第42話「五年間の亡霊」
豪華な装飾が施された王都の最高級酒場の個室を、まるで氷の洞窟に放り込まれたかのような、ひんやりと重苦しい完全な沈黙が分厚く包み込んだ。
テーブルに並べられた豪奢な肉料理やスープから立ち上る温かい湯気だけが、今この空間で現実の時の流れが止まっていないということを辛うじて証明している。
「……死んで、時を溯って戻ってきた? 過去の、この時代に?」
リーネが、人間の許容できる理解のキャパシティが全く追いつかないというように、呆然とした顔でレイドのその狂気じみた言葉をゆっくりと口の中で反芻した。
「時間の逆行……そんなデタラメな魔法、何万年も生きる私たちエルフの伝承の、さらに奥深くにある神話の時代にすら聞いたことがないわ。時の流れを巻き戻すなんて、神にすら許されない宇宙規模の絶対の禁忌よ。人間の魔力の器でどうにかなる次元の話じゃないわ」
セレナが黄金の瞳を猫のように鋭く細め、言葉を紡いだレイドの顔を、毛穴の一つまで観察するように射抜く。だが、レイドのその深く沈んだ目の奥を見れば、彼が決して狂気を患ったわけでも、酒の席の悪趣味な冗談を言っている精神状態でもないことくらい、彼女の長い生きた寿命の目には明らかだった。
「信じられないのは当然だ。……俺自身、なんで自分が死んだ後にこんな神の奇跡のような現象が起きたのか、法則も条件も、誰の仕業なのかも全く分かっていない。ただ目覚めたら、あの日のベッドの上で、五年分の記憶を持ったまま呼吸をしていたんだ」
レイドは自嘲するように視線をテーブルの木目に落とし、膝の上で白くなるほど固く握りしめた自分の両手を見つめた。
「だが、これは間違いなく俺の身に起こった血の通った事実だ。俺の脳の頭の中には、これからこの世界に起きる教団による無差別の殺戮、そしてあの魔女のような化け物たちが引き起こす最悪の未来の経験の記録が、五年分、一日単位できっちりと地獄のように刻み込まれている」
「……待てよ、レイド」
ガルドが、いつもの豪快さを完全に消し去った、地響きのような恐ろしく低い声で割り込んだ。
「じゃあお前は……都合よく先のことが分かる『予知』の奇跡なんかじゃなくて。俺たちが過去にどう動いて、どう間違えて、どういう失敗をして死んだかを『お前が一人で一番近くで経験して』、その結果を知ってたってことか?」
「ああ、そういうことだ。俺に見えているのは未来の予知じゃない。俺の悲惨な『実体験の過去』だ」
レイドはゆっくりと顔を上げ、逃げることなくガルドの鋭い目を真っ直ぐに見据えた。
「一周目の歴史で、お前は三十日前のあの薄暗い古代遺跡の罠にハマり、動けなくなったリーネを庇って死んだ。分厚い大盾ごと、胸から下をキメラの強靭な顎に完全に噛みちぎられてな。……お前は笑いながら『後は頼む』って言って、大量の血を吐いて俺の目の前で死んだんだ」
ガルドの顔色からサッと血の気が引き、青ざめた。
単なる不確かなビジョンとしての予知ではなく、「自分が痛みを伴って実際に死んだ確定の過去の事実」として、レイドの口から細かく語られるその生々しい言葉の絶対的な重みは、強靭な心を持つ彼にすら、『自分の腹を今抉られているかのような』生々しい死の感覚と恐怖の錯覚を呼び起こさせた。
「……じゃあ、私は? ガルドが死んだ後、私はどうなったのよ……」
リーネが自分の肩を抱きしめるように震え、細い声で尋ねた。
「ガルドが俺たちを庇って死んだ後、お前は自分の足手まといのせいで彼が死んだと自分を責め続けて、心を深く病んだ。いつも泣いてばかりだった。そしてガルドの死からたった半年後……王都の裏路地に教団の残党の暗殺部隊が襲撃してきた時。お前は逃げ遅れた街の孤児院の子供たちを逃がすための時間稼ぎとして、自分の命と魔力を限界の数倍まで直結させた『超巨大な自爆結界魔法』を使って死んだよ。子供たちを守り抜いて、笑顔でな。……だがその威力が凄まじ過ぎて、お前の服の一片、血の一滴すら残らずに、空中で光になって消滅した。俺はそれを、遅れて駆けつけた街の屋根の上で、ただ無力に見ていただけだった」
「っ……」
リーネが衝撃で両手で口元を強く押さえ、ヒュッと肺の奥で息を呑んだ。ポロポロと、大粒の涙が美しい瞳からテーブルの上に零れ落ちる。
「セレナ。あんたはそもそも、一周目の最悪の歴史では、俺たちとは顔を合わせたことも同盟を組むことも最初から無かった」
レイドは、無言で聞いているセレナの方へ向き直った。
「俺たちがエルフの里の異常に気づいて異変の解決に到着するより一ヶ月も前に。あそこにあった『虚ろの苗床』の完全なる汚染と、教団の一級暗殺部隊の連携した大規模な襲撃によって、エルフの里は火の海になって一夜で完全に壊滅した。長老も、森のエルフも全員殺された。生き残ったあんたは一人で森の同胞すべての恨みと怒りを背負い、たった一人で命を燃やす復讐鬼となって教団を追った。そして三年後、教団の幹部一人を相打ちの道連れにして、異国の冷たい雪山の頂上で力尽きて死んだ。……たった一人、誰にも看取られることなく、孤独のままにな」
「……」
セレナは反論一つする無言のまま、テーブルの上に置かれた純銀のフォークの先端に反射する光を、ただじっと冷たく虚無の瞳で見つめていた。
彼女自身、あの『苗床』のエルフの里への急速な浸食の危機と、教団の異常な執着の事実を肌で知っているからこそ。レイドの語るその未来の末路が、単なる作り話などではなく、自分がもしあの時誰の助けも得られなければ向かっていたかもしれない『絶対にあり得た残酷な真実の最期』であることを、本能レベルで完全に理解してしまっていたのだ。
「そのお前たちが全員死んだ後も……俺はたった一人で生き残った。各地の国境で終わらない泥沼の戦争が起き、何万人という人がゴミのように死に、美しい街が次々と巨人に焼かれた。教団の使役する無敵の『五柱』の化け物たちが世界の大地を蹂躙し尽くし、五年目の最後には、完全な『虚無の王』が地下の太古の封印から完全に解き放たれて、この世界の青空が太陽ごと全て真っ黒な闇に染まった」
レイドの声が微かに、押し殺した嗚咽を漏らすように震える。
グラスを握る手の甲に、怒りと無力感で青筋が浮き出ている。
「俺は……一人で逃げて逃げて逃げ回って、泥水や虫を啜って這いつくばって、それでも剣の腕だけを磨き続けて教団のアジトに潜入し、狂ったように最期の一秒の最後まで抗って足掻いたけど。結局、俺のその小さな力じゃ、お前たちの命一つどころか、名も知らない子供の一人も、誰も救えなくて。最後は泥沼の雨の戦場の中で、教団の魔物が持っていた錆びた槍に、左の心臓を背後から深々と貫かれて……絶望の泥水の中で息絶えて死んだんだ。それが、俺の持っている『英雄の未来予知』の情けない全貌だ」
レイドの口から血を吐くように告白された『一周目』の真実。
それは、御伽噺や吟遊詩人の謳うような都合のいい英雄譚などでは決してなく。ただひたすらに理不尽で、あまりにも凄惨で孤独な、一人の男の耐え難い『地獄の巡礼の記録』だった。
聞いていた強い三人の歴戦の戦士たちは、誰もが掛けるべき慰めの言葉を完全に失っていた。彼らが今こうして当たり前に笑い合い、生きているこの平和な世界線のすぐ足元の裏側に。そんな絶対的で巨大な暗闇の絶望が、口を開けて存在していたなど、一体神以外の誰が想像できただろうか。
「だから……俺は、このやり直しの世界では、お前たち三人を絶対に何があっても死なせないと、自分の五回死ぬ命に代えても誓った。あのどうしようもない絶望の未来を最初からやり直すために、俺が知っている限りの危険という危険や死のフラグを先回りして、誰にも秘密で全部俺一人で背負って潰そうとした」
レイドは、椅子に座ったまま、三人の前で深く深く頭を下げた。
「全部俺一人に任せておけともっともらしく騙して、嘘をついて隠していて本当に悪かった。……お前たちには、俺が五年という時間で味わい、狂いそうになった『死の記憶』という名の重い十字架なんか、微塵も見せずに背負わせることもなく。ただ何も知らないまま、平和で笑って暮らせる明日だけを見せてやりたかったんだ。それが、俺の全てだ」
それは、レイドなりの狂おしいほどに純粋で、そしてあまりにも歪んだ自分本位の『思いやり』だった。
あの凄惨な記憶さえあれば、俺一人で上手く立ち回れる。自分が泥を被って嘘つき呼ばわりされ、どれだけ不自然な行動で彼らから怪しまれ疑われようとも、彼らが最後の日まで無傷で生きているならそれでよかったのだと。
しかし。
三人の反応は、レイドのその優しすぎる自己犠牲の計算を、全く予期せぬ形で真っ二つにへし折ることになる。
ドンッッッッ!!!
唐突に。
無言で聞いていたガルドの巨大な拳が、分厚い純木のテーブルを今にも真っ二つに叩き割らんばかりの恐ろしい落雷のような勢いで振り下ろされ、豪華な料理の乗った重い陶器の皿やワインのグラスが、宙に飛び上がるほど激しく跳ね上がった。
「……ふざけんじゃねえぞ、レイド」
地獄の底から響くような声とともに、ガルドが勢いよく立ち上がり。驚いて顔を上げたレイドの胸ぐらを、丸太のような太い両手でむんずと強引に掴み上げ、空中に吊し上げた。
「ガ、ガルド!? やめて!」
リーネが突然の事態に叫び、慌てて背中から止めに入ろうとするが、ガルドの怒りの炎に完全に満ちた恐ろしい眼光は、空中のレイドの顔から一ミリたりとも決して離れない。
「お前……そんな途方もねぇ世界の地獄を、自分が俺たちの死に様をただ無力に見送って逃げるしかなかった五年間を……全部、誰にも言わずにたった一人で抱え込んで死のうとしてたっていうのか?」
「……ッ、俺は別に、そんなつもりじゃ……」
「黙れ! 俺たち親友を、ナメるのも大概にしとけよ! お前自身の心が未来の記憶ってやつに押し潰されて壊れかけてるのにも気づかねぇで! 自分が全部嘘をついて背負えば万事上手くいくなんて……そんな安いおままごとみたいな英雄の悲劇を演じて勘違いしてんじゃねえぞ、この大馬鹿野郎が!!!」
ガルドの魂からの怒号が、王都の高級酒場の分厚い壁と扉を貫通し、悲痛な怒りの雷のように、重く、どこまでも熱く激しく響き渡った。




