第15話 「病」
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
冬を迎える頃。
道場の空気が少しずつ変わり始めていた。
レンは最初、その理由が分からなかった。
朝の稽古。
昼の掃除。
夜の素振り。
毎日は今までと何も変わらない。
だが、
道場主の咳だけが増えていた。
コホッ。
コホッ。
最初は風邪だと思った。
辺境の冬は厳しい。
年寄りなら珍しくもない。
だが、その咳は何日経っても止まらなかった。
---
ある日の夕方。
レンは縁側で木刀の手入れをしていた。
庭では弟子たちが稽古をしている。
その様子を見ながら、道場主が静かに咳き込んだ。
「師匠。」
レンが顔を上げる。
「大丈夫ですか。」
老人は笑う。
「年寄りにはよくあることじゃ。」
そう言う声はいつもより少し弱かった。
---
それから数日後。
薪集めから戻ったレンは、道場主の部屋の前で足を止めた。
障子の向こうから声が聞こえる。
師範代だった。
「先生。」
「もう休まれた方が。」
「皆も心配しております。」
しばらく沈黙。
やがて道場主の声が返ってきた。
「まだ動ける。」
「それに、わしがおらんくなった後の方が大変じゃ。」
レンの胸がざわついた。
おらんくなった後。
聞き間違いであってほしかった。
---
その夜。
レンは素振りを終えると、薬湯を持って部屋を訪れた。
「失礼します。」
障子を開ける。
道場主は布団の上に座っていた。
少し痩せた気がした。
「来たか。」
「薬です。」
「すまんな。」
レンは黙って湯飲みを渡す。
老人は一口飲んで苦笑した。
「苦い。」
「薬ですから。」
「お前も随分生意気になった。」
久しぶりに二人で笑った。
しばらく沈黙が続く。
やがて、老人が口を開いた。
「レン。」
「はい。」
「お前は何のために剣を振っておる。」
突然の問いだった。
レンは少し考える。
そして答えた。
「強くなるためです。」
老人は静かに首を横へ振る。
「それは違う。」
レンは驚いた。
今までずっと強くなるためだと思っていた。
「では何のために。」
老人は窓の外を見る。
雪が静かに降り始めていた。
「強さは結果じゃ。」
「目的にしてはならん。」
「目的にすると、人はいつか剣を嫌いになる。」
レンには難しかった。
だが老人は構わず続ける。
「お前は振ることそのものを好きになれ。」
「誰かに勝つためではなく。」
「誰かに認められるためでもなく。」
「ただ昨日の自分を超えるために。」
その言葉は静かだった。
だが不思議と重かった。
「師匠。」
レンは思い切って聞いた。
「師匠は……死ぬんですか。」
部屋の空気が止まった。
老人は少し目を閉じる。
そして穏やかに答えた。
「人は皆死ぬ。」
「わしも例外ではない。」
レンは拳を握った。
認めたくなかった。
まだ教わりたいことがある。
まだ追いつけていない。
山で見たあの剣に。
あの日見た背中に。
老人はそんなレンを見て微笑んだ。
「そんな顔をするな。」
「お前はまだ十三歳じゃ。」
「これからいくらでも強くなれる。」
「わしが羨ましいくらいにな。」
レンは俯いた。
何も言えなかった。
「さぁ。」
老人は軽く手を振る。
「今日の素振りは終わったか。」
レンは首を横に振る。
「まだです。」
「では行け。」
老人はいつものように言った。
「今日の千一回は、明日の千一回にはならん。」
その言葉に、レンは思わず笑った。
泣きそうになりながら。
「はい。」
---
部屋を出る。
雪が降っていた。
庭に立つ。
木刀を握る。
一振り。
二振り。
三振り。
木刀の音が夜に響く。
その音を聞きながら。
障子の向こうで老人は静かに目を閉じた。
そして小さく呟く。
「ようやく……見つけたかもしれんな。」
自分の剣を継ぐ者を。
お読み頂き、ありがとうございます。




