第39話「傷跡」
数分前まで王都アロリアの空気を恐怖で震わせていた、心臓を鷲掴みにされるような五柱の圧倒的な威圧感が、大きく開いた真っ黒な夜空の亀裂の彼方へと音もなく遠ざかって消えていく。
空に穿たれた異界の黒い亀裂が完全にスゥッと閉じ、見慣れた美しい星空が戻ったことで、王都アロリアの街にようやく本物の静寂と安堵の夜風が戻ってきた。
魔女の魔力によって完全に凍りついていた空の大気が再び動き始め、魔法の直撃によって無慘に破壊された屋根や建物の瓦礫の隙間から立ち昇る無数の黒い煙が、ゆっくりと優しい夜風に吹かれて流されていく。
半分が溶け落ちて崩れた屋根の上で。四人の冒険者たちは、その場にへたり込んだまま荒い肩で息を何度も繰り返しながら、互いが生きてそこにいるという事実の無事を確かめ合うように視線を交わしていた。
誰が見ても、四人全員が満身創痍という言葉すら生ぬるい状態だ。
ガルドが自慢にしていた分厚い新品の大盾は、もはや元が平らな板だったとは思えないほどに中央が高熱でグニャリと変形し、銀色だったミスリルの表面がドロドロの黒焦げに溶けている。リーネの愛用していた見事な白樺の杖は、過剰な魔力の酷使により根元の魔石部分からバキバキに真っ二つにひび割れ、これ以上の魔法は二度と使えそうにないただの棒切れになってしまった。セレナがいつも背中にパンパンに詰めている矢筒の中身は、一本残らず完全に空っぽだ。
最前線で捨て身の攻撃を仕掛けたレイドに至っては、もはや身体のどこが無事な場所なのかを探す方が難しいほどの、目も当てられない重傷だった。左の太腿には槍が貫通した大きな黒い穴が空き、右肩の筋肉は抉れて血肉を晒し、胸の肋骨は数本が粉々に砕けて呼吸のたびに激痛を放っている。全身の服はボロボロに裂け、血で真っ赤に染まっていた。
それでも。神のような化け物と真っ向からやり合って、四人全員の心臓が今も確かに動き、「生きている」。彼らにとっては、それだけが今はただ何よりも尊く、大切なことだった。
「……信じられない。私たちが、四人だけであんな天災みたいな頭のおかしい化け物を、追い払って生き残ったなんて」
リーネが魔力切れによる極度の疲労でブルブルと震える指を、自分の膝の上で強く握りしめながら、夢心地のように呟いた。
彼女の美しい顔面は血の気が引いて真っ新な紙のように蒼白で、額には恐怖の脂汗が浮き、唇は寒さと魔力枯渇でガタガタと震えている。あの魔女に対する根源的な恐怖と、生き残った興奮と、底知れない安堵が、全てごちゃ混ぜになって彼女の小さな全身の感情を支配していた。
「おいおい、私たちが力で追い払ったんじゃねぇよ。あれは結果的に、伯爵がやった召喚の儀式がクソ不備だらけで、向こうの魔力の時間切れになって強制送還されただけだろ。悔しいが……あのまま後五分まともにやり合ってたら、俺たちの全員の命で勝てたかどうか、正直全くわかんねぇな」
ガルドが変形して使い物にならなくなった相棒の大盾を、瓦礫の上にガタンと重い音を立てて下ろし、頭を掻きながら苦笑いする。その屈強な全身は砂埃の泥と流れた血と黒い煤にまみれ、超威力の魔力と熱を防いだために焼け焦げたプレートアーマーの隙間から、彼自身の焼けた赤い肉が痛々しく覗いている。
それでも、彼のその四角い表情の造形はどこまでも晴れやかだった。絶対的な絶望の死線を超えた者だけがその顔に宿すことができる、一点の曇りもない透き通った充実感が、彼の太い眉と瞳の間に深く刻まれている。
「それでも。この世界で私たち人間が、誰も傷つけたことのない五柱の魔女の顔に、確実に剣の傷を負わせたのは紛れもない歴史の事実よ」
セレナが空になった軽い矢筒を背負い直す位置を調整し、長年相棒としてきた愛用の弓の張りの落ちた弦を細い指で労るように丁寧になぞりながら、凜とした声で言った。
「長い森の記録のエルフの歴史上でも、教団の最高幹部である五柱と顔を合わせて直接やり合って、一人も欠けずに生き延びたという記録はどこを探してもないわ。あなたたちは自分の今日成し遂げた不可能な偉業に、もっと大いに評価して胸を張るべきことね。……まあ、優秀な弓引きである私も、当然そこに含めての四人という話だけどね」
普段は冷静で厳しい顔つきを崩さないセレナの口元に、珍しく、誇らしさと照れが入り混じったような、年相応の柔らかい微笑みが浮かんだ。
その言葉の通りだ。彼らは一周目のレイドの記憶では絶対に成し得なかった、最初の大きな歴史の壁を自分たちの力で完全に飛び越えたのだ。
その時。崩れかけた建物の下方の道路から、瓦礫を踏む複数の激しい軍靴の足音と、ガチャガチャという鎧の重い金属音が慌ただしく聞こえてきた。
魔女の無差別な殲滅攻撃の魔力波から生き残った王都第一騎士団の兵士たちが、半壊した建物の危険な残骸を泥だらけになって踏み越えながら、四人のいる高い屋根に向かって急造の長い梯子をかけて何人も登ってきたのだ。
先ほどの魔女の不可解で理不尽な光の攻撃で、優秀な部隊の三分の一を一瞬で灰にして失った彼らの生気のない顔には、未知の脅威への恐怖と、連戦の激しい疲労と、それでも自らの命を見境なく投げ出して王都を外敵から守り切ったという、安堵の色が複雑に入り混じっていた。
「そこな者たち! 返事をしろ、無事か!」
重装の特注の銀鎧を着た部隊長の騎士が、梯子から剣を鞘に納めたまま顔を出し、屋根の上で座り込む素性の知れない四人の冒険者の姿を見て、信じられないというように目を丸くした。
高熱で崩壊しガラス状になった最悪の屋根の上に転がる、全身ボロボロで装備も壊れた四人の冒険者たち。見るからに出血多量で瀕死の重傷者が二名。しかし、その信じがたい爆心地の中心にいて、その泥だらけの顔の全員が確かに「生きている」のだ。
「悪いが声を出さないでくれ、頭に響く。怪我人が三人、ピンピンしてるエルフが一人だ。見ての通り、全員死にかけてボロボロだよ」
レイドが瓦礫の上にだらしなく大の字で寝転がったまま、どうにか右手をヒラヒラと怠惰に挙げてみせた。
叫びすぎたせいで声すらまともに出ない。砕けた胸のせいで、喉の奥に血の味が溜まっている。
「君たちが……この爆心地にいて。先ほどの、第一部隊をたった一撃で消し炭にした、あの絶対的な魔力を持つ妖女を退けた、というのか……!?」
信じられない、いやとても信じたくないといった顔で、部隊長の騎士が周囲の異様な焦土を見渡す。
王都の景観を彩っていた立派な屋根も分厚い石の壁も完全に溶け落ち、足元の硬い石畳は一面が黒いガラスに変わっている。自身の部下である第一騎士団が百人束になっても一秒で一瞬で消し飛ばされた、純粋な魔力の暴力の嵐の中で。どうして名の知られていないただの四人の野良冒険者が、こんな中心地で生存できているのか、彼ら王都の精鋭の常識の範疇では全く理解不能だったのだ。
「まさか。ただの偶然の事故さ。俺たちの目の前で、あの化け物が勝手に魔法陣ごと空間崩壊のエラーを起こして、勝手に空間に自滅して消えていったんだ。俺たちは雷光の瞬間に、たまたまそこの分厚い丈夫な瓦礫群の陰に飛び込んで隠れたから、運良く黒焦げにならずに無事だった、それだけだよ。……日頃の行いが良くて、少し運が良かっただけだ」
レイドが痛みを隠して平然と嘯く。
こんな大勢の騎士の前で、下手に「名もなき俺たちが五柱の魔女と真正面から戦って傷を負わせて追い払ってやった」などと自慢気に吹聴してしまえば、間違いなく王都や貴族からの余計な政治的干渉や、王家直属からの厄介な監視を招きかねない。のみならず、各地に散っている教団の狂暴な残党からも「五柱の顔を傷つけたイレギュラーな大罪人」として最優先の暗殺標的として組織的に狙われることになる。五柱という国家を揺るがす圧倒的な脅威と自分たちの実力については、今はまだ自分の心の中だけに伏せておくべきだと、レイドの冷徹な指揮官としての頭脳が悪だくみのように瞬時に判断した。
「それは……そうか、召喚魔法の不備による魔力暴走による自滅か。なるほど、そうとでも合理的に考えなければ、部隊が全滅したのに君たちだけが生き残っているという、到底説明のつかないこの爆心地の光景だったからな」
部隊長の騎士は、自分の納得できる答えを出されて深く安堵したように長い息を吐き、勇敢なる四人の市民に向かって敬意を込めて右手を胸に当てる騎士の敬礼をした。
「ともあれ、先ほどの報告でヴェイン伯爵邸の地下を含む全ての制圧は完了した。屋敷から逃げ出そうとしていた教団の残党の暗殺兵たちも、被害は出たが全て拘束されている。……今夜、我らが誇る王都はどうにか守られたのだ。貴殿ら四人の無事を心から祈る。歩けまい、今すぐ下で待機している騎士に命じて、中央治癒院へ優先して緊急搬送の手配をしよう」
「ああ、悪いがそうしてくれると最高に助かる……正直話すのもしんどくて、もう指一本動かせない」
レイドはホゥと短く息を吐き、静かに空に向けて目を閉じた。
教団の企みは潰え、多くの犠牲は出たが王都という多くの命は守られた。
俺が無理に歴史改変を行った代償として出現した、『五柱の一角・虚ろの魔女』という巨大すぎる想定外のイレギュラーを前にしても。自分の命を——そして何より、絶対に守ると誓ったガルドたちの命を——一つも欠けることなく繋ぐことができた。
振り返れば、あの血みどろの一周目の記憶では、この時間軸の段階でガルドは遺跡の最深部でとっくに冷たい土の下で眠っていた。それが今、俺の過去に逆らった介入によって、こうして隣で泥と血にまみれながら、うるさく心底楽しそうに笑っている。
その事実が、砕けた肋骨の痛みなど吹き飛ぶほどに、途方もなく胸の奥底から愛おしかった。
「おいおい、レイド。こんな硬い瓦礫の上でまた目ぇ開けろよ。眠りに落ちんのか?」
近くから聞こえたガルドの声に、レイドはゆっくりと重いまぶたを上げる。
「あんだけ治癒院で三日間も死んだように寝た後に、こんな場所でまた寝るとか、冒険者としちゃ贅沢すぎるだろ。これからまた嫌な薬漬けの治癒院にトンボ帰りだぜ。で、お前、自分の体の胸の骨どうなってるんだ?」
「……自分でも自分の心臓がどこに転がってるのか分からないくらい痛くて息ができない。あと、見ての通り太腿に黒い風穴のクレーターが空いてる」
「ハッハッ! そりゃ重症だ! しゃあねぇ、立てない死にかけのひ弱なお姫様は、この怪力ガルド様が治癒院まで特別に背負って運んでやるよ! こい、ほら乗れ!」
ガルドがまだ使える頑丈な右腕で盾を放り出し、瓦礫の上にしゃがみこんで、広く厚い泥だらけの背中をレイドに向けた。
リーネが「ちょっと! あなたの足もさっき膝の骨折れたばっかりでボロボロでしょガルド! 無理してまた倒れないでよ!」と慌てて背中を叩き、セレナがその後ろで「本当に無茶ばかりする似た者同士ね、この頭の悪いバカ二人の男は」とわざとらしく呆れたように笑いながらも、二人を支えようと手を伸ばす。
「……背中、頼むわ」
レイドは肩をすくめ、観念したようにガルドの熱く広大な背中に、痛む身体を深く身を預けた。
頬に触れるゴツゴツとした硬い金属の鎧の冷たい感触と。汗と流れる血と、土の泥が混ざった、生命力にあふれた男臭い匂い。
一周目のあの日では。この大きな背中は冷たい遺跡の石畳の上で倒れ伏して硬直し、俺がどれだけ叫んで体を揺すっても、二度とその優しい温かさを取り戻すことがなかった。
あの日の絶望の底で。無力な俺は、この動かない背中の上で徐々に冷たく流れて増え続ける血の小さな赤い染みを、ただ呆然と、涙を流すことすらできずに見つめていることしかできなかったのだ。
(——生きてる。こいつの脈も、呼吸も、熱も。こいつは確かに生きている。この大きな背中は、こんなにも温かい)
レイドの漆黒の瞳から、自然と張り詰めていた安堵の糸が切れ、熱い涙のひと雫がこぼれ落ちそうになるのを。明け方の少し冷たい王都の風が、誰にも気づかれないように優しく撫でて冷ましていった。
王都アロリアの東の空の果てから、太陽の光がゆっくりと闇を切り裂き、白み始めている。
教団の襲撃という長く最悪だった夜が完全に終わり。四人の生き残った仲間たちの新しい明日が、ガルドの力強く踏みしめる確かな足音と共に、瓦礫の街から始まろうとしていた。




