第6話 ファースト・コンタクト
科学技術センターの一件から、一夜が明けた。
右の太腿には、厚く包帯が巻かれている。腐食液の火傷は、思っていたより深かった。ゲームなら、回復キットで一瞬だ。ここでは、毎日の消毒と軟膏が欠かせない。
「ラウルくん、包帯を替えますね」
医務室の簡易ベッドに腰かけていると、リナがトレイを抱えて入ってきた。ほかの患者は、もういない。
「ああ、頼むよ」
努めて平静に答えた。
リナは、ベッド脇の椅子に腰を下ろし、俺の脚の前に屈み込む。黒髪のボブが、はらりと揺れた。白衣の襟元が、少しだけ開く。
見ていない。見ていないぞ。
……いや、見ている。屈んだ拍子に、白衣の布地が胸の形に沿って張りつめるのを、俺の目は、律儀に追っていた。視線を逸らすと、今度は、細い首筋と、後れ毛の落ちるうなじに引っかかる。どこへ逃がしても、結局は女の体の線だ。この身体は、実戦では本当によく動くくせに、こういう場面では、役立たずの男子高校生並みに素直だった。
ソフィアのときは、こうならない。あいつの前では、なぜか、去っていく後ろ姿ばかり目で追っている。背筋の伸びた、あの歩き方。それだけで、十分だった。理由は、自分でもよく分からない。
「痛みは、どうですか?」
「ずいぶん、楽になったよ。リナのおかげだ」
「ふふ、よかった。……ラウルくんが運び込まれてきたとき、本当に、心臓が止まるかと思ったんです」
リナは、包帯をほどく手を止めずに言った。声が、かすかに震えている。
「あなたたちが帰ってこなかったら、どうしようって。ずっと、そればかり考えていて」
「心配をかけたな」
「いいえ。……だから、ちゃんと治ってくださいね」
顔を上げて、微笑む。その笑顔を見て、胸が、きゅっと鳴った。
憧れ、というのは、こういうものなのだろう。届かない場所にいるから、まぶしい。元の世界のことは、何も思い出せない。だが、こんなふうに、俺の怪我を本気で案じてくれる人は、きっと、いなかった。
それなのに、だ。
「……あ」
リナの手が、止まった。
「リナ?」
返事がない。俯いたまま、動かない。
「どうした? 気分でも――」
ゆっくりと、顔が上がった。
その瞳が、金色だった。
◇
息が、止まった。
PVSの青白い光ではない。光源のない、とろりとした、蜂蜜のような金。あの突撃のとき、ソフィアが見たという色が、そのまま、リナの目に宿っていた。
視界の端で、表示が乱れた。HPゲージも、時刻も、砂嵐のように崩れて、すぐに戻る。
「・・・・・・」
リナが、にこ、と笑った。さっきまでの、柔らかい笑顔とは違う。口の端だけを、持ち上げるような笑い方だった。
「あー、やっぱり、ちゃんと見えるんだぁ」
声が、違う。
高くて、軽くて、舌足らず。年下の女の子が、友達をからかうときのような、甘ったるい調子だった。
「・・・リナ?」
じゃ、ないな・・・。
いや、リナなんだ、姿は。
だが、中身が得体の知れない何かと入れ替わっている?
努めて、声を低く抑えた。右手は、ゆっくりと、ベッドの脇に立てかけてある銃のほうへ伸びている。届くか。いや、届いたところで、撃てるのか。この体は、リナのものだ。
「あれ、警戒してる? やだなぁ、そんなに怖がらなくてもいいのにぃ」
リナの顔をした何かは、椅子の上で足をぶらぶらと揺らした。
「安心して。この子に、何かする気はないから。ちょっとだけ、借りてるだけ」
「・・何者だ」
「んー、それ、聞いちゃう? 聞いても、たぶん、わかんないと思うなぁ」
からかうような口調だった。言葉を、慎重に選ばなければ。下手に刺激すれば、リナの身に何が起きるか分からない。
「俺に、何の用だ・・・」
「用っていうか、ねえ。ちょっと、様子を見に来ただけ。ラウルが、ちゃんと動いてるかなぁって」
俺の名前を、まるで、昔から知っているみたいに呼ぶ。
「・・俺を、知っているのか?」
「知ってるよぉ。だって、ラウルでしょ? ラウル、ラウル。ふふ」
指先で、自分の髪をくるくると巻く。リナには、絶対にない仕草だった。
「でもさぁ、ラウル、なんにも覚えてないんだね」
心臓が、跳ねた。
「・・・何の、ことだ」
「とぼけちゃって。記憶、ないんでしょ? 自分のことも、前のことも、ぜーんぶ。あはは、かわいそ〜」
笑い声が、耳の奥に、細い針のように刺さる。
「あれぇ、おかしいなぁ。ちゃんと移したはずなのに。どこで間違えたのかなぁ」
金色の目が、ふっと、遠くを見るように揺れた。
「ま、いっか。ちょっとしたエラーだよね、こんなの。動いてるなら、問題なし」
エラー。
その単語が、頭の中に、重く沈んだ。俺の記憶の穴を、こいつは、ただの不具合のように言った。
「おまえは、何を知っている・・・」
「教えなーい。だって、つまんないでしょ、先に全部わかっちゃったら」
唇に、人差し指を当てる。そして、また、にやりと笑った。
「それよりさぁ。ラウルって、こういう子が好みなんだぁ」
「・・・・は?」
「リナみたいな子。優しくて、丁寧で、おっぱいおっきくて。ふーん」
顔が、一気に熱くなった。
「さっきから、すっごい見てたよねぇ。首のとことか、胸のとことか。むっつりさんだぁ」
「・・・見て、ない」
いや、見てたけども。
この雰囲気でそういうことを聞くのかよ。
イライラしてきた。
「うそ。見てたもん。ばっちり」
くすくすと、笑い声が弾んだ。
状況は、最悪だ。目の前にいるのは、正体不明の何かで、リナの体を乗っ取っている。それなのに、このからかい方は、年下の生意気な妹みたいで、腹が立って仕方がない。
「・・リナを、返せ。元に戻すんだ・・・」
「えー、やだ、って言ったら?」
「・・・・・・」
奥歯を、噛みしめた。
「ふふ、冗談。ちゃんと返すよ。もう、帰るところだったし」
椅子から、すっと立ち上がる。そして、顔を、ぐっと近づけてきた。金色の瞳が、俺の目を、真正面から覗き込む。
「ねえ、ラウル。もうすぐ、面白いことが起きるよ」
「面白いこと?」
「うん。だから、ちゃんと、生きててね。ばいばい」
瞳から、金が引いた。
くたり、とリナの体が力を失う。倒れかけた肩を、とっさに支えた。
◇
「……あれ?」
リナが、ぱちぱちと瞬きをした。見慣れた、茶色がかった瞳だった。
「私、今……」
「リナ。大丈夫か?」
「え? あ、ごめんなさい。ぼんやりしていたみたい。……どこまで、巻きましたっけ?」
きょとんとした顔で、自分の手元を見下ろす。包帯は、ほどきかけのままだ。さっきの出来事は、欠片も残っていない。
「いや、ちょうど、ほどいたところだ。疲れが出たんじゃないか」
「そうかも……。最近、あまり寝ていなくて。ごめんなさいね」
恥ずかしそうに笑って、リナは、手を動かし始めた。
「……なあ、リナ」
「はい?」
「いや、何でもない。ありがとう」
言えるわけがなかった。
作業を終えたリナが部屋を出ていくと、俺はベッドに仰向けに倒れ込んだ。天井を見つめる。見慣れない、白い天井だ。
エラー。移した。
何を、どこへ、誰が。
脳裏に、金切り音のかけらが、ちらりと瞬いて、すぐに消えた。
◇
――翌日
朝から、基地の空気が、どこかおかしかった。
訓練場の隅を、ソフィアが一人で歩いていくのが見えた。腰まである金髪を高く束ね、背筋をまっすぐに伸ばして。声をかけようとして、やめた。その後ろ姿を、ただ、目で追っていた。
昨日の出来事は、誰にも話していない。話せば、リナが危険視される。そして、俺自身も、何者かと疑われる。
だが、あの言葉だけは、ずっと、頭から離れなかった。
もうすぐ、面白いことが起きるよ。
「ラウル」
背後から、低い声がした。振り向くと、ニックが立っていた。表情が、いつも以上に引き締まっている。
「ブリーフィングルームに来てくれ。至急だ」
「何かあったのか?」
「ジェーンのドローンが、東の方角から接近する反応を捉えた。数は、多い」
ニックは、短く言った。
「敵襲だ」
遠くで、基地のサイレンが、低く唸りを上げ始めた。




