3場
「わたしね、生まれてきてからずっとしあわせだったよ。自分の名前も大好きだった。『人生ってつまんないよね~』とか、たまに友達が言ってたけど。よくわかんなかったよ。わたしにとって人生って、楽しくて、嬉しくて、仕方がないものだったし。もちろん、常にそうだー、なんて思ってない。辛い時だってあるよ。それでも必ず最後には幸せになると思ってたし、実際そうなるようにがんばって、叶えてきたつもり」
冷たい風が吹いた。私の声が阻まれない様に、強く張った。
「そんなの……よく知ってる」
サッチの周りにはいつだって誰かが居る。人気者だ。それはクラスの違う私でも時折耳に入ってくる程に。
私が自分の教室で完全に浮いた状態にならなかったのは、サッチのお陰。サッチのルームメイトだから、という理由がきっかけになったんだ。
そのきっかけが無かったら、クラスメイトに、特に右ちゃんに重宝される学園十指に入る勉強能力も、疎ましさを集める旗になるだけ。そして私は対人関係においてひどく消極的で、きっかけを作る気も、能力もない。
サッチがいたから、私は『普段は話さないけど用事があれば話せる』という位置に居られた。
「お父さんも、お母さんも仲いいし。昔から『いい子だね』って褒められて、嬉しくて。だからもっと褒めてほしくて、がんばって。ずっとその繰り返しで、初等部に上がる前とか、ほんと、あっという間だったよ。もうすぐわたし達、卒業でしょ? お父さんがね、卒業旅行だー、なんて言い出してね。温泉とか予約してて、楽しみにしてたんだ」
一月ほど前。
『優柳っ! 卒業旅行いこ! ぜったいね!?』
なんて突然誘われた事を思い返す。私はそういうのに乗り気する質ではなく、なんて言って断ろうか考えながら、詳しい話を聞いて、呆気にとられた。
参加する人は、サッチの家族と私だけ。
卒業旅行のなんたるかはわからないけれど、これってただの家族旅行なんじゃないかな。と思った。周りの人に言うのかな、そんなに家族旅行ではしゃいでたら、きっと馬鹿にされるよ。とも思ったけど、そっちの方が面白そうだから、何も言わず笑顔で了承だけしておいた。
「……わたし、それが普通だと思ったから、友達に笑われちゃったよ。『お前は初等部か!』って。……卒業旅行って、友達と行くものだったんだねー」
サッチが小さく笑ったのが、後ろからでもわかった。なんだかその口調はごく普通で、サッチの立っている場所を忘れそうになる。
どうやら一月前の私の目論見は成功していたみたいだ。それでも笑う気になれなかった。
いい歳をした娘に卒業旅行を元気よく打ち立てる父親、いい歳なのに無邪気にそれを喜ぶ娘、きっと母親はそれを微笑ましく見てる事だろう。
それがサッチの生まれた家族。
「初等部の高学年になった時、初めて好きな人が出来たんだ。今思えばお遊びみたいだけどね、その時は本気だった気がするよ。同じクラスの、いつもおちゃらけてて、でもリーダーシップがあって、目立ってた男の子。そんな子だったから、人気もあって、ライバルも居た。…………わたしと彼女でクラスの女子を二分して争ってたよ。
勝ったのはわたしだった。端から見てもわかるくらいに、わたしとその男の子は仲良くなったんだ。そしたら彼女に呼び出されてね、最初は普通に話してたんだけど、ケンカになった。卑怯な手を使ったって言われたんだ。わたしは使ってないって言い張って。それで、嫉妬は見苦しい、みたいな可愛くない事言っちゃったりね」
サッチの、男の取り合いの口喧嘩、か。そんなの想像もできない。
「その彼女とケンカして、よくわかったんだ。お互い憎たらしく思ってた事と、お互いそんなに悪い娘じゃないって事と。……わたしの本気より、彼女の方が真剣だったって事。
だから譲る事にした。その時はそれが正しいって思ったんだ。だから相談に乗るようになって、どうやってあの男の子の気を引こうか一緒に考えて。男の子が卒業と同時に引っ越すって聞いて、彼女は告白したんだけど、フラれちゃった。中等部に上がっても、ずっと連絡取り合ってたみたいなんだけど、ついには疎遠になちゃって。彼女は子供みたいにわんわん泣いてね。彼女が泣いたの、初めて見たよ。だからわたし、ずっと慰めて。だんだんと元気になって、普通に遊ぶようになって……そうしてたらね、わたしを親友だって言ってくれたの」
彼女って、時折サッチの話に登る他校の友達の事なのかな。そんな壮絶な過去があったなんて知らなかった。いい化粧道具を貰った、だとか、新製品のお菓子を教えてもらったとか、そんな和気藹々とした話しか聞いてなかったから。
親友と呼んでもらった。それがサッチの初等部の頃。
「中等部に上がってからずっとバスケばっかりで、男の子の事なんかすっかり忘れちゃってたからね。譲って良かったって最近までは思ってたよ。バスケ部に入った動機は、かなり単純だったな。ほら、わたしって背が低いでしょ?」
そう言って、サッチは頭の上で掌をヒラヒラさせる。
「背が伸びるかなー、って思ったの。そんなわけないのにねー。……でもそんなの最初だけだった。一つ上の先輩が居たんだ。わたしよりは高かったけど、それでも女子バスケ部の中じゃ断トツでちっちゃかった。なのに、二年生の中では、一番レギュラーに近かった。次期部長って言われてたしね。カッコ良かったんだ、ほんと。……いつの間にかわたしの目標になってたくらい。だから、がむしゃらにがんばったんだ。部長みたいに『背が低くて羨ましい』なんて言われてみたかった。
次期部長が部長になって、それもだんだん終わりが近づいて。最後の大会の時にね。部長、怪我しちゃったんだ。その時ってアニメとかの影響で部員がいっぱい居てねー。わたしはただ憧れるだけの後輩で、一応体育会系だし、部長とプライベートなんてなかったし。……だから、まさかわたしが部長の替わりに選ばれるなんて思わなかった。
他の三年生の目があって怖かったし、下手に目立って二年生からハブられて、バスケ出来なくなったら元も子もないよね。だから断わりたかった。
でも部長に『お願いね』って言われて……。目なんか気にしないって決めたんだ。
…………もう、後の事はあまり覚えてないや。緊張と勝つ事で、頭がいっぱいだった。
結果はブロック優勝。その頃には部長も動けるようになっててね、決勝トーナメントには部長が出たよ。それで……二回戦敗退。ベスト16。顧問は喜んでたけどね、快挙だ! って。先輩たち、みんな泣いてた。部長も泣きながらわたしに『ありがとう』って。わたしも泣いちゃった」
その時の事を思い出しているのか、サッチの声色に満たされた優しい感情を感じた。
「嬉しかった。……認められた気がした」
長く、サッチは息を吐いた。白くなった吐息が私からも見えた。胸がいっぱいになって溢れ出たため息だった。
努力し、認められ、報われた。それがサッチの中等部の頃。
「部活、楽しかったな。それでも必ず卒業が来る。そのまま高等部に進学して、寮に入る話になった。でも同じ棟に入れるメンバーは五人だったんだ。寮の部屋割りは二人に一つ。事前に話すればかなり自由だよね。でもやっぱり人数はどうにもならない。五人の中心はわたしだった。そのわたしが誰か一人を選んで、誰かが外れたら……どうなるかなんて、すぐわかる。
だからわたしは、理由をつけて四人にした。違う誰かを連れてくるわけにもいかないよ。部活とクラスで、クラスを選ぶ事になっちゃう。
新しい出会いを求めてー、ひとつ、ランダムでよろしく! ってね。
でも、中等部から上がる生徒が殆どで、部屋割りも自由なのに、わざわざ一人で寮に来ようとする人って。……多分、協調性が無いか、独りが好きって変わり者か、そんなとこだろうから不安だった。起きるのも寝るのも一緒なのに、仲良くなれなかったらって思うとね。実際、わたしのルームメイトになった娘は……。まさにその通りの娘だったよ」
私の事……? それでも上手く頭に入ってこない。
サッチはチラリと私を見ると、からかう様に笑って、また前を、何もない灰色の空を見る。
「かなり良い美容院使ってるみたいだけど全然染めたりしないし、綺麗な娘だなって思ったけど化粧も殆どしてないし。変わり者だった」
髪は叔父様に『女は髪に気を使いなさい』って言われるがまま連れてかれた所にずっとお世話になってるだけで、外見の手入れは叔母様に『侍が刀に手入れするようなものです』って言われて仕込まれただけ。
「びっくりしたよ。初めて会って、わたしは緊張しながら自己紹介して……。そしたら優柳はたった一言、『うん』って言って終わりなんだもん。人生初の体験だったよ」
それは確か……よろしくね、って言われたから。とりあえず同意しといたんだっけ。
「それで自己紹介の後から、ずっと部屋に帰ってこないんだもん。更にびっくりだよ」
それは……いろいろごたごたしてたからで。
「なんだこの変人めー! って最初はムッと来てたんだけど、何日も帰ってこなくて、だんだんわたしが悪かった気がしてきて。もしかしたらもう会えないのかなって思ったら寂しくなってきて」
そんな風に思ってたんだ。でもあの頃の私はサッチの顔すら覚えてなかった気がする。
「そしたら突然帰って来て。謝ろうかどうしようかさんざん悩んで顔色伺ってみたら『あなた誰だっけ』って顔で」
だよねー。
「とりあえず何か話さなきゃ、と思って。『あの、名前……』って言ったら――――」
――――それは覚えてる。
「『あー、ごめん、覚えてない』………って言った」
「『えっと、わたしの名前じゃなくて』」
「『あー、ユウナギ』」
「『…………えっと、それは?』」
「『優しい柳って書いて優柳』」
「『………………』わたしは苗字か名前かを聞いたの!」
「『ナギって読むの珍しいよね』………うん、わかってたよ」
サッチはひとつ、苦笑の混じった溜息を落とした。
「わたし、まだ優柳が突然意味不明な事言うって知らなかったから。すごく真面目に悩んだんだよ? もしかして大企業とか首相とかの娘かな、とか、それとも口に出せないくらい変な名前なのかな、とか、『苗字が優、名前が柳』って名前なのかな、とか」
意味不明ってヒドイなぁ。ウケ狙いだったんだけど。『テメェは笑える話のひとつもできねぇのか』とか言ってくる人が居たからがんばってみたんだ。
「やっぱり協調性も無い娘だった。でも、毎朝、毎晩、挨拶して、だんだんとちゃんと返してくれるようになって。……初めて優柳の方から挨拶してくれた時は『勝ったッ!』って心の中で思ったよ」
一体なんの勝負だったんだか。
そこに辿り着くまでにどれくらいの期間があったのか、私は覚えてない。ちょっと残念。
「それから話し相手になってくれて、勉強教えてくれるようになって。偶に一緒に食事するようになって。でも優柳っていつも飄々としてて。優柳が馬鹿みたいに笑ってる顔とか見たくなって。だから趣味とか聞いてみたら『ない』って断言されちゃって。これ以上仲良くなれないのかなって思ったけど。
寮生活の先は長い。ないなら作っちゃえばいい! って決心したんだ。だからバスケ誘ったよね、やってみよーよ! って。優柳も『いいよ』って即答してくれたし、これはイケル! って思った」
そこも回想するんだ。別にいいけどさ。
「そしたら優柳……わたしのパス、顔面で受けたよね」
……………………。
「サッチが悪い。ド素人の私に思い切り投げるから」
私がそう言うと、間が空いた。『別に思い切り投げたワケじゃないんだけど』なんて台詞が聞こえてきそうな間が。
「優柳って漫画に出てくる人みたいに才色兼備だったから……まさか運動が全くダメだとは思わなかったよ」
「…………才色兼備でしょ?」
その言葉の意味に『運動』は含まれていない。
「…………そーだねー」
乾いた同意からしばらくして、サッチは続けた。
「ルームメイトは想像通りの付き合いにくい娘。でも、ひとつだけ予想が外れた。……仲良くなれない、ってトコ。優柳は思ってないかもしれないけど、わたしは優柳のこと、親友だと思ってるよ。親友だって言ってくれる娘は居たけど、わたしが親友だって思いたい娘は居なかった。
わたしの話すことをね、じっと、黙って聞いてくれるの。まるでお姉さんみたい。……たまに、いきなり話の腰折るけどねー」
私はいつだって自分の事しか考えてなかった。黙って聞いてたのだって、きっと、掛ける言葉が見つからなかっただけ。サッチを慮ってそうしてたワケじゃない。
でも。それでも、いい。サッチの勘違いでも、自分を庇った私の嘘でも。
「もうすぐ卒業かー。あっという間だったね」
そう、諦めたように呟く、サッチを止められるなら。
「楽しかったでしょ?」
「うん。楽しかったよ」
「また話、聞かせてよ。バスケットでもいい。今ならパスくらい出せるよ。……受け取れないけどね」
私の言葉に、サッチは無言のまま。その小さな背中は静寂を誇張するだけ。それはそのまま、私の言葉の否定に繋がってる。私の疑問は膨れ上がって、口から吐き出された。
「サッチ、楽しかったんでしょ? これからもずっと続くんじゃない?」
「ずっと…………続く?」
「そうだよ」
でも今まで散々、排他的に過ごしてきた私から、気の利いた科白が浮かぶ理由もない。
「そう、だね。…………ずっと続く」
サッチの声色が動いた。少しだけ俯く。私はようやく手が届いた気がして、嬉しさのあまり言葉を繋げようとして。
「うん。だから――――えっ、まっ」
待って。そう勝手に口を突いたから、出来なかった。
サッチは自分が立っている場所を無視しているかのような勢いで振り返った。ようやく、目があったけど、その眼を見た時、私の頭は真っ白になった。
「サイアク」
その呟きは、その瞳は、押し殺し切れない憤りで溢れてた。今までの話はなんだったのか。 一瞬にして私を否定されて。私はただ泣きそうになるのを抑えるばかりだった。
空っぽになった私の頭に、サッチの言葉が滑りこむ。
「常識、この世の全てである原因と結果。
その亜にある、外れたモノ、劣ったモノ。
起こる原理なんて無い。起こるモノは起こる。
原因と結果だけが、ただそこに在る。
『亜因果』は個人が持つ不可避の事象。
わたしの亜因果は『吉祥天』。
その原因は『わたしの不運』と『他人の幸運』。
その結果は『回避』と『略奪』。
わたしの身に起こる不幸を、他人に擦り付けて。
他人に起こる幸運を、奪っちゃうの。
…………ほんと、サイアク」
「意味……わかんないよ」
もしそうだったとして。なんでサッチが飛び降りるの?
「別に……いいよ。私から奪ったって。擦り付けたって。他人が何言ったって。……いいよ。それで、いいでしょ? それって、すごく運が良いって事、だよね。一位を取り続ければいい。それが本当は誰になるかなんて、誰にもわかりっこない」
もう自分で何を言ってるのかもわからなくなってきた。
「わかんないかなぁ。優柳」
わかんないよ。さっきから言ってるでしょ。それに声、震えてるよ、サッチ。
それは私もだけど。
「わたし、寮に入る時に、希望があった。『こんな娘だったらいいな』って。変人でも協調性が無くてもいい。向こうから関わってこなくて、でもわたしが関わりたい時は関われる。それで最終的には仲良くなれるの。そんな都合のいい娘。…………優柳の事だよ」
「…………幸運、だ。良かったじゃん」
「――――――ッ」
サッチは歯噛みして、ぶちまける。
「あの日! 何人の生徒が寮に独りで入ろうとしたか、わかるッ!? その中から一番相性のいい生徒を運良く引けば! ……仲良くなれるのも当然なんだよッ!」
サッチの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ始める。
「…………わたしががんばったからじゃなかった! 優柳の隠してる優しさを、わたしにだけ見せてくれたからでもなかった! それなら、親友じゃなくてもいいよ。……普通の友達でいいよ! 吉祥天なんかに左右されたくなかったッ!」
「わたし、部活の時、影で『名前負け』って呼ばれてた。すごくムカついたけどね、鼻で笑ってあげたよ。呼ばれてた理由はカンタン。わたしと一緒にコートに立つと、みんな不調になるんだ。シュートは外れる。フェイントは破られる。……練習不足を他人の所為にして、なにが『名前負け』だッ! そんな人達に負けない!」
やめてよ。いみがわからない。
「笑えるね。ホントにそう思ってたんだ、わたし。上手いシュートが外れる時もある。下手なフェイントでも通る時がある。要するに運だよね。陰口言ってる人達が正しかった。わたしは他人のそれを奪ってただけなんだ!」
「わたしと彼女が選んだ男の子への誕生日プレゼント、同じだった。わたしは運任せに選んで、彼女はちゃんと男の子の事を考えて。席替えしてもずっとわたしが隣だった。わたしが男の子へ運任せに振る話題、いつも反応が良かったよ。彼女には無い、亜因果を使ってたから! それを! ……わたしは『譲った』って、ずっと!」
おもってた、って? ききたくないよ。
「わたしが『いい子』? 当たり前だよね。いつでも他人から奪って、いつでも自分は逃げてる。誰もそれを責めたりしない。褒められるばかり。それで、どうやったら『わるい子』に育つの?」
「わたし。
お父さんとお母さんに、なんて言えばいいの?
彼女に、どんな顔して会えばいいの?
部活のみんなに、なんて謝ればいいの?
優柳と、どうすれば普通の友達になれたの?
…………わたしの人生って、なんだったの?」
それきり、サッチは言葉を発しなかった。でもだんだん、表情は変わっていった。人形のようだった表情は、瞳だけ閉じられて。やがて、聖母のような微笑に変わっていた。
「清聴、ありがとうざいましたっ! あはは。いっぱい言ったら、ちょっとスッキリした」
私はその声を聞いて、ようやくかなりの時間が経った事を理解した。
サッチの涙は既に引いていて、その態度は、私が知ってる……元気が無くなる前の、いつものサッチだった。
私の頭の中では、サッチの前置きが流れてた。
『わたしね、生まれてきてからずっと――――』
ずっと? なんだっけ。思い出せない。
代わりに、拾いそこねた言葉がうかびあがった。
『しあわせが、私を殺すんだ』
「もう残り20分切ってるよね、きっと。そろそろギリギリかなぁ?」
「え?」
頭が上手く回らない。こんなこと初めて。
「授業が終わっちゃう。そしたら流石にバレちゃうよね。この校舎の一階が空いてるのも今か放課後だけ。……処理にも時間かかるだろうしね」
休日の予定を話すような気軽さで口早に続けるサッチに、私は置いていかれてる。
一階が空いてる? 処理って、時間って、なに? なにかを喋ろうとしても、オウム返しになりそうで。私の頭はこんなに働かないモノなのかと、ふと思った。
「めんねー、優柳。先に謝っておくね! 多分、これから色々あると思う。恨まないでねー。どうしてもって言うなら『吉祥天』を恨んでね! なんちゃって。あとね、多分だけど、優柳にも亜因果あるよ。気をつけてね」
「あー……えと。あー…………」
あれ? 何言えばいいの? どうすればサッチは。
「ん?」
だから、そこに立って体ごと小首かしげたりしないで危ないでしょ。
「えっとー。あー……鍵。うん、鍵返して」
「あ、そっか」
うん、そう。こっちに来て。……そうしたらもう絶対に離さないから。
「めんねー。気分悪くて使えなくなっちゃうよね」
気分とかどうでもいい。そのポケットから取り出した鍵を早く渡して。投げたりしない娘だっていうのは、わかってる。こっちに渡しに来て。
そう考えたけど、その通りになる事は無かった。やめてよ! と叫ぶ間すら無かった。サッチ髪をかきあげながら、スッとその場にしゃがみ込んで、足元に鍵を置く。
「後で取ってね!」
あれ? どうしよ。
サッチが、またふと、空を見上げた。それを見て、気がついた。背中を向けていた時も、今も、サッチは下を見ようとしていない。
以前、飛び降りようとする人を、警官が一斉に取り抑えてる映像がテレビで流れてたのを思い出した。その人はすでに飛び降りられる所に居ながら、ただ無抵抗に捕まっていた。想像するにその人は下を見て、足が竦んで動けなかったんだ。
ちょっとでいい。ほんの一瞬。私の手がサッチに届く隙があればいい。
「下、どうなってる?」
「あはは。だめだよー。下なんか見たら飛べなくなっちゃうでしょ? もー」
あれ? うまくいかない。
別段、面白い事言ったつもりはないんだけど、サッチは私の知っている内でもかなり上機嫌に見える。
なんの感情も浮かばなくなってきている。頭が空っぽになっている。だからなのか、今の立ち位置、私の持ってる物、天気、時間、季節、初めての会話、やってきた事、全てが勝手に高速で回転して、勝手に計算をし、答えが出るたびにそれを捨てて、新たに計算を始めていく。
なんて言えば引き止められるのか、どう行動すれば手が届くのか。
なにか方法は無いのか。
どう飛びかかって、どう引っ張ればいいのかを考えていた私に、ふと言葉がかかった。
「そういえば優柳、なんでわたしが屋上を選んだか、わかる? わかんないでしょー」
「え?」
「ここはねー。……初めて、わたしが――」
言い終わる前に、強い風が吹きつけた。サッチは髪とスカートを抑えて、耐えるようにしている。私は、サッチがバランスを崩さないか気が気でなく、風が収まってから、ようやくサッチの言った言葉をかみしめていた。
屋上、初めて。
ここは……、私が初めてサッチに『優柳』と呼ばれた場所。
「……まぁ、いっか! わたしだけが知ってる、『わたしと優柳の事』っていうのも」
だからこの場所を選んだの? そう思うと、私は俯いてしまう。涙が零れそうになった。
「サッチ……」
「ん?」
私は腕を動かした。その動きは緩慢で、定めるのに時間が掛かった。
五指を伸ばして、手のひらを差し出すように向けた。
今まで頭の片隅で暴れ狂っていた計算が、止んだ。もう、説得は思い浮かばない。
「――――お願い」
この手をとって、と。
サッチに向かって顔を上げたら、せっかく耐えていた涙が、一筋零れてしまった。
らしくないな、と思った。こんな人にすがるような言葉。人生で初めてかもしれない。
なのに。
「ごめんね、優柳。でも、あり、がとう」
サッチはしゃくりを上げはじめる。そのままずっと『ありがとう』と繰り返していた。
私の腕から力が抜けて、ぶらりと落ちた。
それなら、と、歯を食いしばり、睨むように眼を細める。機会を伺う。もう躊躇わない。
もういいよ。サッチが好きにするなら、私だってそうする。
サッチはしばらく、拳を擦り付けるよに顔を覆っていたが、恥ずかしくなったのか、誤魔化す様にまくし立てた。
「あ、りがとう。……あ、はは。えと……後、そうだ。わたしの事、色々と聞いてくる子が居ると思う。その子にも謝っておいて。めんねー、って。多分許して、くれないけどね! あは、は。聞いてくる子が誰も居なかったら……えーと。どうしよ、ちょっと悲しいけど。この話は忘れちゃって。その子、結構、薄情っぽいから――」
『その子』が誰かは知らないけれど。
ふと、私に涙をみせまいと、横を向いたその隙。
そこしか無いって、私の身体が勝手に動いた。
私の人生で、きっと最速の一歩。その踏みしめた音でこっちをみても、遅い。その一歩を貯めこんで、私は飛びつくんだ。姿勢は完全に前のめりで、このまま倒れ込めば私の身長と手の長さを足して、サッチの足首に届く。それを思い切り引っ張ればこちらに引き戻せる。サッチの後頭部は危ないかもけど、もうそれしかなかった。
上半身を掴んだって、止められないどころか一緒に落ちてしまうかもしれない。でも下半身、それも足首をすくうように引っ張れば、いかにサッチでも踏ん張る事はできない。
でも、私の人生で最速の一歩は、サッチの人生で最後の一歩と――――同時だった。
全てが遅く見えた。色すら消え失せる。かわりに、サッチの胸元にあるリボンが揺れるのも、スカートがはためいて形を変えるのも、はっきりと見て取れた。
私が踏み出した一歩はまだ地についていない。なのにサッチは。
――――後ろに小さく、跳んでいた。
サッチの身体は、そのまま向こう側に傾いていく。未だ真横を向いていた顔が、少しずつこちらを向いていく。涙をこぼしながら、笑っていた。目と目が合う。
『優柳って、ほんと突然だよねー』
きっとそんな事を思ってる。それくらいわかる。二年と八ヶ月、ずっと一緒に居たんだから。
『これから自殺するって人が喋ってるのに、途中で掴みに来るなんて、らしいよね。そうなる気がしてたよ? ――――だって、わたしは、優柳の事、誰よりも知ってる』
そんな声が聞こえる気がする。
笑ってる。馬鹿にしてる。でも馬鹿にしてたのは私だったのかもしれない。
私だって、サッチの事、知ってた筈なのに。
元、女子バスケットボール部エース、スモールフォワードの得意技。
仕草で騙して、切り抜けて、確実に点を取る。
え? これで終わりなの?
私の伸ばした手は、虚しく宙を切っていく。サッチまで届かない。そうだった。生まれた時から、いつでも、今も、いつまでも。
私の手は届かない。
なんで? なんで? なんで? なんで?
『なんで、って……。つーかよ、テメェはそもそもなんで疑問に思うんだよ』
なんで? って。あ、そっか。
疑問に思う理由―――――倒れこむ必要は無い。
それは私にとって――――その場に踏ん張る事だけに集中して、足を下ろす。
手が届くのが――――――向こう側へ倒れていくサッチに手を伸ばす。
『だって……。わたしの手、どこにでも届きますから』
――――当たり前だから!
【私の手は、サッチの胸元まで届く】
そう、納得がいった途端、私の目の前に小さな光が生まれた。過剰な電力を供給された豆電球みたいな光は、一瞬にして大きく円をつくって広がっていく。
その円の中に、手の届く距離に、サッチはいた。驚愕に見開かれた表情が見える。
伸ばしていた手が、その胸元を掴んで、
あ、流石に片腕だけでサッチを引っ張るのは無理だな。
とか思って、そのまま軸足をずらして、サッチの胸元を掴んだまま、私は後ろに倒れていく。一応、引っ張る事も忘れない。
光の円を通って、サッチが私に伸し掛かるように倒れてきた。それを受け止める。
地面に背中を強打して、うめき声が少し漏れた。
全身のこわばった力を抜いていく。後頭部が、コテンと地面に触れた。
「重いよ?」
倒れた私に覆いかぶさるように硬直しているサッチ。その背中に、両腕を回した。
強張り固まって、震えている。抱きあうようにしてるから、表情はわからない。
でも、確かに重い。その重さが、私に安堵をもたらした。
助けたんだ。私が。
もう、離さないから。
「光の……輪っか? あいん、が……?」
サッチの放心したような呟きが耳元で聞こえた。そういえば光ったな。なんでだろ。
私は目の前の、何もない空間を意識する。
【右側と、左側は繋がってる】
すると音もなく、元からそこに浮いていたように、小さな二つの光の円が出現した。右側と、左側。サッチを抱く手を解いて、その右側の円に手を入れてみる。すると、左側から私の手が出た。
やっぱりそうだ。二つの円は繋がってる。
そして私は、その二つの円を好きにできる。
つまり。
――――私の手は何処だって届くんだ。
「くく……ふふっ。ふふふふふ」
あれ。だめだ。
なんだか笑いがこみ上げて、抑え切れない。
「あっはははははは! くく……ははははははははは!」
私は光る円から腕を抜いた。もういらないよ、と思うと、それはまた音もなく消え去った。
そして思いっきりサッチを抱きしめた。
「証明したんだっ! ……自由だぁーーーーー!」
何を証明したのかわからないし、何から解き放たれたのかもわからないけど、私はつい叫んでいた。
しばらく笑い続けて、ようやく自力で抑えきれるようになってから、初めて気がついた。サッチが目を見開いたまま、私の顔をまじまじと見ていた。しまった。いきなり高笑いするなんて私のイメージじゃないし、まるで気狂いだ。
でも、それは関係なかったらしく、サッチは呟く。
「亜因果……なの? それ」
「さぁ?」
そう言いながら、とりあえず私は微笑み返しておいた。亜因果なんてヘンテコな呼び方されるなら、まだ光の輪っかの方がいいかなぁ。
「また話、聞かせてよ。バスケットでもしようか? 今ならいい勝負できるよ、きっと」
私がそう言うと、サッチはすがりつくように私の制服を思い切り掴んだ。びっくりした。そしてそのまま赤ちゃんみたいに泣き出した。
「わたしっ……吉祥天の事、誰にも言えなくて! どうしようもなくてっ!」
「うん」
「助けて……優柳」
「うん……わかった」
私はまた、サッチの頭を優しく抱いた。そのまましばらく、二人で屋上で寝ていた。
もうほんと、意味わからないよ、サッチ。
それこそ泣けてくるくらいに……。




