第40話「信じる理由」
再び王都アロリアの王宮治癒院。
あの魔女との死闘から三日後。レイドは治癒術師たちも驚くほどの回復力を見せ、集中治療室から一般の個室へと移されていた。
窓の外には、戦いの爪痕がまだ生々しく残る王都の街並みが広がっている。崩れかけた屋根や黒焘げになった壁が散見されるが、職人たちがすでに復旧作業に取りかかっており、槌の音と市民たちの敬しい声が遠くから聞こえてくる。
秋の澄んだ青空が窓から差し込み、病室を柔らかな光で満たしている。あの夜の不吉な紫色の空が嘘のようだった。
レイドはベッドの上でゆっくりと身を起こした。全身を襲っていた激痛は、今は鈍い痛みに変わっている。胸の骨が五本折れ、太腿には魔女の雷撃が貫通した穴が空いていたはずだが、リーネの治癒魔法とセレナの精霊魔術による浄化が、彼の肉体を驚異的な速度で修復したのだ。治癒院の医師たちは、彼の回復力を「奇跡」としか表現できなかった。彼らはレイドの肉体が持つ生命力の強靭さに舌を巻き、その回復過程を詳細に記録しようと躍起になっていたが、レイド自身はただ淡々とそれを受け止めていた。
「まったく、無茶苦茶な回復力ね。人間の生命力なんてこんなものかと思ってたけど、あなただけは特別みたいよ。胸の骨が五本折れて太腿に穴が空いてたのに、もう自分で起き上がれるなんて」
窓辺の椅子に腰掛けてリンゴを丁寧に剥きながら、セレナが呆れたようにため息をつく。その声には、安堵と、そしてどこか諦めのような響きが混じっていた。彼女の金色の瞳は、窓の外の復興作業を眺めるレイドの横顔をじっと見つめている。
エルフの細い指が林檎の皮を途切れることなく一本の螺旋に仕上げていく。その動きは淀みなく、まるで芸術作品を作り上げるかのようだった。剥かれた皮は、まるで生き物のようにくるくると丸まり、やがて皿の上に静かに置かれる。その完璧な手つきは、彼女がどれほど集中してこの作業に取り組んでいるかを示していた。
「リーネの治癒魔法と、お前の精霊の浄化魔術のおかげだろ。俺の生命力がどうこうってわけじゃない。それよりガルドの腕はどうなった?」
ベッドの背もたれに寄りかかりながらレイドが尋ねると、まるでそれが合図だったかのように、病室の扉がバンッと勢いよく開け放たれた。
「よう! 飯食ってるか、レイド!」
左腕のギプスが半分ほど軽くなった——だがまだ完全には治っていない——ガルドが、大量の串焼き肉を両腕いっぱいに抱えて入ってきた。王都市場の名物店で買ってきたらしい。
その後ろには、追加の包帯や薬草の包みを几帳面に抱えたリーネが、「もう勝手に走らないでよ」と苦笑いしながら続いている。
「治癒院長に怒られるわよ。重症患者の病室にそんな脂っこい肉を持ち込むなんて」
「俺たちの身体は肉と骨と筋肉で作られてんだ! 食わなきゃ治らねぇだろ! 治癒院の飯はスープとパンだけで力が出ねぇんだよ!」
ガルドが豪快に笑いながら、レイドのベッドテーブルの上に串焼きの山をドンと置いた。
塩と胡椒で味付けされた肉の焦げた芳しい匂いが、薬品臭い病室に一気に広がる。
リーネが「ちょっとガルド! テーブルの上に直接置かないでよ、紙くらい敷いて!」と慌ててナプキンを広げている。
「……王都の最高級の肉か。まあ、悪くない」
レイドは微笑み、まだ痛む右腕をゆっくり伸ばして一本手に取った。
かぶりつくと、肉汁が溢れ出し、舌に濃厚な旨味が広がる。治癒院の淡白なスープとは比べ物にならない。
「旨い……」
「だろ!? 言ったろ、肉は正義だって!」
病室に、和やかな笑い声が響いた。
数日前の絶望的な死闘が嘘のような、穏やかな時間。
あの夜、ヴェイン伯爵邸への強襲と魔女の出現は、王都では『教団の過激派による大規模テロ未遂事件』として公式に発表されていた。
教団の真の目的である世界崩壊の企みや、五柱という絶望的な脅威の存在については、王家と異端審問機関の上層部によって意図的に伏せられている。パニックを防ぐためだ。
騎士団の死者百名は「教団の暴走魔法による犠牲」とされ、盛大な国葬が行われた。
だが、レイドたち四人だけは、全ての真実を知っている。
一周目の法則を大きく歪め、本来あと半年以上は眠っていたはずの『天災』を前倒しで引き寄せてしまったことも。
そして、それすらも四人の力を合わせれば覆せる可能性があることも。
「おい、レイド」
ガルドが串焼きの骨をポイと捨て、急に真剣な目つきになった。
「あの魔女、最後になんて言ったか覚えてるか?」
「ああ。『五柱が本格的に動く時、貴様らの姑息な努力など一瞬で灰になる』だったか」
「負け犬の遠吠えにしちゃ、背筋が凍るような声だったぜ。……お前の『予知』じゃあ、あいつらが何人いるかとか、いつ攻めてくるかとか、そこまでは分かんねぇんだろ?」
レイドは串焼きの最後の一切れを飲み込み、目を伏せた。
一周目の記憶では、五柱は五人。それぞれが『虚ろの魔女』と同等の、あるいはそれ以上の災害級の力を持っている。
そして本格的な侵攻がいつ始まるかは——今回のようにレイドの歴史干渉で全てが前倒しになった以上、もはや一周目の記憶では全く予測がつかない。未知の領域に踏み込んでいるのだ。
「……五柱ってくらいだから、五人はいるだろうな。いつ動くかは分からないが、おそらく、この大陸だけじゃなくこの世界全体が標的になる。教団の最終目標は世界の完全な消滅だ。あの魔女が見せたあれは、まだそのほんの序の口に過ぎない」
「スケールが大きすぎて想像もつかないわね」
リーネがため息を吐き、残りの串焼きをつまんだ。
「でも、分かることが一つあるわ」
セレナが剥き終わったリンゴをレイドに手渡し、金色の瞳をすっと細めた。
「レイドが『一人で全てを抱え込んで犠牲になろうとする』限り、私たちは絶対に勝てないってこと。違うかしら?」
核心を一撃で突き刺す言葉。
レイドは無言でリンゴを受け取り、その真っ赤な表面を見つめた。やがて、小さく笑った。
「その通りだ。……俺の予知なんて、お前たち三人の力がなきゃ何の意味もないクソみたいな情報だ。あの魔女の雷光を防げたのも、触手を断ち切れたのも、俺の指示じゃなくて、お前たちの土壇場の機転と意地だ。俺は……ただ剣を振り回してただけだ」
レイドは三人の顔を、順番に真っ直ぐ見つめた。
「俺はもう二度と、一人じゃ死なないし、一人で抱え込まない。お前たちのことを……心から、信頼する。これは死に戻りの記憶じゃなくて、今の俺自身の意志だ」
それは、一周目では一度も口にできなかった本心だった。
彼らを生かすためだけに自分がただの装置になるのではなく、同じ人間として、同じ地平の上で戦う覚悟。
ガルドがニヤリと笑い、大きな右手で拳を突き出した。リーネが照れ隠しに顔を背けたが、その耳まで真っ赤になっている。セレナが優雅に頷き、静かに微笑んだ。
「——さあ、食え食え! 傷を治して、また次の冒険だ! 肉はまだまだあるぞ!」
「だからうるさいってば、ガルド! 治癒院の先生たちに怒られたらあなたが謝るのよ!」
王都アロリアの窓から差し込む午後の青空に、四人の屈託のない笑い声が溶けていく。
『虚無の教団』との本当の戦いはこれからだ。
五柱の残りの四人が本格的に動き始めた時、この世界は一周目と同じ地獄に堕ちるかもしれない。
だが、今のレイドの心に、一周目の亡霊のような恐怖はもうない。
頼もしい仲間が、すぐ隣で笑ってくれているからだ。
(第二章 完)




