昨日から夫の様子が変です
んん……
目が覚めた。
外はもう、すっかり明るい。
腕の中には、相変わらず温かな温もり。
…温もり?
慌てて下に目を落とすと、妻のうなじが見えた。ドクンと心臓が音を立てる。
おそるおそる腕を解いて、妻の顔を見る。
妻は眠っていた。
安心したような、穏やかな顔で。
ゆっくり動く胸元。
静かな呼吸。
なん…で…まだ生きているんだ…?
首を動かして辺りを確認してみるが、いつもと変わらない何の変哲もない我が家のリビングだ。死後の世界には見えない。
瓦礫に埋もれている訳でもなく、それどころか壁にひび割れひとつ入っていない。
身体に特に痛いところもない。
いや、少し痛いが、床の上で寝た以上の痛みはない。
一瞬、起き上がろうとして、けれど妻が腕の中にいるこの状況がもったいなくて、動きを止めた。
この状況だけ見れば奇跡と言っていい。妻が俺の隣で気持ちよさそうに眠っているなんて。死後のボーナスだと言われたら信じてしまいそうだ。
だが、あいにく俺は、現実主義者だ。
ここまでリアリティに溢れた死後の世界はないだろう。彗星がまだ地球に到達していないだけだ。
つまりこれは現実だ
きちんとそう認識した途端、心臓がバクバクと音を立て始めた。
妻が…俺の腕の中で眠っている…!?
久しぶりすぎる状況に動揺する。
幸い…幸い?お互い服はきちんと着ているようだ。
…寝惚けて襲って覚えていない、等ではないようで、それはよかった。
だがこの状況、いったいどうしたら………
俺が人生で一番動揺していると、妻がゆっくりと目を開けた。
眠そうな切れ長の目が、俺を捉える。
「…おはよう」
かすれる声で挨拶すると、
「おはよう」
眠たげな声で返事が返ってきて、また瞼が閉じられた。再び寝息に変わっていく呼吸。
それ以上の緊張に耐えられず、俺はそっと妻から身体を離した。
せめてと、毛布に包まった妻を床からソファの上へと移動させ、洗面所に逃げ込んだ。
顔を洗って人心地ついて、もう一度リビングへと戻った。
ソファのすぐ横に腰を下ろす。まだ眠っている妻のすぐ横に。
本当はもう一度抱きしめて眠りたいところなのだが、その勇気が出ない。
だから、これくらいはいいだろうかと、迷いながらも毛布の隙間から出ていた妻の手を握った。
◇ ◇ ◇
「んー………」
ちょっと暑い…。
もぞもぞと動く。
カーテン越しの日差しで、部屋の中が大分暖まっている。
…寝すぎた…?
ぼんやりしながら毛布を剥ごうとしたけれど、何故か右手が動かない。
仕方なく左手で剥いで薄眼を開けた。
まずローテーブルが視界に入った。
続いてリビングのカーテンと観葉植物。
…リビング?
不思議に思いながら動かない手元に目をやると、黒い塊があった。
誰かの頭。
…というか、この髪型は夫だろう。
わからないのは、何故か夫が私のすぐ側で眠っていることと、私の右手が彼の左手に握られていること。
薬指に結婚指輪をはめた彼の手に。
さほど強い力ではなかったので、そっと手を引き抜いた。
夫は少し不満そうにうめいて、手を握ったり開いたりした後、辺りを探るように左右に揺らし始めた。
あれにつかまったら逃がしてもらえない
何となくそんな気がしたので、代わりに毛布の端っこを差し出した。すると、それをぎゅっと握りしめて大人しくなった。
小さな子どもみたいで、少し笑ってしまう。
そっと身を引いて、ソファから抜け出した。
今日は…確か日曜日だった筈…
軋む身体を捻ったら、凄い音がした。
慌てて夫を見たけれど、今の音では起きなかったようだ。
ほっと息を吐いて、ソファにもたれて眠る夫を置いてリビングを出た。
朝ごはんを作らないと。
一度部屋に戻って着替えてから、キッチンに入った。
朝食は、少し迷ったけれどパンにすることにした。壁の時計を見たら、十時を回っていたから。
もういつ夫が目を覚ましてもおかしくない。今からごはんを炊いていたら、多分間に合わない。
まずはパンをトースターにセットした。夫が起きてきたら加熱すればいいように。
次にレタスをちぎってトマトを切ってアボカドを乗せて、レモンと塩を混ぜたドレッシングをかける。
まだ起きてこないので、フライパンでベーコンを焼き始めた。そうしたら後ろから声がした。
「…おはよう」
「おはよう」
チラリと振り返ると、起き抜けの夫はほっとしたような顔をした。
「もうすぐできるから」
「…ああ。すぐ着替えてくる」
昨日は土曜日なのに何故か朝からスーツだった夫は、頷いて足早にキッチンを出て行った。
そして5分もせずに戻ってきた。
相変わらず着替えが早い。
夫が座って待つテーブルに、二人分の皿を運ぶ。
ベーコンエッグにサラダにトースト。
何の変哲もない朝ごはん。
なのに夫は嬉しそうに目を細めた。
何となく昨日からの流れで、私も一緒に席に着いた。
「いただきます」
「いただきます」
しばらくして、不意に夫が口を開いた。
「君と食べるメシは美味いな」
思わず咽せた。
心配そうな目を向ける夫に大丈夫だと頷いて水を飲む。
…びっくりした。
いったい夫は、昨日からどうしてしまったのだろう。
チラリと目をやると、平然と、というか少し美味しそうにベーコンを齧っている。
確かに昨日、寝て起きてまたいつもの態度に戻ってしまったら嫌だとは思ったけれど、これはこれで戸惑う。
思わずじっと見ていたら、目が合ってしまった。
何だ?
と視線で問われて、咄嗟に
「美味しいですか?」
と聞くと
「ああ、美味い」
と深く頷かれた。
誤魔化せたことにほっとして、お皿に視線を戻して私も食べる。
…確かに、誰かと…夫と一緒に食べる方が、ごはんは美味しい。