって考えた。
地面から突き出た竹筒の高さはやはり2メートル。その先端は角度を違わず斜めに鋭く切り揃えられ、日本人の几帳面さはこういったところにも垣間見られる。
どう考えても一人で越えるのは無理だった。だがぐずぐずしていると追手が来てしまう。
竹垣はどこまでも続いていて、出口があるとしたら里の正面、つまり祠の辺りまで引き返すことになりそうだ。里の忍者ならこれしきの垣など自力で飛び越えてしまうのだろうが、よそ者はそうはいかない。
道具になるような物はないかと、スグルは周囲を見回した。
────あれは?
草陰に紫色の卵が3つ転がっていて、そのうち一つの殻が割れていた。
「昨日の卵か」
無傷のままの卵を2つ持って逃げる余裕など今はない。それより、何か使えそうな物は......
「いたぞ!」
黒装束の男が泥飛沫を蹴散らして近付いてきた。
「わっ!」
逃げようと足を踏み出した途端、スグルは泥濘に嵌って転んでしまった。その頭上をクナイが3本掠めていった。
もうダメだ。起き上がる頃には首を刎ねられているかもしれない。
だがここで追手さえも予想しなかった、まさかの逆襲があった。空から何かが舞ってきて、忍者の目玉に喰らい付いたのだ。
「うあああああ!」
黒装束が片目を押さえてのたうち回る。その間に、スグルは竹垣に突き刺さった3本のクナイを見て、それを使って登れるかもしれないと考えた。
迷っていたら殺される。垣に刺さったクナイを抜き取ると、竹筒とそれらを結わえている縄の間に先端部をしっかり差し込んで、取っ手の部分を足掛かりによじ登り何とか垣根を突破することができた。
激しい雨で視界は不明瞭だが、敵にとっても同じ条件。寧ろ逃げる側には有利かもしれない。
スグルはひたすら走った。木の根につまずいてこけても、泥で滑って倒れても、すぐに起き上がりヴォイドに言われた通り死ぬ気で走った。
やがて息が切れて立ち止まり、腰を屈めて息を継いだ。
そこへ一羽の鳥が飛来した。
何のつもりか、鳥は至極当然のようにスグルの肩に止まって羽を休めている。
人差し指を差し出すとちょこんとそこに乗り換えたので、スグルは顔を近付けて小鳥の様子を観察した。
青い鳥だった。まるでおとぎ話に出てくるような────ものではない。卵から孵化したばかりのその鳥は羽も乾かないうちに雨に打たれ、なぜ飛べるのかも疑問だが、スズメほどの小さな身体でしっかりと指に掴まっている。
どこを探しても、それには目が付いていなかった。その代わりと言っては何だが、頭部の両側に耳らしきものが付いていた。
そして嘴はあった。嘴が咥えていたのは、さっき抉り取った人間の目玉だった。




