第14話 「山の主」
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
十三歳の秋。
山々は赤や黄色に染まり始めていた。
レンはいつものように薪集めのため、道場の裏山へ入っていた。
背には縄。
腰には小刀。
そして肩には木剣。
薪集めに剣は必要ない。
それでもレンは毎日持ち歩いていた。
習慣だった。
呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
落ち葉を踏みながら山を登る。
その時だった。
ガサッ。
藪が揺れた。
レンは足を止める。
聞き慣れた音ではなかった。
鹿でもない。
猪でもない。
もっと重い。
もっと大きい。
そして現れた。
巨大な熊。
辺境の村で「山の主」と呼ばれる大熊だった。
立ち上がれば人間の倍近い高さ。
黒々とした毛並み。
太い腕。
鋭い爪。
その姿を見た瞬間、レンの背中を冷たい汗が流れた。
本能が叫ぶ。
逃げろ。
だが、
熊はすでにこちらを見ていた。
低い唸り声。
土を踏み鳴らす前足。
距離は近い。
背を向ければ追いつかれる。
レンは木剣を握った。
ドクン。
心臓が大きく鳴る。
怖い。
今まで感じたことのない恐怖だった。
それでも足は引かなかった。
木剣を構える。
何万回。
何十万回。
振ってきた構えだった。
熊が動く。
突進。
山道が揺れる。
レンも踏み込んだ。
振る。
いつも通り。
ただ、それだけ。
バシッ!
木剣が熊の鼻先を打つ。
しかし、
熊は止まらない。
まるで効いていなかった。
「っ!」
次の瞬間。
前足が振り下ろされる。
レンはとっさに転がった。
地面が抉れる。
当たっていたら終わっていた。
恐怖が喉を締め付ける。
それでも立つ。
振る。
避ける。
振る。
避ける。
何度も木剣を叩き込む。
だが浅い。
届かない。
圧倒的だった。
自分の剣が通用していない。
その現実だけが重くのしかかる。
やがて足がもつれた。
(しまった!)
そう思った時には遅かった。
熊の巨大な身体が迫る。
“死”
その文字が頭をよぎった。
その瞬間だった。
ヒュッ――
風が鳴った。
次の瞬間、熊の身体が大きく揺れる。
ドンッ!
後ろへ跳ねるように退いた。
レンは何が起きたのか分からなかった。
熊の前には、一人の老人が立っていた。
道場主だった。
木刀一本。
それだけだった。
「……師匠。」
老人は振り返らない。
静かに言う。
「下がっておれ。」
熊が怒りの咆哮を上げる。
再び襲いかかる。
だが、
レンは目を見開いた。
見えない。
いや、
見えているのに分からない。
特別な技ではない。
派手な動きもない。
構え。
足運び。
木刀の軌道。
全部知っている。
毎日見てきたものだ。
自分もやっている基本そのもの。
なのに、
まるで別物だった。
老人は最小限の動きで熊の攻撃を外す。
そして木刀を当てる。
一撃。
また一撃。
急所を打っているようにも見えない。
だが熊は近寄れない。
踏み込めない。
やがて熊は唸り声を上げながら後退した。
そして森の奥へ消えていく。
静寂。
レンは言葉を失っていた。
「今のは……。」
老人は木刀を肩に担ぐ。
「ただの基本じゃよ。」
レンは思わず木刀を見る。
自分も同じものを振っている。
同じ構えをしている。
だがまるで違った。
旅の剣士アルトの言葉が頭をよぎる。
『積み重ねた人間だけが持つ剣です』
あの時は分からなかった。
今なら少しだけ分かる気がした。
強い剣ではない。
速い剣でもない。
“積み重ねた剣”だ。
帰り道。
レンは黙ったまま歩いていた。
老人はそんな弟子を横目で見る。
「悔しいか。」
レンは小さく頷いた。
「……はい。」
「全然届きませんでした。」
老人は少しだけ笑った。
「届く必要はない。」
「今はな。」
そして小さく咳をした。
レンは気付かなかった。
だが老人の顔色は、以前より少しだけ悪くなっていた。
夕日が山を赤く染める。
その日レンは初めて知った。
自分がまだ弱いことを。
そして――
自分が追いかける背中が、どれほど遠い場所にあるのかを。
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