第52話「鉄壁と暴走」
巨大な白亜の城壁のずっと上で、その眼下の戦場の光景を見下ろしていたサンクトゥリアの神殿騎士たちは。あまりの絶望的な光景に、全員が息をするのも忘れてただ呆然とその瞬間を青ざめた顔で見つめていた。
全高十メートルという、城壁を見上げるほどの異形の巨人の丸太のような巨大な腕全体が、圧倒的な重力と絶望の質量を伴って、足元のアリのようなたった一人の大盾を持った大男へと、まるで邪魔な虫を全力で叩き潰すように、容赦なく真っ直ぐに振り下ろされる。
「バカな、避けろォ! 真正面から受け止めるなんて自殺だ! 跡形もなくミンチにして死ぬぞ!」
騎士隊長の一人が、戦士としての本能的な恐怖からたまらず絶叫した。
その巨漢の叩きつけの攻撃は、サンクトゥリアの何重にも重ねられた分厚い魔法の城壁すら、たった一撃でバターのように粉砕する規格外の強烈な威力を持っていると、遠目から見下ろしている彼らでさえ、その異常な風圧と魔力の本能的な圧から容易に理解できたからだ。
だが。その絶望の質量の下にいるガルドは、ただの一歩も後ろへ引かなかった。
巨大な両足を、下半身の筋肉がはち切れるかのような異常な力でガッチリと大地の岩盤深くに踏み込み、自らの身長ほどもある純ミスリルの大盾を、自身の真上の空へ向けて斜めに構える。
そして巨漢の数トンの重みのある振り下ろされた拳が、ガルドの分厚い頭蓋骨に到達する、そのコンマ一秒前の神の領域の刹那——。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉォォォォッ!!!」
ガルドが大気を震わせる獣のような咆哮と共に。全身の捻りのバネを解放し、自らの足元の大地を爆発させるようにして、下から上へ隕石をカチ上げるかのように、全魔力と筋力を込めた全力の神業の『シールドバッシュ』を上へ向けて放った。
大激突。
数百発の大砲の火薬が同時に爆発したかのような、耳を劈く凄まじい轟音の衝撃波が、二人の衝突の接点からリング状に爆発的に広がり、周囲の数百のアンデッド兵たちと地表の数百トンの土埃を、突風のように後方へ一瞬にして吹き飛ばす。
迎撃したガルドの太い両膝が、ギシギシと筋肉の悲鳴を上げて信じられない深さまで沈み込み、踏ん張った彼の足元の硬い何重もの石畳の大地が、まるで豆腐のように直径十メートルに渡ってクレーター状に陥没し粉々に砕け散った。
だが。
衝撃波の砂埃の中心。ガルドの身体は、決して潰れていなかった。
全くそれどころか、ただ力尽くで受け止めるのではなく、斜め上に重力を受け流すような絶妙すぎる盾の防御の角度と、彼自身の生物の限界を超えた規格外の純粋な筋力が完璧なベクトルで組み合わさり。巨漢のすべての質量を乗せて振り下ろされた巨大な右腕の軌道そのものが、シールドバッシュによって下から弾き飛ばされ、大きく上空の天へ向けて無防備に跳ね返されてしまったのだ。
「グ……ゴォォッ!?」
信じられない筋力の反射に、自らの数トンの振り下ろしの力のベクトルを空へと強制的に逸らされた巨漢が、完全にバランスを崩し、その巨大な胸と分厚い装甲の腹部を、無防備にレイドたちの前へ大きく晒す。
「今だリーダー、いけェェェッ!!」
筋組織が千切れるほどの衝撃の反動で口からおびただしい血を吐きながら、ガルドが全身の力を振り絞って叫んだ。
「——ここだ!! ガルド、お前の命しかと預かった!」
ただの一瞬の隙。レイドが悪魔のような疾風となって、体勢を崩したガルドのすぐ横を音もなくすり抜け。無防備にさらけ出された十メートルの巨漢の分厚い腹部の装甲の壁へと、自身の身長の何倍もの高さを鳥のように跳躍する。
目指すは、何メートルもの分厚い腐肉の鎧のさらに奥の底に堅く埋まる、黒く脈打つ命の『黒い水晶』のコアのみ。
レイドが両手で構えた長剣の刀身が、自らの残りの風の魔力の全てを極限まで刃に圧縮して吸い込み、月明かりのように白く眩しく発光する。
「風迅・穿突!」
一周目の人生で何万回と振り抜き、血まみれになって極めた、ただの一点を貫く渾身の必殺の突きが、巨漢の腹部の分厚い腐肉のど真ん中へと完璧なフォームで突き刺さった。
ブチブチブチッ! という無数の死体の肉を破砕する極めて不快な音の感触とともに、白い刃の剣先が恐るべき螺旋の速度で手応えのある腐肉をドリル状にえぐりながら深く進む。
……だが。刃が装甲の奥深くへと進めば進むほど、尋常ではない死霊の密度と圧倒的な肉の塊の質量が、剣先の威力を粘り強く殺していく。
(……浅い! まだだ!)
『五柱』の肉体。風の魔力で刃の切れ味と貫通力を人間の限界の極致まで高めても、巨大な水晶のコアの本体の殻を直接貫通するには、まだ致命的に何メートルもの厚さが残り、あと刃数インチがどうしても物理的に届かないのだ。
「レイド、くそっ、抜けねぇ!」
空中で深く突き刺さった剣を引き抜けず、体勢を崩しかけるレイド。
反動の体勢を立て直した巨漢の残る左腕の五本の巨大な指が、己の腹に突き刺さっている不快なハエのレイドを握り潰そうと、背後から凄まじい風切り音とともに迫る。
「レイド、今すぐ剣を捨てて下へどいて!!」
——その完全な死の背後への死角。上空の城壁から、レイドの命を救うリーネの悲鳴のような絶叫の詠唱の声。
レイドが反射的に剣から手を離して真下へ重力で自由落下して逃れる、そのコンマ一秒の同時。
彼女の杖から放たれた、何十もの魔力障壁を貫通するための炎と風を一つに極限まで高密度で圧縮した特大の極太の巨大な『爆風巨大槍』が。レイドの落下する身体のわずか数センチ頭上をかすめるようにして熱線となり、巨漢の腹部の刃でえぐられた同じ傷口の中心へと完璧に直撃した。
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!
レイドの一点の突きによって内部への誘導のトンネルの亀裂が入っていた腐肉の装甲の壁が、リーネの最大火力の風と爆炎の混合魔法の直撃によって、何トンもの腐肉の塊としてついに空の彼方へとド派手に一気に吹き飛んだ。
「やったわ! 装甲を完全に吹き飛ばした!」
「いや、リーネ油断するな、まだだ! 分厚い装甲の覆いが剥がれて、中の急所の核が完全に『剥き出し』になっただけだ!」
レイドが真横の空中の爆風の余波を利用して、地面に素早く美しい受け身を取りながら叫ぶ。
肉をえぐり取られて巨大なすり鉢状の穴の空いた、巨漢の広い腹部。そのさらに奥の何層もの深い闇の中。
ドクドクと不気味な心音を立てて脈打つ、バスケットボールほどもある巨大な『黒い水晶のコア』が、毒々しく強烈な紫色の光を放っている。
あれを剣で完全に砕いて機能停止させなければ、この五柱の理不尽な超再生能力によって、あのえぐれた分厚い肉の鎧もあっという間に新しいアンデッドを吸い込んで元通りの完全な壁となってしまう。
「……グオオオオオオオォォォォォォォォォォッッ!!!!!」
己のもっともか弱く大切な心臓である核を完全に外気に剥き出しにされた巨漢が。今までとは比にならない、生存本能からくるこれまでで最も重く濁った怒涛の狂乱の咆哮を空へ上げた。
同時に。その十メートルの巨体の内部から蓄積されていた致死性の最高濃度の紫色の『腐敗のガス』が、まるで火山弾のように圧縮されて一気に爆発的に四方八方へと噴出する。
「下がれ、ガルド! 今のガスの濃度は一瞬でも吸えば致死量を一瞬で超えるぞ! 肉が溶ける!」
「ごふっ、くそっ、前が全く見えねぇ! あいつ、完全に切れて暴走しやがった!」
紫色の高濃度の猛毒の濃霧が、視界を数センチ先すら見えなくさせ、北門の前の防衛線の戦場全体を嵐のように完全に覆い尽くした。
傷口を晒して狂乱状態の巨漢が、もはや指示も狙いもなく見境なしに巨大な腕で地面のあちこちを叩きつけ、巨大な足で虚空を蹴り飛ばす。周囲にいた自らの軍勢のアンデッド兵すら巻き込まれて、ただの無慘な肉の塊に何度も何度も変わっていく。
これが、あの黒い核の心臓を破壊する、最初で最後の最大の唯一の無防備なチャンス。
だが、この致死の濃度の猛毒ガスと、音だけで暴れ回るデタラメな狂乱の純粋な質量の暴力の中へ一歩でも入り込めば。あの核を砕く一秒前に、こちらが跡形もなく死ぬ。手詰まりだ。
王都の五年間で何度も味わった、『五柱』の理不尽な圧倒的戦力差という絶対的恐怖が、レイドの脳裏を冷たい汗となって一瞬だけよぎりそうになった。
——だが、その時。
「——道を開けなさい、精霊の風よ!」
はるか上空の城壁の上から響く、エルフのリーネの、自らの魂のありったけの残存魔力と寿命をすべて込めたかのような、透き通るような悲壮な絶叫。
ガスを城壁の中に入れないための巨大な壁として横に広く展開していた風の防壁が、レイドたちを守るかのように突如としてその陣形を大きく変え。まるで天を衝く嵐のような巨大なひとつの『大竜巻』となって戦場の中央へと移動し——暴走する十メートルの巨漢の巨体のすぐ周囲を、すり鉢状にぐるりと囲み始めた。
「リーネ!? 無茶だ、あんな出鱈目な規模の巨大竜巻を一人で長時間維持していたら、一瞬で魔力枯渇のショックで泡吹いて倒れてお前が死ぬぞ!」
レイドが城壁の上層を、目を大きく見開いて必死に見上げて叫ぶ。
「いいから、はやくあの中心へ行きなさいっ……! 邪魔な致死のガスは私が……限界まで……全部天に吹き散らして、あなたへの『風の道』を作ってあげるから……!」
両目の下と鼻から赤い血を流し、その細い両腕と杖をガタガタと恐怖と負担で限界まで震わせながら。それでもリーネが、決死の覚悟で歯を食いしばって必死に叫んだ。
大竜巻の強烈な上昇気流が、巨漢の体表から漏れ出る重い腐敗のガスを根こそぎ天高く掃除機のように物凄い勢いで上空へ強制的に吸い上げ続ける。
それは、ただ一時的ではあるものの。完全に視界のクリアな、巨漢とその無防備な腹のコアの一直線に至る『ガスの一切存在しない完全な真空と安全な突撃の道』が、彼女の命と引き換えに、奇跡のように戦場のど真ん中に見事に作り出された証だった。




