第16話 「継ぐ者」
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
雪が降り始めてから数日。
道場主の容態は目に見えて悪くなっていた。
もう稽古場へ出ることはない。
縁側で弟子たちを見守ることもない。
部屋で過ごす時間が増えていた。
それでもレンは毎日変わらず木刀を振った。
朝。
昼。
そして夜。
千一回。
一日も休まず続けてきた自分の約束だった。
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ある晩。
レンが素振りを終えようとした時だった。
師範代が静かに近付いてきた。
「先生がお呼びだ。」
レンは木刀を握り締めたまま頷く。
嫌な予感がしていた。
しかし、認めたくなかった。
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障子を開く。
部屋には灯りが一つ。
道場主は布団の上に横になっていた。
以前よりずっと小さく見える。
だが目だけは変わらなかった。
鋭く、そして優しかった。
「来たか。」
「はい。」
道場主は枕元へ視線を向ける。
そこには一本の木刀が置かれていた。
古い。
何十年も使い込まれた木刀。
傷だらけだった。
それでも不思議な存在感があった。
「覚えておるか。」
老人が言う。
「十四の頃から振った木刀じゃ。」
レンは驚く。
十四歳。
今の自分とほとんど変わらない年齢だった。
「才はなかった。」
老人は笑う。
「剣術大会ではいつも負けた。」
「兄弟子にも勝てんかった。」
「師匠には何度も諦めろと言われた。」
レンは言葉を失う。
山で見た剣。
旅の剣士が頭を下げた剣。
その持ち主にも、そんな時代があったのか。
「だがな――」
老人の視線は天井を見ていた。
遠い昔を見ているようだった。
「振ることだけはやめなかった。」
「勝てなくても振った。」
「笑われても振った。」
「意味があるか分からなくても振った。」
レンの胸が熱くなる。
その言葉は誰の話でもない。
まるで自分のために残された言葉だった。
老人はゆっくり木刀へ手を伸ばす。
震える指。
以前なら片手で持てた木刀が重そうだった。
レンは慌てて支える。
「受け取れ。」
「……え。」
「お前に預ける。」
老人は静かに言った。
「わしの剣ではない。」
「道じゃ。」
レンは震える手で木刀を受け取った。
重い。
思った以上に重かった。
木の重さではなかった。
何万回。
何十万回。
振り続けた歳月の重みだった。
「師匠。」
声が震える。
「まだ教えて欲しいことがあります。」
老人は少しだけ笑った。
「もう教えた。」
レンは首を振る。
「まだです。」
「全然追いついていません。」
沈黙。
やがて老人は穏やかに目を閉じる。
「だから追うのじゃろう。」
その一言が胸に刺さった。
老人は続ける。
「追いつかなくてよい。」
「追い続けろ。」
レンは声を出せなかった。
ただ涙だけが溢れた。
老人は最後に尋ねた。
「レン。」
「はい。」
「明日も振るか。」
レンは泣きながら頷く。
「振ります。」
「十年後もか。」
「振ります。」
「三十年後もか。」
レンは木刀を強く抱き締めた。
「振ります。」
「死ぬまで。」
老人は微笑んだ。
本当に嬉しそうに。
「それでいい。」
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その夜。
老人は眠った。
穏やかな顔だった。
まるで長い旅を終えた人のように。
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翌朝。
レンは誰より早く庭へ出た。
雪は止んでいた。
空は青かった。
木刀を握る。
自分の木刀ではない。
師から託された木刀。
深く礼をする。
「お願いします。」
一振り。
風が鳴る。
二振り。
三振り。
涙が落ちる。
それでも振る。
九百九十八。
九百九十九。
千。
そして。
千一。
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レンは空を見上げた。
「見ていてください。」
「僕はまだ振ります。」
その日から、
少年の剣は、自分のためだけの剣ではなくなった。
受け継いだ道を歩む者の剣となったのだった。
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