第41話「英雄の帰還と兆し」
王都アロリアの空を完全に覆い尽くしていた『虚ろの魔女』の絶望という名の分厚い黒雲が消え去り、澄み切った青空が戻ってから数週間後。
王都は、信じられないほどの驚異的なスピードと活気で復興作業を進めていた。
ヴェイン伯爵邸を中心とした貴族街の一部には、魔女の放った理不尽な魔力の雷光によるガラス状の巨大なクレーターや、ドロドロに溶けた城壁など、強烈な破壊の重い爪痕がまだ生々しく残っている。しかし、そこを片付けるために行き交い、瓦礫を運んで汗を流す街ゆく人々の顔に、不思議とあの夜のような暗い絶望の色はない。
それどころか、復興の槌音が響く王都の空気は、これまでこの街が経験したことのないほどの熱気と、ある種の異常なまでの『熱狂』に包まれていた。
「おい、見たかよ! あいつらが『銀白の大盾』と『風の乙女』だ!」
「隣を歩いてるのがエルフの百発百中の美しき射手と……真ん中で面倒くさそうにしてるのが、あの一撃で百人を消し飛ばす『魔女の雷光』を剣一本で斬り裂いて追い払ったっていう、黒髪の無敗の魔法剣士だろう?」
「名もなき冒険者のたった四人だけで、王都を裏切った貴族様の私兵部隊を壊滅させて大暴れして、あまつさえあの天災みたいな化け物まで真っ向から追い払っちまうなんてな! いやぁ、本当に生きた英雄様ってのはいるもんだぜ!」
王都の正門から、ギルドの総本部へと続く広く美しい大通り。
レイドたち四人が並んで歩くたびに、沿道に詰めかけた周囲の群衆から、王族の凱旋パレードすら凌駕するほどの、耳をつんざくような割れんばかりの歓声と、雨あられのような拍手喝采が巻き起こっていた。
「……何よこれ。ちょっと見世物みたいで、歩きにくすぎない? そもそも私たちのこと、一体どうやってこんなに詳しく調べ上げたのよ」
セレナが深緑のフードを目深に被り、殺到する人々の視線から尖った耳を隠すようにしながら、ひどく居心地悪そうに華奢な肩をすくめる。
「仕方ねえだろ! 王都の騎士団長様が直々に『あいつら四人は、この誇り高き国と民の命全てを救った本物の英雄だ!』なんて、酒場から広場まで涙ながらに大声で触れ回っちまったんだからな。噂に尾ひれがついて、俺の大盾なんて『竜のブレスを十回弾く聖盾』なんて噂になってるらしいぜ!」
ガルドは豪快にガハハと笑いながら、周囲の熱狂する市民の子供たちに向けて、軽く大きな手を振り返している。
治癒院で三日間寝込んだ原因だった左腕の砕けた骨のギプスは、過酷な回復魔法の連続投与によりすでに綺麗に外れ、右手には真新しい超高硬度のミスリルの大盾を苦もなく背負って歩くその威風堂々たる姿は、完全に元の頼もしい『ガルド』だった。
「でも、さすがに噂に尾ひれがつきすぎて少し大袈裟ですよね。雷光を剣で斬り裂いたなんて……実際は、私たちはあの瓦礫の中で、レイドの重傷やら魔力の枯渇やらで、ただひたすら生き残るだけで必死に泥を這いずり回っていただけなんですけど……」
リーネが苦笑しながら、新調した真っ白で上質な魔術師のローブの裾を握り、レイドのほうをちらりと横目で見上げた。
レイドもまた、魔女の猛攻で完全に砕け散っていた胸の肋骨の結合が完全に終わり、剣を両手で力強く振るうのに何の支障もない状態まで、特例の最高級の治癒魔法によって完全に回復していた。
だが、彼のその横顔はどこか冷たく固く、周囲の熱狂的なお祭り騒ぎの喧騒を、うまく自分のものとして受け流せていないように見えた。その漆黒の瞳には、英雄の凱旋とは程遠い、何か重いものを飲み込んだような暗い陰りがわずかに落ちている。
「レイド? どうしたの、顔色が少し悪いわよ。またどこか胸の古傷が痛むの? もう治癒院で診てもらった方が……」
リーネがレイドの袖をそっと引き、心配そうにその顔を覗き込む。
「……いや、傷は全く問題ない。ピンピンしてる。ただ、俺たちなんてこんな大層な英雄なんて呼ばれる柄じゃないと、心底身の程を弁えて思ってな。……ちょっと胃が痛いだけだ」
レイドは口元を歪めて無理に笑みを作り、視線を沿道から外してまっすぐ前へ向けた。
一周目の凄惨な記憶。
あの未来では、ガルドは冷たい遺跡の暗闇で無惨に死に、リーネもセレナも次々と己の無力さの中で情けないほどあっけなく命を落とし、最後には世界そのものが五柱の手によって文字通り灰になった。
その時、自分は仲間の一人すら、たった一つの命すら、何一つ守れなかったのだ。ただ醜く生き残り、血と泥に泣きながら這いつくばって五年を生き恥として晒し、最後に無名のまま野垂れ死んだだけの『史上最低の敗北者』に過ぎない。
(俺は英雄なんかじゃない。ただ、誰よりも残酷な未来のカンニングペーパーを握りしめながら、必死で自分一人だけテストの書き直しをしてるだけの、ずるい臆病者だ……)
「おいおい、レイド!」
不意に、ガルドの分厚く重い手が、レイドの背中を肺から空気が抜けるほどバンッと力強く叩いた。
「そんなお通夜みてぇな、しけたツラすんな! 俺たちは全員無事に生きて、この巨大な王都中の何十万っていう人間の命を確かに守り抜いたんだ! それは紛れもない事実だろうが! 今日はギルドでたんまりと分厚い報奨金の金貨の袋をもらって、この王都で一番高い店を貸し切って、一番美味い肉と酒を腹がはち切れるまで食うぞ!」
「ちょ、勝手にお金の使い方を全部酒と肉に一瞬で決めないでよガルド! 私たちの壊れた武器のメンテナンス代や、新しい魔石の購入資金だっているんだからね! ちゃんと計算して!」
リーネが慌ててガルドの太い腕にぶら下がるように掴みかかり、その後ろでセレナが「本当に、男って生き物はどこまで行ってもバカばっかりね」と呆れ半分で美しく笑う。
そのいつもの騒がしくも温かい日常の光景を見て、レイドの胸の奥で、黒い鉛のように凝り固まっていた重い自己嫌悪の痛みが、静かに熱を帯びて溶けていくのを感じた。
——そうだ。俺がどんなに卑怯な手段を使おうと、過去をズルしてやり直そうと関係ない。
この今目の前にある彼らの眩しいほどの笑顔を守るためなら。そのためだけに、俺はあの絶望の五年間という長すぎる地獄を死に物狂いで生き抜いて、ここへ戻ってきたんだ。過程はどうあれ、この結果だけは誰にも否定させない。
王都ギルドの巨大な総本部の重厚な扉を潜ると、彼らはいつも通される騒がしい一階の窓口や支部長室などではなく、最上階の奥の奥にある、いまだかつて入ったことのない、防音の魔法結界が何重にも施された『ギルドマスターの特務室』へと直接丁重に案内された。
そこで四人の到着を待っていたのは、テーブルの上に山のように積まれた、見たこともない額の莫大な報奨金の金貨が入った革袋の束と……それ以上に重い「王都直轄のA級冒険者への特例昇格」という、前代未聞の信じられない特権を持った四枚の黄金のギルドカードだった。
「君たちのように規格外の力を持った若者たちが、これからの世界には必ず必要になる。王家の総意も、ギルド本部もそう満場一致で判断したのだ。受け取ってほしい」
初老の百戦錬磨の戦士であるギルドマスターの言葉は、ただの称賛以上の重く暗い響きを含んでいた。
彼らもまた、今回の事件で王都の中枢にまで入り込んでいたヴェイン伯爵の背後にいた『世界を滅ぼす教団』の狂気的な存在と、あの日空を覆った規格外の魔女というイレギュラーな超絶的な脅威に対して、国家存亡の強い危機感を抱いていたのだ。
特務室を出た後、報奨金で懐が急に暖かくなった四人は、王都アロリアで最も高級な貴族御用達の酒場の、最上階の見晴らしの良い豪華な個室を完全に貸し切りにし、ささやかな(ガルドにとってはこれ以上ないほど豪快な)祝勝会を開いた。
「私たちの、A級昇格と生還を祝して! かんぱーい!!」
リーネの明るく弾けるような声と共に、何十年ものと思われる最高級の琥珀色のエールと、グラス一杯で銀貨が飛ぶような上質な赤ワインのクリスタルグラスが、澄んだ美しい音を立てて鳴る。
「くぅ〜っ! やっぱ最高の死線を越えて生きた後に飲む、このキンキンに冷えた一番高い酒は最高だな! 胃の腑に染み渡るぜ!」
「ガルド、あんまり最初から大ジョッキで飲みすぎないでよ。また後で酔い潰れて、私が貴重な治癒魔法でアルコールを強制的に飛ばして介抱する羽目になるんだからね」
「ふふっ。今日くらいいいんじゃない? 私も今日は弓を置いて、珍しく少しだけお酒をいただこうかしら。エルフの里にいた頃以来ね」
磨き上げられたオーク材のテーブルの上には、四人では到底食べきれないほどの、香辛料の効いた巨大な骨付き肉料理と、新鮮な海鮮の盛り合わせの皿が所狭しと並べられている。
にぎやかな宴の中心で、レイドだけは静かに最高級のワインの入ったグラスを片手に傾けながら、三人の笑顔を順番に、まるで一枚の絵画を記憶に焼き付けるように静かに見つめていた。
「レイド? どうしたの、さっきから何もずっと全然食べてないじゃない。まさか、A級に上がって急にお行儀が良くなったの?」
リーネが不思議そうに首を傾げ、串焼きの肉を口に運びながら尋ねる。
レイドはグラスをゆっくりとテーブルのコースターの上に置き、深く、そして過去のすべてを清算するような長い息を吐いた。
あの血みどろの病室で、最後に彼らと約束したこと。
『もう絶対に、一人だけでは死なない』『俺の持っている秘密の全てを、嘘偽りなくお前たちに共有する』という約束。
『都合よく未来が見える予知能力』などという、彼らを傷つけないための優しい嘘でごまかし続けるのは、もうここが限界の線引きだった。
あの五柱の魔女の襲撃という巨大なイレギュラーの出現で、レイドが未来の知識を使って歴史を無理に捻じ曲げたことによる『未知の脅威の時間軸による前倒し』が現実になってしまった以上。これから先、中途半端な自分だけの情報による『安全な先回り』など通用しない。情報を一人で抱え込むことは、かえって彼らを致命的な想定外の危険の渦の中心に無防備に放り込む結果になってしまう。
もう、俺一人だけのカンニングは終わったのだ。
「……ガルド、リーネ、セレナ。酒の席で悪いが、少しだけ真面目な話を聞いてくれ」
レイドの声のトーンが、突然、先ほどの酒場のものではないほどに低く、かつてなく真剣で重たいものに変わった。
そのただならぬ指揮官としての響きに、ガルドは肉をかじる手をピタリと止め、セレナは不審そうにワイングラスを静かに置いた。
「どうした、急に改まって。お前のその顔は、ダンジョンのボス部屋の前よりもシリアスだぞ」
ガルドが太い眉をひそめ、真顔で身を乗り出す。
「治癒院の病室で、俺は『未来の危険が都合よく見える能力がある』という話をしたな」
「ああ。そのおかげで俺はあの暗い遺跡で、キメラと相打ちにならずに無傷で済んだし、王都も教団の連中の奇襲から救われた。俺はお前のその不思議な異能には、心底感謝してるぜ。おかげでこの美味い酒が飲めてるんだからな」
「それは……嘘だ。俺に未来視なんて便利な能力はない」
レイドが落とした、あまりにも唐突な爆弾のような一言に。先ほどまでの喧噪が嘘のように、広い個室は水を打ったようにシンと静まり返った。
「嘘って……じゃあ、あのキメラの場所も、伯爵の計画も、どうやって知ったっていうのよ?」
リーネが困惑したように瞬きをする。
「俺は、便利に未来を『見ている』んじゃない」
レイドはテーブルの上で両手をごまかすように強く握り締め、自分の中に五年間ずっと一人で塞ぎ込んでくすぶり続けていた、黒いタールのように重く苦しい記憶の塊の扉を、ついに彼らの前で開け放ち、吐き出した。
「俺は……『一度、この世界が五柱と教団に滅ぼされる最悪の未来』を、お前たちが全員死んだ後も五年間の果てまで一人で最後まで戦って生きて、そして絶望の中で死んで……この時代、五年前に『一人で記憶を持ったまま戻ってきた(死に戻ってきた)』んだ」




