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 ノリカ────久々に口にしたミチカの母の名だったが、うっかりその名を口にするとファイは小一時間不毛な感傷に浸ってしまう。


 彼には誰にも言えない、また言うつもりもない罪があった。

 今から20年前のことだ。



 ミチカの父とは親友だった。勤勉で実直で、まるでファイとは真逆の性格だったが、堅物すぎて女には縁のなさそうな友人が、突然婚約者を紹介した時には驚いた。

 豊かな赤髪に碧い瞳────若い女の名は、ノリカといった。その珍しい名の由来は、古代日本の研究書を読み漁る父親に、趣味で付けられたものだと言っていた。


 程なくノリカは子どもを産み、誰もが羨むような幸せな家庭を築き......

「あなたはまだ結婚しないの?」

 と訊かれる度に、ファイはいい加減な理由を付けて誤魔化した。それまで付き合っていた女たちとは、完全に縁を切っていた。

「結婚ていいものよ。子どもを生み育てる幸せ、家族と支え合って生きてゆく幸せ。あなたも早く人生の伴侶を見つけるべきだわ」


 彼女は気さくでおおらかで、何にでも興味を示した。

 仕事人間のノリカの夫と違って、自由人を気取っていたファイ。自分は暇だからと、忙しい友人に代わってノリカと幼いミチカを祭りやら買い物やらに連れ出した。

 親友の手前、どうしてあんなことができたのだろう。今となっては若気の至りとしか言いようがない。

 そのうち気持ちを抑えきれなくなり、半ば強引に彼女を口説いて抱いてしまったのだ。

 ただの一度であっても、ノリカを不義に走らせた罪は重い。だがそれを友人に知られてしまった後が地獄だった。


 ノリカの夫は娘を連れて家を出た。真夜中のことだった。

 2日後────奇形種に食われた無残な人間の死体が、パドルスクの川下に流れ着いた。

 あの時、ミチカを連れて家を飛び出した友を、自分はどうしてすぐに探して連れ戻さなかったのだろうかと、そればかり考えた。その苦悩は────永劫に償うことのできない罪は────20年経ってもなお、臓腑を抉るような痛みを心に呼び覚まさせることがある。




「チッ、もう切れちまったか......」

 ファイは空になったタバコの箱を握り潰した。このところ消費本数が増えていてチェーンスモーカー化しつつあった。

 新しい箱をジープまで取りに行くのも面倒なので、ポットにお湯を沸かし、いつもなら阿吽の呼吸でミチカが入れてくれるインスタントのブラックコーヒーを、細々とセルフサービスでコップに注ぐ。

「熱ちぃっ!」

 自分で入れたコーヒーは舌を焼くほど熱かった。お湯が熱すぎるのではなく単に飲んだ方が猫舌なだけなのだが、そういうところもミチカは分かっていて、いつもぬるめに作ってくれているのだ。


 ハァ......。と虚しくため息を吐き出して、左手のコルトで銃まわしを繰り返す。

 1人になると、つい憂愁に閉ざされてしまう。考え過ぎると苦悶に任せて引き金を自分に向けて引いてしまいそうだ。

 そんなファイの愁思を打ち破るかのように、けたたましいエンジン音を放ちながら一台のジープが湖畔に立つ掃討部隊本陣のテント前に突っ込んだ。


「し、司令官! 緊急事態です!」

 車内から転がり落ちてきた隊員は、胸元にざっくりと傷を負って血まみれだ。


「どうした! 状況を報告しろ」

 午前までの物腰優雅なアルトゥールから一変して、鋭利な、緊張感のある声がシャマナ湖に響き渡る。

「鳥の巣を撤去しておりましたところ、全身に突起物のあるヒョウのような奇形種が現れて突然襲いかかってきました。敵の動きは非常に素早く、第二部隊すら太刀打ちできず......」

 両膝と片手をガックリと地面に落とし、隊員はやっとのことで上体を起こしているようだった。


「不甲斐ない、たかがヒョウ一匹に」

 とアルトゥールは憤慨したが、隊員は最後にこう言い残して前のめりに倒れ込んだ。

「一匹ではなく......おそらく20匹以上はいたかと......」


 改造ジープのマフラーが、割れそうな勢いで爆音を噴き出した。

 加減も無しにアクセルを踏み続ける中年男の形相は、かつてないほどに鬼気迫るものであった。






 13......14......15。

 精鋭部隊8人の命を賭しても、獣の頭数は大して減っていない。

 同行した隊員から渡された自動拳銃を口に咥え、ミチカはシャドウファントムのハンドルを握る。

 群れの動きを見てバイクを旋回させながら、一匹に狙いを定めて発砲してみるが、ファイの射撃の精度には程遠いことを思い知らされるだけだった。

 それでも決して逃げたりしない。隊員が2名、まだ息をしているのだ。


 無風地帯に蟠った悪臭死臭は、獣たちの闘争本能を鼓舞しているようにも見える。背中のイボから吹き出すあの赤い体液こそが、凶暴性を増幅させる誘発剤なのかもしれなかった。

「ひどい顔。手鏡に自分たちの顔を映して見てごらんなさいよ」

 鼻孔を拡げ、顔面の筋肉をありったけに緊縮させて牙を剥くイボ珍獣。昨日の2体の方がまだ可愛げのある顔をしていた気がする。だがこれは人間も同じだ。数が増えればその分、集団心理によって残忍性が増す。


 アクセルとブレーキレバーを交互に操作しつつ、4発目でやっと一匹の息の根を止めた。単純計算でも残りの弾の数は14匹の奇形種に及ばない。

「さあ、かかってらっしゃい。まずはあなたたちを根絶やさないと、この世から奇形種を根絶することなんてできないんだから」

 漆黒の車体が大きくカーブを描く。試したことはないが、これで獣を轢き殺すという荒技も、最終手段として念頭に置いておくべきだろう。


 5匹の獣がミチカを取り囲んだ。

 応戦していた2人の兵士に声をかけてみたが、反応がない。

 更に3匹が加勢して行く手を阻む。そして残りの6匹は────


 目を背けたくなる光景であった。兵士の遺体に群がり、四肢と内臓を食い千切っている傍若無人な獣の行為は、彼女の理性を一瞬にして崩壊寸前にまで追いやった。

 フラッシュバックするのは父の最期の姿だった。


”ミチカ、ここに隠れていなさい。あれがいなくなるまで、何があっても出てきてはダメだよ”

 父は武器など持っていなかった。僅かな死角に娘を隠し、できるだけ怪物の注意を引き付けてから抵抗を試みたものの、腕をもがれ、腹を刳り取られて......


「わああああ!」

 ミチカは銃を構えて残りの弾丸をぶっ放した。

 逃げる? ────あり得ない。父だって最後まで戦ったのだから。 

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