第2話 神と祀られた少女と、嵐を呼ぶ龍の怒り
まぶしい朝の光と鳥の爽やかなさえずりが、柔らかなカーテンの隙間から差し込んでいた。
ふかふかの羽毛布団に包まれていたエレノアは、まぶたに感じる温もりにゆっくりと目を覚ました。
鼻腔をくすぐるのは、ハーブの爽やかな香りと、昨夜から変わらない甘い白檀の匂い。
(あ……私、夢を見ていたのかな……)
だが、その直後。
エレノアの脳裏に、長年体に染み付いた悲しい習慣が閃いた。
(大変! 朝の太陽が昇ってしまう! 未明のうちに起きて井戸水を汲み、お父様と継母様、マリアンヌのお部屋を掃除しておかないと……また朝食抜きで鞭で叩かれちゃう……っ!)
「ひっ……!」
恐怖と焦燥感から、エレノアはガタガタと体を震わせながら、弾みをつけてベッドから飛び起きようとした。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
しかし——。
「動くな。まだ寝ていなさい」
低い、包み込むような声とともに、太く逞しい腕がすっと伸ばされた。
エレノアの細い腰を軽々と抱き寄せ、ベッドの中へと引き戻す。
背中に突き当たるのは、カチカチに鍛え上げられたジークフリートの温かい胸板だった。
「じ、ジークフリート陛下……っ!?」
「ジーク、とお呼びなさいと昨夜言ったはずだ。……それに、まだ顔色が青い。お前は長年の過酷な環境のせいで衰弱しきっているのだ。せめて昼まで寝ているがいい」
ジークフリートは大きな手でエレノアの頭を優しく撫で、その髪に愛おしそうに何度も唇を落とした。
毎朝未明に起き、冷たい氷のような水で雑巾を絞り、指の節から血を流しながら床を磨いていたエレノアにとって、「朝、ベッドで温かく過ごす」などという経験は生まれて一度もなかった。
「あ、あの……! 私、お掃除をしなければ……! 下働きをしないと、ご飯をいただく資格がありません……!」
「馬鹿を言うな。お前が指一本動かす必要などない。この城のすべての召使い、いや、この帝国の全臣民がお前のために仕えるのだ」
ジークフリートがパチンと指を鳴らすと、扉が静かに開き、十数人もの侍女たちが整然と部屋に入ってきた。
彼女たちが手にしているのは、最高級のシルクで織られた美しいドレス、金銀の刺繍が施された靴、そして帝国の秘境でしか採れない魔導薔薇から、0.01%の比率で抽出されたローズオイルや、同じく秘境の泉の藻からしか採集できないエキスで作り上げた保湿クリームだ。
「さあ、神聖なる御子様。朝のお手入れをさせていただきますね」
「え……? み、御子様……!?」
驚くエレノアをよそに、侍女たちはうっとりとした表情でエレノアの手足を温かいハーブ湯で洗い、丁寧に保湿クリームを塗り込んでいく。
赤く腫れていたしもやけや、長年の雑用で硬くなっていたタコに、とろりとした最高級のローズオイルが浸透していく。
「あ……温かい……すごく、良い匂いです……」
「当たり前ですわ、御子様! 御子様のお力で、我が国の荒れ狂っていた竜脈が静まり、枯れていた王都の泉から澄んだお水が湧き出たのですから!」
「そうですとも! あなた様は我が帝国の救世主……まさに『至高の神』でございます!」
侍女たちが心からの崇拝と愛おしさを込めた瞳でエレノアを見つめる。
自分の手で誰かを喜ばせたことなど一度もなかったエレノアは、恥ずかしさと胸の奥から込み上げる温かい感情で、ポロポロと大きな涙をこぼした。
「おい、泣かせるなと言っただろう。私の胸が締め付けられて破裂しそうだ」
ジークフリートが真顔で侍女たちを制すと、エレノアの頬に伝う涙を指先でそっと拭った。
◇
着替えと豪華な朝食を終えた後、ジークフリートはエレノアを連れて、竜脊城で最も高い場所にある「最上層のバルコニー」へと向かった。
重厚な扉を開け、外へ一歩踏み出した瞬間——圧倒的なスケール感がエレノアの視界を打ちのめした。
はるか遠く、見渡す限りの広大な平野と豊かにうねる緑の森が広がり、雨上がりの爽やかな澄み切った青空のもと、どこまでも続く地平線の中央をエメラルドグリーンに輝く広大な「竜脈の光の川」が美しく流れている。
城の直下に広がる巨大な城下町には、整然と立ち並ぶ赤い屋根の街並みがどこまでも続き、広場にびっしりと集まった数十万人の帝国臣民たちが手を振り、歓喜の声を上げていた。
そして大理石で彫り込まれた白銀のバルコニーには、小さなエレノアと、彼女を愛おしそうに後ろから包み込む巨大なジークフリートの姿が並んでいた。
「見よ、エレノア。これが我がガルディノス帝国だ」
ジークフリートが低く誇り高い声で囁く。
「昨夜、お前が我が国に来てくれてからというもの、狂暴化していたすべての竜脈が完璧に沈静化した。……魔導観測局が測定した『冥府不協和振動』の魔素圧は、お前が私に頭を下げた瞬間、12,000ヘクトパスカルから『完全ゼロ』へと暴落したのだ」
「え……ぜろ、ですか……?」
「そうだ。我が国の基幹システムである竜脈は、私の龍血が放つ固有の『破壊魔力』に過剰同調して暴走を起こしていた。それを、お前のアスター家固有の特殊波形……清廉なる『神聖魔力』が完全に中和し、書き換えたのだ。余剰エネルギーはすべて無害な光と熱量へと変換され、大気中へとパージされた。その証拠に農作物は芽吹き、病人は回復し、国民は歓喜に湧いている。……彼らはお前に感謝し、お前を神として崇めているのだ」
その言葉に応えるように、眼下の広場から割れんばかりの歓声が巻き起こった!
「「「神聖なる御子様バンザイ!!」」」
「「「エレノア様万歳!! ガルディノス帝国に栄光あれ!!」」」
ワーーーーーッ!!!!!
手を振る群衆。
城の上空からは祝砲の煙が上がり、色とりどりの花びらが風に乗って舞い上がってくる。
頬を撫でる爽やかな風の心地よさと、大勢の人々からの純粋な好意。
「私……本当に、ここにいて良いのでしょうか……? 私、ただの出来損ないの生贄なのに……」
「まだそんなことを言うか。お前は我が国の神であり、私の愛しい妃だ。お前を『出来損ない』などと呼ぶ奴がいれば、この私がそいつの国ごと灰にしてやる」
ジークフリートはエレノアの腰を強く引き寄せ、その額に深い深い誓いのキスを落とした。
あまりの甘さにエレノアの顔が真っ赤になり、恥ずかしさで彼の胸元に顔を埋めた。
だが、そんな至福の甘い空間を切り裂くように——。
バンッ!
バルコニーの扉が勢いよく開かれ、青ざめた顔をした宰相が走り込んできた。
「へ、陛下! 大変でございます! アスター伯爵家より、早馬にて親書が届きました!」
「……アスター伯爵家だと?」
ジークフリートの血のような赤い瞳が、一瞬で氷のように冷たく細められた。
宰相は手に持った羊皮紙の書状を震える手で掲げ、引きつった声でその内容を読み上げた。
『我がアスター伯爵家より、ガルディノス帝国へ。
生贄として愚娘エレノアを差し出してやったのだから、我が国への莫大な金策支援と、帝国が持つ純度百パーセントの金鉱山の権利を譲渡されたし。
なお、連れて行かれたエレノアは我が家でも雑用しかできないブタのような無能ゆえ、生贄としての価値も薄かろう。追って、我が家の真の至宝であり、真の愛娘である美しきマリアンヌを正妃として帝国へ送る。エレノアなどという偽物はすぐに処分し、マリアンヌを歓待せよ』
静寂。
ピキィッ……と、ジークフリートの軍服の袖の中で何かが爆ぜる音がした。
次の瞬間——ドォォォォォォンッ!!!!!!
地鳴りのような咆哮とともに、城全体が激しく揺れた。
つい先ほどまで透き通るような青空だった上空に黒雲が一瞬で渦を巻き、空が真黒に塗りつぶされたのだ!
ピシャァァァァンッ!! ズドォォォンッ!!
狂暴な雷鳴が轟き、城の周囲に暴風雨が吹き荒れる!
ジークフリートの背後から漆黒の巨大な竜の影が立ち上り、天に向かって凶悪な殺気を撒き散らしていた。
彼の怒りに同調するように、周囲の空間の魔力密度が急上昇し、大気がジリジリと焦げる硫黄の臭いで満たされる。
「な……なんという図々しさ……! 我が国の宝であるエレノアを雑用豚だと……!? あの下等な虫ケラどもがぁぁぁぁっ!!!!」
ジークフリートの身体から発せられる圧倒的な圧迫感に、宰相や周囲の衛兵たちは膝をつき、恐怖で呼吸すらできずに絶叫した。
肺を潰されそうな重圧に、誰もが死を覚悟する。
「許さん……絶対に許さんぞ!! 全軍に通達せよ! アスター伯爵領を今すぐ竜の炎で包み込み、草木一本残さず焦土に変えてやる!!」
ジークフリートの瞳が殺意と怒りで真っ赤に燃え上がる。
暴風が吹き荒れ、バルコニーの手すりが破壊されんばかりにきしむ。
誰もが竜帝の怒りに恐怖し、身を縮こまらせる中——。
すっ……。
小さな、温かい手が、ジークフリートの固く握りしめられた大きな手の上に重なった。
「……ジーク様」
ピタリと、ジークフリートの動きが止まった。
彼が見下ろすと、そこには風に髪をなびかせながら、まっすぐな瞳で自分を見つめるエレノアの姿があった。
彼女はジークフリートの手を両手で優しく包み込み、キュッと握りしめたのだ。
「私……もう、大丈夫です。ジーク様がこうして私を大切にしてくださるから……あの方たちの言葉に、傷ついたりしません」
エレノアが小さく微笑むと——。
ふぅ……と、暖かな神聖な光がエレノアの身体から溢れ出した。
その瞬間。
空を覆っていた真っ黒な暗雲が、まるで魔法のように一瞬で吹き飛び、再び見事なまでの「突き抜けるような青空」と「輝く太陽」が戻ってきたのだ!
吹き荒れていた暴風雨は消え去り、澄んだ温かい風が二人の頬を撫でる。
「……エレノア」
ジークフリートの凶悪な殺気が一瞬で霧散し、彼の顔に熱い朱が差した。
(あぁ……ダメだ……。可愛すぎる……! 私を名前で呼び、こんな顔で微笑むなど……愛おしすぎて、息が……息ができない……っ!!)
ジークフリートは胸を押さえてその場に崩れ落ちそうになりながら、エレノアを壊れ物のように激しく抱きしめた。
「エレノア……! 私のかわいい、愛しい天使……!」
「ふふ……ジーク様、苦しいです……」
抱きしめられながら、エレノアは初めて声を上げて可憐に笑った。
ジークフリートはエレノアを抱き上げたまま、凛とした冷徹な顔(しかし頬は赤いまんま)で宰相を見下ろした。
「軍の出撃準備は予定通り進めよ。ただし……ただ滅ぼすだけでは生ぬるい」
ジークフリートの唇に、恐ろしいまでの冷酷な笑みが浮かぶ。
「我が最愛の妃エレノアを伴い、アスター伯爵家へ直接赴く。……あのアホどもに、『自分たちが何を投げ捨て、誰を怒らせたのか』を、その愚かな身骨に刻み込んでやる」
「ははっ!! ただちに出撃の陣を整えます!!」
青空のもと、ガルディノス帝国の最強の竜騎士団が動き出す。
自分を虐げてきた実家への「お仕置き」と、世界で一番甘い「お披露目」の旅が、今始まろうとしていた。




