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剣の道~拾われた子が30年素振りを続け最強に至るまで~  作者: 涙目


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第17話 「再会」

この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。

師匠が亡くなってから、三か月が過ぎた。


雪は溶け、山には春が戻っていた。

道場の庭にも、柔らかな風が吹くようになった。


けれど、レンにはその暖かさがよく分からなかった。


朝起きる。

水を汲む。

庭を掃く。

薪を割る。

稽古場を整える。

そして木刀を振る。


何も変わっていない。

何も変わっていないはずだった。


けれど、縁側にはもう師匠がいない。


「腰が高い」


「肩に力が入りすぎじゃ」


「今日の千一回は、明日の千一回にはならん」


そう言ってくれる声は、もうどこにもなかった。


レンはそれを考えないようにしていた。

考えたら、止まってしまいそうだった。

止まったら、もう二度と振れなくなりそうだった。


だから振った。


考えないために。

泣かないために。

忘れないために。

忘れたくないから。


ヒュッ。


ヒュッ。


ヒュッ。


庭に木刀の音だけが響く。


九百四十七。


九百四十八。


九百四十九。


数を数える声も、心の中だけだった。

以前なら、千一回目を終えると少しだけ達成感があった。


今日は終わった。

明日も振ろう。


そう思えた。


けれど今は違う。


いくら振っても、胸の奥に空いた穴は埋まらなかった。


木刀を握る手に力が入る。


振る。


振る。


振る。


もっと正しく。


もっと速く。


もっと遠くへ。


あの日、山で見た師匠の剣へ。

あの背中へ。


届きたい。


届かない。


届くわけがない。


もう、聞けない。


もう、見られない。


もう、叱ってもらえない。


「……っ」


呼吸が乱れた。

木刀の軌道がわずかにぶれる。


レンは奥歯を噛み締めた。


違う。


違う。


こんな一振りではない。


師匠の剣はこんなものではなかった。


もう一度。


もう一度。


もう一度。


その時だった。


「レン」


声がした。


木刀が、止まった。

誰かに名前を呼ばれたのは、久しぶりだった気がした。


レンはゆっくりと門の方を見る。


春風に髪を揺らしながら、一人の少女が立っていた。


明るい瞳。

少し不安そうな顔。


けれど、見間違えるはずがない。


「……リナ」


名前を呼ぶと、リナは少しだけ表情を緩めた。


「久しぶり」


その声を聞いた瞬間。


胸の奥が、痛くなった。

懐かしかった。

あまりにも懐かしかった。


昔、誰にも見られていないと思っていた素振りを、彼女だけが見ていた。


“頑張ってね”


“私、応援する”


そう言ってくれた。

たったそれだけの言葉を、レンはずっと覚えていた。


覚えていたのに、

忘れていた気もした。


師匠が亡くなってから、毎日振ることだけで精一杯だった。


リナの声を聞いて、初めて思い出した。


自分は昔、誰かに応援されたことがあったのだと。


「……久しぶり」


レンはようやくそう返した。

リナはゆっくり庭へ入ってきた。


以前より少し背が伸びていた。

顔つきも少し大人びていた。


けれど、笑い方は変わっていなかった。


リナは木刀を見た。

それから、レンの顔を見た。


「まだ、振ってるんだね」


「……うん」


「毎日?」


「うん」


「そっか」


リナは小さく笑った。


「レンらしいね」


その言葉で、なぜか胸が詰まった。


“レンらしい”


そう言われることが、こんなに苦しいとは思わなかった。


自分らしさなんて、分からなかった。


師匠がいたから振っていた。

師匠が続けろと言ったから振っていた。

師匠が見ていてくれたから、続けられた。


でも、もう師匠はいない。


それでも振っている。


では、今の自分は何のために振っているのか。


レンには分からなかった。


リナは少し目を伏せた。

そして、小さな声で言った。


「聞いたよ」


レンは動けなかった。


「先生のこと」


「……うん」


それ以上、言葉が出なかった。

出したら何かが壊れそうだった。


リナは唇を噛んだ。


「ごめんね」


レンは眉をひそめる。


「なんで、リナが謝るの」


「会いに来ればよかった」


その一言で。


胸の奥に押し込めていたものが、音を立てて崩れた。


“会いに来ればよかった”


それはレンが、毎日のように思っていた言葉だった。


もっと部屋に行けばよかった。


もっと話せばよかった。


もっと聞けばよかった。


もっと、ありがとうと言えばよかった。


もっと、見ていてくださいと言えばよかった。


もっと。


もっと。


もっと。


いくらでもあった。


なのに、全部遅かった。


レンは木刀を握り締めた。


手が震えていた。


「……俺も」


声が掠れた。


リナが顔を上げる。


レンはうつむいたまま続けた。


「俺も、そう思った」


一度口にしたら、もう止まらなかった。


「もっと話せばよかった」


「もっと聞けばよかった」


「山で助けてもらった時の剣も、ちゃんと聞きたかった」


「どうやったんですかって」


「どうしたら届きますかって」


「まだ、何も分かってないのに」


「全然、届いてないのに」


声が震える。


目の奥が熱くなる。


けれどレンは止められなかった。


「なのに、もう聞けない」


「もう、見てもらえない」


「千一回振っても、誰も何も言ってくれない」


「間違ってるのかも分からない」


「続けてるのに」


「毎日続けてるのに」


「なんで……」


木刀を握る手から力が抜けた。


カラン、と乾いた音を立てて、木刀が地面に落ちる。


レンはその場に膝をついた。


「なんで、いなくなるんだよ……」


小さな声だった。


けれど、それが本音だった。


ずっと言えなかった言葉だった。


師匠の前では言えなかった。

師範代の前でも言えなかった。

弟子たちの前でも言えなかった。


泣いたら、師匠から受け継いだものまで弱くなる気がした。


だからずっと堪えていた。


けれど――


リナの前では、堪えられなかった。


「俺、まだ何も返せてない」


「拾ってもらったのに」


「教えてもらったのに」


「木刀まで、もらったのに」


「俺はまだ……」


言葉が途切れる。


涙が落ちた。


一度落ちると、もう止まらなかった。


レンは顔を覆うこともできなかった。


ただ膝をついたまま、泣いた。


声を殺すこともできなかった。


子供のように。


ずっと我慢していた分だけ。


リナは何も言わなかった。


近づいて、レンの隣に膝をついた。


そして、そっと背中に手を添えた。


「うん」


ただ、それだけ言った。


慰めるでもなく。


励ますでもなく。


否定するでもなく。


ただ、そこにいた。


レンはそれが余計に苦しかった。


そして、救われた。


「リナ……」


「うん」


「俺、弱い」


「うん」


「全然、強くない」


「うん」


「師匠みたいになれない」


「うん」


「でも……」


レンは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


「でも、やめたくない」


リナは静かに頷いた。


「うん」


「やめたくないんだ」


「うん」


「寂しいのに」


「苦しいのに」


「もう見てくれないのに」


「それでも、振りたい」


「振らないと、師匠が本当にいなくなる気がする」


リナの目にも涙が浮かんでいた。


それでも彼女は笑った。


昔と同じ笑顔だった。


「レンは、ちゃんと覚えてるよ」


レンは息を止めた。


「先生のこと」


「先生の言葉も」


「先生の剣も」


「レンが毎日振ってるなら、なくなってないよ」


リナは落ちていた木刀を拾い、レンの前に差し出した。


「だから」


少し震える声で、けれどはっきりと言った。


「頑張ってるね」


その言葉で、レンはまた泣いた。


昔は、


“頑張ってね”


だった。


これから先へ向かう言葉だった。


でも今は違う。


“頑張ってるね”


今までの自分を、見てくれる言葉だった。


師匠がいなくなってからの三か月。


誰にも言えずに振った朝。


泣きそうになりながら振った夜。


それでも止めなかった一振り。


全部を、リナが認めてくれた気がした。


レンは震える手で木刀を受け取った。


「……ありがとう」


声にならない声だった。


リナは首を横に振る。


「私、何もできないよ」


「ううん」


レンは涙を拭った。


「いてくれた」


リナは目を見開く。


「それだけで、いい」


春風が吹いた。


縁側には師匠はいない。


けれど庭には、リナがいた。


レンはゆっくり立ち上がる。


まだ涙は止まっていない。


それでも木刀を構えた。


「見てて」


リナは頷いた。


「うん」


レンは一振りした。


ヒュッ。


風を切る音が響く。


それはいつもと同じ音だった。


けれど、少しだけ違った。


痛みも、寂しさも、悔しさも、全部乗った一振りだった。


二振り。


三振り。


リナは黙って見ていた。


レンは泣きながら振った。


泣きながら、振り続けた。


師匠に届くように。


リナに見てもらうように。


自分がまだここにいると、確かめるように。


そして千一回目。


レンは木刀を振り下ろした。


息が切れていた。


涙も乾いていなかった。


けれど、胸の奥は少しだけ軽くなっていた。


リナが小さく拍手をした。


「お疲れさま」


レンは振り返る。


そして、少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


師匠が亡くなってから、初めての笑顔だった。


「うん」


「また来てもいい?」


リナが尋ねる。


レンは迷わず答えた。


「来てほしい」


言ってから、自分で驚いた。


そんなことを誰かに言ったのは初めてだった。


リナも驚いた顔をした。


けれどすぐに笑った。


「じゃあ、また来る」


「うん」


リナは門の方へ歩き出す。


途中で振り返った。


「レン」


「何?」


リナは昔と同じように、まっすぐ笑った。


「明日も振る?」


レンは木刀を握り直す。


「振る」


「明後日も?」


「振る」


「十年後も?」


「振る」


「三十年後も?」


レンは少しだけ空を見上げた。


そして答えた。


「振る」


リナは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ私も、また応援する」


その言葉に、レンは静かに頷いた。


「ありがとう」


リナが帰っていく。


その背中が見えなくなるまで、レンは見送った。


一人ではなかった。


師匠はいない。


けれど、一人ではなかった。


レンは木刀を胸に抱え、縁側の方へ目を向ける。


そこには誰もいない。


それでも、なぜか師匠が少しだけ笑っている気がした。


レンは深く一礼する。


「明日も、振ります」


春の風が、静かに庭を通り抜けた。


お読み頂き、ありがとうございます。

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