第38話「四人の意地」
上空へ飛び上がったレイドの、筋繊維を千切りながら放たれた渾身の長剣の刃は、魔女の纏う漆黒のドレスが常に全方位に展開している極めて強固な不可視の魔力障壁を、まるで厚い鉄板に錐を揉み込むようにギリギリと強引に刳り抜けながら進んだ。
一周目の凄惨な五年間で、生き残るために文字通り死に物狂いで磨き上げた剣技の全てを、刃の切っ先の一点のみに完全に注ぎ込んだ必殺の一撃。それでも、この世界を滅ぼす五柱の一角である魔女の絶対防御は、たった一人の人間の刃ごときでは容易にその分厚い皮一枚さえも貫通させてはくれない。
銀の魔石を練り込んだ剣の刃先と、高密度の見えない魔力の障壁が激突し、硬い金属と硬質なガラスが猛烈な勢いでこすれ合うような、耳をつんざく不快で甲高い不協和音が、王都の夜空の全体に響き渡る。
レイドが渾身の力で長剣の刃先を突き込み、障壁にミリ単位でめり込むたびに、反発した異様な黒い火花がバチバチと爆発するように散り、剣を握るレイドの両腕には、まるで巨大な城壁の岩を素手で力一杯殴りつけているかのような、強烈な骨の砕ける衝撃が絶え間なく跳ね返ってくる。
「……身の程を知りなさい、汚らわしい下等生物の虫けらがッ!」
魔女が氷のような瞳に怒りを宿し、無造作に右腕の袖を横に大きく薙いだ。
左肩の触手からの膨大な魔力供給が一時的にセレナの矢で断たれた状態とはいえ、五柱の一角たる彼女自身が放つ純粋な魔力波の波動は、強引に叩きつければそれだけで王都の広い一区画の建物を軽く吹き飛ばすほどの、絶対的なただの『暴力』だ。
空を無防備に飛ぶレイドを、鬱陶しい無力なハエのように一撃でまとめて叩き落とし木っ端微塵に砕き潰そうとする、強大な魔力による死の平手打ち。
高密度に圧縮された黒い魔力の見えない巨大な壁が、レイドを一瞬でミンチにする圧倒的な速度と質量で横から迫ってくる。
(——来る! 俺の力じゃ躱せないほどの規模の面制圧!)
「リーネェェェッ!」
「分かってる! これで全部よ! 結界、私の命込みの十層圧縮ッ!」
レイドが空中で仲間の名前を叫んだ、ほぼ同時の瞬間。眼下の地上に残って瓦礫にへたり込んでいたリーネの杖が、過剰な魔力でバキバキと音を立てて砕け散りながらも。彼女自身の限界という壁と血管を強制的に突破した、レイドの身体のすぐ前方を覆い尽くす多重結界を空中に強行構築した。
リーネの体内のありったけの残存魔力と、魔法陣を描く血を全て絞り出して強引に紡いだ、人間の限界点の十層の防壁。
バァァァァンッッッ! と、空気が爆発するような鼓膜を完全に破る爆音が耳から血が出るほど鳴り響き。レイドの目の前で、魔女の放った魔力波と激突したリーネの結界が、外側から一層、二層、三層と、まるで薄いガラスが砕けるように連鎖的に無慘に粉砕されていく。
四層目で大きな罅が入り、五層目で粉々に砕け、六層目が爆音と共に弾け飛び、七、八、九層目までは、分厚い紙の束を鉄球で打ち抜くように容赦なく貫かれていく。
だが——一番内側の、最後の一層だけが。リーネの全存在と命そのものを賭した「絶対に仲間を守る」という最高硬度の思いの籠った最後の一枚だけが。ミシミシと悲鳴を上げながらも、かろうじて魔女の理不尽な平手打ちの魔力衝撃を、ギリギリのところで完全に弾き返し、霧散させたのだ。
「な——ただの人間が、私の広域魔力打撃を、魔法の壁だけで相殺したと言うのですか……!?」
常に冷たい余裕を口元に浮かべていた魔女の完璧な美貌が、初めて屈辱と信じられないという驚愕に大きく引きつる。
彼女の神に等しい攻撃を、真正面から小細工なしの純粋な魔力防御で凌ぎ切った地上の小娘という存在に対する。嘲笑でも高みの見物でもない、純粋な驚きと、自分のプライドを傷つけられたことへの猛烈な不快感。
その魔女の思考がわずかに硬直した直後。砕け散ったリーネの結界の無数の魔力の破片を突き破って、最後の一線の白銀の閃光が走った。
レイドは、空中で散り散りになった結界の魔力の名残を足場となる風に乗せて推進力へと強引に変え、ついに魔女の喉元からわずか三十センチの距離へと到達する。
「ここなら……絶対に届く……ッ!」
しかし。
五柱の壁は、甘くはなかった。レイドの刃が届くあと数ミリ——人間の細い髪の毛一本分にも満たない絶望的な隙間を残して、魔女の身体に直接張り付くように展開している最奥の絶対防御機構たる『見えない魔力の芯』が、銀の剣先を鋼鉄のように強固に妨げた。
透明で硬い、見えない壁。どれだけ剣を振ろうと人間の腕の筋力では絶対に物理突破できない、極限の魔力密度のみで構成された最終防壁。
レイドの腕の筋肉がはち切れるほど力を込めても、体重を乗せても、これ以上はわずか一ミリも刃が進まない。
ギリギリギリギリ、と魔法を付与された銀の刃が、硬い障壁を無理やり掻きむしるような、不快な歯ぎしりのような音だけが虚しく響く。
「……惜しかったですね、あと一歩。ですが、やはり脆弱な人間はどこまで行ってもただの人間。歴史を万年生きる我々五柱の魂の格には、決してその刃が届くことは——」
魔女が冷ややかに、勝利の確信とともに人間を見下して言い放つ。だが、その嘲りの言葉の最後の一音が夜空に発音されるより早く。
レイドは、推進力を失い落下しはじめる空中で、自らの身体の重心を一気に横へ捻った。
硬い障壁に剣の切っ先を押し付けたまま、剣を握る両手に、リーネが飛ぶ直前に付与してくれた『風の推進の刻印』の残りの魔力を、筋肉の限界を超えて逆流させるかのように全開で注ぎ込む。
自身の両腕の筋肉繊維がブチブチと音を立ててちぎれ、血管が破裂する音が体内で響く凄まじい激痛——それを、奥歯を砕いて血が出るほど強く食いしばって全身の強靭な力で強引にねじ伏せる。突き刺して駄目ならばと、厚い障壁の摩擦そのものをテコの支点として強引に利用し、力任せの強烈な『横薙ぎのフルスイング』へと反動をつけて切り返した。
「——俺一人の力じゃ届かないなんて、お前以外誰も一言も言ってないだろ」
ガガァァァァッッッ!!
テコの原理と風の魔力の爆発、そしてレイドの全身の筋肉と骨の反発力を暴走させた銀の剣先が、絶対に壊れないはずの絶対防御機構の表面を、火花を散らしながら摩擦で強引に滑走し——。
そのまま障壁を無理やり押し切り、魔女の白磁のような美しい左の白い頬を、一筋の細い赤い線として、確かな手応えと共に鋭く切り裂いた。
一瞬の、何音もない完全な静寂。
王都の上空で、世界の時がプツリと止まったように、すべてが凍りつく。
魔女の無傷の左頬に刻まれた一筋の切り傷から、生暖かい人間の血のような赤い血が。一滴、一滴と、ゆっくりと肌を伝ってこぼれ落ちた。
その血は、彼女の呆然とした表情をあざ笑うかのように、夜空の闇の空間に赤い糸のような真っ直ぐな軌跡の線を書き殴りながら、眼下の地上へと音もなく落下していく。
「……」
魔女は自分の頬の傷にゆっくりと手を伸ばして触れ、その長い指先についたぬるりとした赤い血を、まるで見たことのない未知の毒物でも見るかのように、信じられないという目で見つめた。
数千年の絶対的な優越感で満たされていた漆黒の瞳が、恐怖とも驚愕ともつかない感情で僅かに大きく揺れる。
数百年もの長い歴史の間、神に等しい彼女の絶対的な神聖領域を侵し、その高貴な顔に物理的な傷をつけた人間など、これまでただの一人も存在しなかった。五柱という超越者の身体に傷を負わせ、あまつさえ血を流させた存在など、この世界のどの教団の歴史書にも、古代の伝承記録にすら一行も記載されていない無二の事実なのだ。
「……貴様らのような下等生物が、この私の顔に……よくも、よくも……ッ!!!」
魔女の完璧な顔が、怒りにまかせた絶叫と共に、まるで悪鬼夜叉のように醜く激しく歪んだ。
先ほどまでの完璧な美しさという仮面が表面だけペリペリと罅割れ、その奥底に潜んでいる、何か人間の生物とは根本的に構造の異なる、ドロドロとした黒い「純粋な悪意の素顔」が少しだけ透けて見える。
周囲の歪んだ空間が、再び彼女の激怒に呼応して漆黒の超高密度のオーラに沈み始め、今度こそ王都アロリアという街そのものを完全に数秒で消滅させようとする、規格外の桁違いの魔力が急速にドス黒く膨れ上がった。
空気がビリビリと悲鳴を上げて振動し、残った屋根瓦が一斉に割れ、数キロメートル遠く離れた建物の窓ガラスすら次々と連続して弾け飛んでいく。
だが、その莫大な怒りの魔力は、完全に形になって放出される前に。不意に音もなく虚空へ霧散してしまった。
膨らみかけた黒い太陽のような球体が、まるで穴の空いた風船の空気が抜けるように、シュルシュルと急速に萎んでいく。
「……チッ。教団の愚かな素人のカスどもが、こちらへ繋げる儀式に必要な核の魔力を維持できなかったか。空間の座が開いていられないほど不安定になるとは」
魔女が顔の血を拭いながら忌々しげに舌打ちし、上空に開いていた巨大な黒い次元の亀裂が、現世の空間から徐々に乖離し、縁から消え始めているのを悔しげに見上げた。
亀裂の縁が夏の蜃気楼のようにグニャグニャと揺らぎ、彼女の強大な存在の召喚をこの王都の空に固定していた空間の座標そのものが崩れかけている。魔女の魂という存在を、異界からこの世界に強引に繋ぎ止めるアンカーの力が、急速に失われ弱まっていた。
これは、ヴェイン伯爵が追い詰められて自身の命を生贄にした自爆による、手順を無視した極めて不完全な召喚の儀式だったことが大きい。それに加え、レイドたちの絶対に屈しない予想外の激しい抵抗の反撃による『決着への時間稼ぎ』が、魔女の現世での莫大な魔力消費による滞在限界時間を、計算よりも大幅に早めて強制送還に至らしめたのだ。
「拾い物をしましたね、小賢しい虫けらども。今日この瞬間の偶然の勝利は、貴様らの不愉快な絆の連携というお遊びが生んだ、ただの時間切れによる偶然の産物に過ぎません」
魔女は落下していくレイドを——自分という絶対的な歴史の存在の顔に明確な傷を負わせた、小さくも致命的なノイズの人間を、徐々に閉ざされていく虚空の亀裂の高みから静かに見下ろした。
その神のような瞳には、先ほどまでの虫けらを見るような余裕は微塵もなく。代わりに、次に対峙した時には一瞬で消し去るべき明確な敵意と冷徹な殺意。そして二度と同じ轍は踏まないという確かな「教訓」として、レイドたちの姿を記憶に深く刻もうとする、恐るべき知性が宿っていた。
「……だが、二度という次はない。小賢しい歴史のノイズよ、その頭の奥底に覚えておきなさい。我々五柱が計画のために本格的に動く時、貴様らの今日のような姑息な泥臭い努力など。巨大な波の前の砂の城のように、一瞬で灰になると」
魔女の高貴な姿が、黒い空間に薄れ始める。
漆黒のドレスの裾から、まるで光の粒子のように細かく分解されていき、閉じていく亀裂と共に、果てしなく暗い夜空の奥へと吸い込まれるように静かに消え去っていった。
王都を包んでいた圧倒的な絶望の黒い威圧の空気が徐々に薄れ、長い五年間のような悪夢の終わりを告げるように、元の王都アロリアの美しい星空が、雲の間からゆっくりと取り戻されていく。
「レイドっ!」
魔女の消滅による一瞬の静寂の後、空から動けないまま自由落下していくレイドに向けて。地上でへたり込んでいたリーネの、本当に最後の気力を振り絞った柔らかい風のクッションが、彼を受け止めるように包み込むように優しく展開された。
レイドは瓦礫の屋根の上に音もなく転がり、そのまま抵抗する力もなく大の字になって、美しい満天の星空をただただ仰いだ。
胸の骨は見事に砕け、太腿には黒い穴が空き、右肩の肉は抉れ、両腕の筋肉は完全にちぎれて激痛を発している。もはや指一本動かす気力も魔力もない。
だが、その泥と血に汚れた口元には、微かな——しかし太陽のように確かな、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「……やりやがったな、お前ら」
ガルドが真っ赤に焼け爛れた自身の右腕とひん曲がった大盾をゆっくりと下ろし、血と汗と煤にまみれた四角い顔で、心の底から嬉しいように豪快にガハハと笑う。
セレナがピンと張り詰めていた弓の弦をスッと緩め、ふっと長い安堵の息を吐いて女性らしくその場にペタンとしゃがみ込んだ。
リーネが完全に壊れた大切な白樺の杖を横に転がして落とし、その場にへたり込んで、恐怖から解放された安堵の涙を汚れた袖で何度も何度も拭う。
「……ああ。誰でもない。やり遂げたぜ、俺たちがな」
ガルドが、レイドに向けて満面の笑みで太い親指を立てた。
この美しき世界を滅ぼす、教団の最大の絶望、五柱の一角。
その絶対的な化け物を相手に全員で生き残り、あまつさえ消えない傷を負わせ、時間切れとはいえ完全に撤退させた。
間違いなく、レイドの絶望の経験である一周目の五年間の歴史の中では、世界中を探してもただの一度も起こりえなかった、輝かしい奇跡。
それを今夜、この王都の屋根の上で成し遂げたのは、レイドの持つ未来の知識などではなく。間違いなくここで互いの命を預け合った『今ここにある四人の力』だった。
王都の街の下方から、巨大な魔女のプレッシャーから完全に解放された騎士たちの驚きの歓声と、民間人たちの安堵の泣き声が、遠くから波のように少しずつ大きく広がり始めていた。




