第1話 生贄の少女と、夕焼けに染まる竜の城
叩きつけるような豪雨が、古い木製の馬車を激しく揺らしていた。
ざあざあと車体を打つ雨音に混ざり、泥水を撥ね上げる馬の蹄の音が、暗い雨空の静寂を切り裂いていく。
馬車の室内は、息が白くなるほどに冷え切っていた。
窓枠の隙間から吹き込む冷気と、雨粒が混ざった土の臭い。
その薄暗い座席の隅で、エレノア・アスターは小さく身体を丸めていた。
(寒い……。でも、これでいいのよね……)
彼女が身に纏っているのは、ドレスとは名ばかりの、生地が薄く擦り切れた麻のワンピース一着だけだ。
靴も履かされず、手首には麻縄の枷がゆるくかけられている。
しもやけで赤く腫れ上がった裸足が、冷気に晒されてズキズキと痛む。
エレノアはその痛みに耐えながら、かつての冷たい屋敷を思い出していた。
彼女は、小国アスター伯爵家の「開かざる部屋」で育った日陰の令嬢だった。
実母を早くに亡くし、後妻として入ってきた継母と異母妹のマリアンヌからは、屋敷の下男以下の扱いを受けてきた。
(毎朝未明に起き出し、冷たい井戸水で指の節が割れるまで床を磨いた……。焦げたパンの耳と薄いスープだけで飢えを凌ぐ日々……。あの生活に比べれば、今の寒さなんて……)
カサカサに割れた唇から滲む血の味が、口の中に苦く広がった。
そして数日前、隣国である強大な「ガルディノス竜帝国」から恐ろしい通達が届いたのだ。
『我が国の竜脈が荒れ狂い、竜帝の魔力が暴走しかけている。鎮めるための「生贄」として、アスター伯爵家の適齢の令嬢を差し出せ。拒めば国ごと滅ぼす』
伯爵家が選んだのは、当然のように「生贄の身代わり」としてのエレノアだった。
『お前のような出来損ないでも、我が家の役に立つのなら光栄に思え! マリアンヌの代わりに竜に食われてくるがいい!』
父親に冷たく突き飛ばされ、泥の中に倒れ込んだあの日。
エレノアは涙すら出なかった。
ただ、ずっと自分を縛り付けていた冷たい屋敷から出られることに、どこか安らぎすら覚えたのだった。
「おい、生贄の女! 見えてきたぞ、ガルディノス帝国の『竜脊城』だ!」
御者の荒々しい声に、エレノアは震える瞼を持ち上げた。
ガタリと揺れる馬車の、鉄格子が嵌められた小さな窓硝子から外を見上げる。
隙間から吹き込む冷たく湿った水滴が、エレノアの頬を濡らした。
そこには、息を呑むような巨躯の城郭が広がっていた。
はるか遠く、天を突く険しい岩山の頂に聳え立つのは、漆黒の黒曜石で築かれた切り立った城塞。
雷鳴が閃くたび、その巨大な影が暗雲の中に不気味に浮かび上がる。
崖に沿ってはいくつもの跳ね橋が張り巡らされ、松明を掲げた黒甲冑の兵士たちが長大な外郭を固めている。
見上げるほどの絶壁。
人間の一生など軽々と呑み込んでしまいそうな圧倒的な異世界の威容に、エレノアは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
「あの冷血な竜帝ジークフリート陛下に食われるんだ。覚悟しておけよ」
御者は怯えたように吐き捨てると、馬車を城の巨大な鉄門の前へと滑り込ませた。
◇
重厚な鉄の扉が、ゴゴゴ……と地鳴りのような音を立てて開く。
手首の枷を解かれたエレノアは、兵士たちに両腕を掴まれ、広大な大広間へと引きずり込まれた。
天井の高さが数十メートルもある、まるで巨大な洞窟のような空間。
足元には整然と敷き詰められた漆黒の大理石。
冷たい大理石の温度が、裸足の傷口にじんわりと染みる
見上げれば、遠く天井近くの壁面に据えられた篝火が、ゆらゆらと不気味な影を床に落としている。
ギシ……ギシ……。
静寂の中、ゆっくりと重い足音が響いてきた。
広間の奥、一段高くなった黒檀の玉座から、一人の男が降りてくる。
エレノアは息を呑んだ。
そこにいたのは、人間離れした圧倒的な存在感を放つ男——ガルディノス帝国の絶対君主、『冷血竜帝』ジークフリート・フォン・ガルディノスだった。
背丈は二メートル近く。
鍛え上げられた強靭な肉体を漆黒と金の刺繍が施された軍服に包み、肩からは黒い竜の毛皮を羽織っている。
何より恐ろしいのはその顔立ちだった。
冷酷なまでに整った彫りの深い容貌に、燃え上がる篝火を映す鮮血のような赤い瞳。
彼の全身からは、焦げた硫黄と雷撃が混ざり合ったような、刺すように鋭い「竜の狂暴な魔力」が圧迫感となって溢れ出していた。
(あぁ……この方が、私を召し上がる竜帝様……)
エレノアは恐怖で足がガクガクと震えた。
肌がピリピリと痺れ、息をするのも苦しいほどの圧倒的な威圧感。
だが、長年の虐待で染み付いた「失礼があってはならない」という習性が、恐怖よりも先に身体を動かした。
エレノアは深く息を吐き出すと、震える膝を伸ばして冷たい大理石の上にそっと正座した。
自らのしもやけの痛みを意識の外に追いやり、幼い頃に叩き込まれた礼節の作法に従って、重ねた両手を前に置き、深く深く頭を下げたのだ。
「お初にお目にかかります、竜帝陛下。アスター伯爵家より生贄として参りました、エレノアと申します。……未熟な身ではございますが、私の命で陛下の御身とこの国が少しでも安らぎますなら、どうぞお召し上がりくださいませ」
静まり返る大広間。
エレノアは固く目を閉じ、鋭い牙で噛み砕かれる痛みを覚悟した。
しかし——。
いつまで経っても、痛みは来なかった。
「……おい」
降ってきたのは、地鳴りのように低く重い、だがどこか掠れた男の声だった。
エレノアがおそるおそる顔を上げると——目の前には、片膝をついて自分と同じ目線まで顔を下げたジークフリートの姿があった。
彼の鮮血色の瞳が、驚愕と混乱で大きく見開かれている。
「……お前、今……何をした?」
「え……? あ、あの……ご挨拶を……」
ジークフリートは息をのんだ。
彼の視線は、エレノアの小さな身体に注がれている。
長年、脳を焼き切らんばかりの激痛となって彼を苛み続けていた『竜脈の暴走』と『龍血の呪い』。
それが——この少女が自分に頭を下げ、言葉を交わした瞬間、まるで嘘のように霧散していたのだ。
それだけではない。
ジークフリートの荒ぶる魔力が、彼女の存在に触れた瞬間、心地よい波のように穏やかになり、全身をぬくもりが満たしていく。
(……なんだこの光は……!? 私の荒ぶる竜の魂が……この娘の前にひざまずき、歓喜の声を上げている……!?)
ジークフリートの手が震えた。
彼はそっと、エレノアの細く冷え切った手に触れた。
「ひっ……!」
エレノアが小さく身をすくめる。
ジークフリートの大きな掌が包み込んだのは、凍えるように冷たく……そして、無数の小さな傷としもやけで赤く腫れた手だった。
手のひらには、長年重い雑巾を絞り、硬い床を磨き続けたことでできた硬いタコが刻まれている。
身に纏う麻のドレスはボロボロで、首元からは骨が浮き出るほど痩せこけていた。
「お前……アスター伯爵家の令嬢なのだろう? なぜこのような身なりをしている? この傷とタコはなんだ……!?」
ジークフリートの低い声に、抑えきれない怒りの色が混ざる。
エレノアは不作法で怒られたのだと勘違いし、慌てて手を引こうとした。
「も、申し訳ございません! 汚い手でお触れしてしまって……! 私は……家でも下働きばかりしておりましたので、見苦しい手をしております。でも、生贄としての役に立つのでしたら、どうぞ気になさらず……」
「馬鹿者!!!!」
大広間にジークフリートの怒号が響き渡った。
エレノアは恐怖でキュッと身体を丸め、目を瞑った。
しかし、次に起こったのは予想もしない出来事だった。
ふわり、と身体が浮き上がる感覚。
ジークフリートが、その強靭な両腕でエレノアの痩せた身体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げたのだ。
いわゆる、お姫様抱っこだった。
「え……? へ……? あ、あの……!?」
「静かにしていろ。折れてしまいそうなほど軽いではないか……一体どれほど食わされていないのだ」
ジークフリートの胸板からは、ドックンドックンと力強い鼓動が伝わってくる。
彼が纏う黒い毛皮から漂うのは、ほんのりと甘い白檀と高級な香草の香り。
寒さで震えていたエレノアの全身に、彼の体温がじんわりと染み渡っていく。
「陛下!? 何をされるのですか!?」
周囲の側近や兵士たちが呆然と立ち尽くす中、ジークフリートは一喝した。
「全軍に伝えよ! 生贄の儀式は中止だ! いや……違う!」
ジークフリートはエレノアを愛おしそうにしっかりと抱き直すと、大広間の全員に向かって朗々と宣言した。
「本日より、このお方こそが我がガルディノス帝国の至高の神聖なる御子であり、我が最愛の妃である! 指一本触れることも許さん! 不敬を働く者は、この私が直々に首を跳ねると思え!」
「「「は、はいいぃぃぃぃっ!??!?」」」
側近たちの悲鳴のような叫びが大広間に響き渡った。
エレノアだけが何が起きたのか分からず、ぱちくりと大きな目を丸くさせている。
「あ、あの……私、生贄として食べられるのでは……?」
「誰が我が国の宝を喰らうか! お前は今日から、この城で最も貴く、最も愛される存在なのだ!」
ジークフリートがそう叫んだ瞬間だった。
ドォォォォォン……!
地響きとともに、城の外の空気が一変した。
それまで竜脊城を覆い尽くし、猛烈な雷雨を降らせていた暗黒の雲が、まるで巨大な手で割られたかのように一瞬で引き裂かれたのだ。
高窓から、暖かな光が差し込んでくる。
そこにあったのは——地平線まで広がる美しい「夕焼け」だった。
燃えるような朱色、黄金色、そして深い紫色のグラデーションが空一面を染め上げ、雨上がりの城庭に生い茂る木々の葉が、濡れた宝石のようにキラキラと輝いている。
雲の隙間から注ぐ夕陽が、抱きかかえられたエレノアの美しい金髪と、透き通るような白銀の瞳を鮮やかに照らし出した。
「あ……きれい……」
エレノアがぽつりと呟いたその横顔を見つめ、ジークフリートは息を呑んだ。
(ああ……神よ。私にこんな奇跡を下さるとは……。可愛すぎる……可愛すぎて、胸が苦しい……息ができない……!)
無表情で冷血と恐れられた竜帝の頬が、朱色の夕焼け以上に真っ赤に染まっていた。
◇
数分後。
エレノアが連れていかれたのは、城の最上階にある「竜帝の寝所」だった。
そこは、エレノアがこれまで見たこともないような贅を尽くした大部屋だった。
ふかふかのシルクの絨毯。
繊細な彫刻が施された巨大な四柱式ベッドには、最高級の羽毛布団と柔らかい羊毛の毛布が何重にも重ねられている。
「さあ、まずは温まるのだ」
ジークフリートはエレノアをそっとベッドの上に降ろすと、自ら黒い竜毛皮のマントを脱ぎ、エレノアの肩へと羽織らせた。
ずっしりとした重みと、ぽかぽかとした暖かさ。
「あ、あの……陛下、私のような汚い者が、このような高級な絨毯やベッドを汚してしまっては……」
「黙りなさい。お前が遠慮すればするほど、私の胸が締め付けられて死にそうになる」
ジークフリートは真顔で胸を押さえると、すぐさま控えていたメイド長に命じた。
「今すぐ城中の腕利きの料理人と料理長を集めろ! 最高の温かいスープと、一番柔らかいお肉、そして甘い蜂蜜を入れたホットミルクを用意させろ! それと、最高級のハーブを入れた温かい湯あみだ! 一刻の猶予も許さん!」
「は、はへっ! ただちに!!」
メイド長が風のように走り去っていく。
やがて、湯気を立てた銀のトレーが運ばれてきた。
芳醇なコンソメの香りと、香ばしいバターの匂い。そして甘い蜂蜜の香り。
エレノアのお腹が、ぐうぅ……と小さく鳴った。
「あ……っ!」
エレノアが恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして縮こまると、ジークフリートは破顔した。
「良い音だ。さあ、遠慮せずに召し上がるがいい」
ジークフリート自らがスプーンを取り、温かい野菜スープをすくうと、ふーふーと息を吹きかけて冷ましてから口元へと運んできた。
「あ、あの……自分で食べられます……! 汚してしまいますっ」
「だめだ。私に食べさせなさい。お前に美味しいものを食べさせることが、今の私の生きがいなのだから」
真剣な瞳で見つめられ、エレノアは覚悟を決めて小さな口を開けた。
「あ……む」
とろりとしたスープが舌の上に乗った瞬間、野菜の甘みと濃厚な肉の旨味が口いっぱいに広がった。
温かい液体が喉を通り、冷え切っていたお腹をじんわりと満たしていく。
体が芯から温まり、じわっと涙が溢れ出てくる。
「おいしい、です……。こんなに温かくて美味しいもの……生まれて初めて食べました……」
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙。
それを見たジークフリートは、まるで心臓を打ち抜かれたかのように衝撃を受け、エレノアの手をぎゅっと握りしめた。
「エレノア……! 今までよく耐えてくれた。もう誰も、お前に辛い思いなどさせん! お前を虐げたアスター伯爵家には、後で相応の裁きを下してやるからな……!」
その夜。
エレノアがふかふかのベッドで生まれて初めて熟睡する横で、ジークフリートは彼女の手をしっかりと握りしめたまま、一晩中その寝顔を見守り続けたという。
冷血と呼ばれた竜帝と、生贄として送られた薄幸令嬢。
二人を包み込むように、雨上がりの夜空には澄み渡る満月と無数の星々が美しく輝いていた。




