第2話 自殺した夫人の手には、傷がなかった
亡くなった人の感情を強く受け取ったあとは、すぐに立ち上がってはいけない。
養母から何度も言い聞かされていたことなのに、リゼットは廊下から近づいてくる複数の足音を聞いた途端、反射的に衣装棚へ手をついて立とうとしてしまい、視界の端を黒く染める眩暈に襲われた。
「……こういうところが、いつまで経っても直らないのよね」
誰に聞かせるでもなくぼやき、手近な椅子へ腰を下ろす。
十五足の靴は、ひとまず包まれていた布の上へ大きさ順に並べてあった。隠し場所へ戻すことも考えたが、一度見つけた物を見なかったことにするのは、遺品整理人としても、亡き人の嘘を聞いてしまった人間としても、どうにも気持ちが悪かった。
もっとも、正直に説明したところで、家令が喜ぶとは思えない。
案の定、扉が開いて最初に部屋へ入ってきたオルフェンは、床に並べられた小さな靴を見た瞬間、老眼鏡をかけていないのに目の前の文字を読み違えた人のような顔になった。
「これは……何ですか」
「靴です」
「その程度は見れば分かります。なぜ、この部屋に子どもの靴があるのかと尋ねているのです」
「私も同じことをお尋ねしたいところですが、家令さんは隠し収納などないと、かなり自信を持っておっしゃっていましたから、ご存じなかったのでしょうね」
「隠し収納?」
「衣装棚の奥板が外れるようになっていました。この靴は、その向こう側から見つかりました。全部で十五足、大きさが少しずつ違います。革の状態を見る限り、同じ時期にまとめて買ったのではなく、毎年一足ずつ買い足したように見えます」
オルフェンの顔から血の気が引く。
驚いただけではない。
少なくとも、驚きの中に、恐れと、見つかってしまったという焦りが混じっていた。
リゼットはそう感じたが、彼を追及するより先に、家令の背後から背の高い男が部屋へ入ってきた。
年齢は三十を少し過ぎた頃だろう。雨に濡れた黒髪を無造作に後ろへ払い、装飾のほとんどない濃紺の外套を着ている。貴族の屋敷へ出入りする役人にしては服装が簡素で、腰には剣ではなく革製の細長い鞄を下げていた。
整った顔立ちをしているが、愛想というものを、どこかへ置き忘れたまま取りに戻る気もないらしい。
男はリゼットへ挨拶をするより先に、靴、外された奥板、開いた化粧台の引き出し、床の木箱を順番に確認し、最後に彼女の素手へ視線を止めた。
「その靴に、素手で触れましたか」
低く落ち着いた声だったが、尋ね方というより、すでに答えを知ったうえで確認している口調だった。
「先にお名前を伺ってもよろしいでしょうか。私は、知らない男性から突然、手袋の有無を問い詰められるほど、親しみやすい性格ではありませんので」
「王室検視院主席検視官、セドリック・レインです」
「主席という肩書は、挨拶を省いてよい免許ではないと思いますけれど、ひとまず覚えておきます。遺品整理商会《帰り灯》のリゼット・クローヴァーです」
「存じています。それで、触れましたか」
「触れました」
「なぜです」
「遺品整理人が遺品に触れることを、それほど不思議に思われるのですか」
「手袋を外した理由を聞いています」
回りくどい言い方を嫌う人らしい。
あるいは、リゼットが何者なのか、最初から知っている。
彼女は外した手袋を拾い、埃を払ってから、ゆっくりとはめ直した。
「私が何をできる人間なのか、ご存じなのですね」
「死者が自分へついた嘘を、遺品から聞き取る。王都では不吉な噂ほど早く広まりますから、知らないほうが難しいでしょう」
「便利な力だと噂されることは少ないのに、不吉だという部分だけは、ずいぶん正確に広がっているようですね」
「便利だとは思っていません。再現性がなく、本人の主観に左右され、他者による検証もできない。捜査上の証拠にはなりません」
「まだ何も協力すると申し上げていないのに、ずいぶん早いお断りですね」
「あなたが聞いた言葉を、事実として扱わないと説明しただけです」
「安心しました。私も、聞こえた言葉だけで人を犯人にする検視官とは、できれば一緒に仕事をしたくありません」
二人の間に、奇妙に冷えた沈黙が落ちた。
オルフェンが深く息を吸い、疲れたように眉間を押さえる。
「お二人とも、ここは亡くなった夫人の寝室です。初対面で気が合わないことは十分に伝わりましたから、せめて声を抑えていただけませんか」
「私は抑えています」
「私も怒鳴ってはいません」
「そういうところまで気が合っているのが、余計に面倒なのです」
家令の声には、先ほどまでリゼットへ向けていた苛立ちとは違う、長年この屋敷で他人の機嫌を整え続けてきた者のくたびれが滲んでいた。
セドリックは言い返さず、しゃがみ込んで靴を一足ずつ眺める。触れる前には薄い革手袋をはめ、縫い目、底、留め具の形まで丁寧に確認していった。
「未使用品ですね」
「はい。ただし、十五足すべてが同じ店の商品ではありません。最初の五足は針目が粗く、下町の職人が作った物、その後は少しずつ質が上がっています。七足目からは王都北区の工房印があり、十二足目以降は貴族街の《ルメール靴店》の意匠に近い。ご夫人が、ご自分で買いに行ったのか、誰かへ頼んでいたのかまでは分かりませんが」
セドリックは七足目の靴を持ち上げ、底の縁を親指でなぞった。
「よく見ていますね」
「褒めてくださったのでしたら、もう少し人間らしい顔をしていただけると、こちらも受け取りやすいのですが」
「事実を述べただけです」
「では、返事も事実だけにしておきます。ありがとうございます」
今度こそ家令が頭痛を覚えたらしく、こめかみへ指を当てた。
リゼットは少しだけ気の毒になったが、同時に、セドリックが靴を見る目に軽蔑も嫌悪もないことへ気づいていた。不吉な力だと言いながら彼が否定したのは、リゼット自身ではなく、その力を捜査の証拠にできないという一点だけだった。
王都の役人にしては、まだ話の通じる部類なのかもしれない。
ただし、話していて腹が立つことには変わりない。
「オルフェンさん」
セドリックは十五足目を元の位置へ戻し、立ち上がった。
「伯爵夫人に子どもはいなかった、と伺っています」
「そのとおりです。ご夫妻は長く子を望んでおられましたが、恵まれませんでした」
「流産や死産の記録は?」
「そのようなことを、なぜ私へ――」
「記録があるかどうかを聞いています」
「医師から何度か、子を授かるのは難しいと告げられていたようですが、私は夫人の診察へ同席しておりませんので、詳しいことは存じません」
「伯爵は?」
「旦那様も、夫人が子を産んだことなど一度もないとおっしゃっています」
オルフェンはそこで言葉を切り、床の靴から目を背けた。
「仮に、夫人が過去に何らかの事情で子どもを産んでいたとしても、この屋敷の者は誰も知りませんでした。すでに亡くなった方の名誉を、根拠のない憶測で傷つけることは許されません」
「根拠なら、十五足あります」
リゼットが口を挟むと、家令は険しい目を向けてきた。
「靴があるだけでしょう。それが夫人の子どものために買われたと、どなたが証明できるのです。慈善のために用意した可能性もありますし、親族の子へ贈るつもりだったのかもしれません」
「慈善のための品を、壁の中へ十五年間隠すでしょうか」
「人には、他人に知られたくない善意もあります」
「それは確かです。褒められたいわけではないから黙って寄付をする人もいますし、自分が誰かを助けたと知られるほうが恥ずかしいという、面倒な人もいます。ただ、この靴は一度も子どもの手へ渡っていない。贈るために買ったのなら、贈らなかった理由があるはずです」
「あなたは、亡くなった夫人を責めたいのですか」
「責めたいなら、こんなに丁寧に包み直しません」
思ったよりも強い声が出た。
オルフェンも、リゼット自身も、少し驚いた。
彼女は膝の上で指を組み、気持ちを落ち着かせる。
「私は、夫人が何をしたのか知りません。子どもを捨てたのかもしれないし、奪われたのかもしれないし、そもそも夫人の子どもではないのかもしれない。でも、これをただの古靴として焼いてしまったら、夫人が十五年間続けたことは、最初からなかったことになる。それが正しいかどうかを決める前に、せめて理由を確かめたいだけです」
「それは、遺品整理人の仕事ではないでしょう」
「そうですね。ですから家令さんが、きちんと調べてくださるのでしたら、私は喜んで本来の仕事へ戻ります」
オルフェンは答えなかった。
答えられないのではなく、答えたくないのだろう。
この屋敷には、調べれば困る人間がいる。
それが亡くなった夫人なのか、残された伯爵なのか、家令自身なのかは、まだ分からない。
「クローヴァーさん」
セドリックの声が割って入った。
「靴から、何を聞きましたか」
リゼットは彼を見る。
「証拠にはならないのでしょう」
「なりません。ただし、調べる順番を決める参考にはなります。人は時間も人員も無限に持っているわけではありませんから、根拠として採用できない情報であっても、完全に無価値とは限らない」
「ずいぶん都合のよい理屈ですね」
「仕事とは、たいてい都合の悪いものを、少しでも使える形にする作業です」
「それは、少し分かります」
口にしてから、初対面の男に同意したことが癪に障り、リゼットは小さく唇を曲げた。
セドリックは気にした様子もなく、彼女の返答を待っている。
オルフェンは明らかに聞かせまいとしたが、部屋から逃げるわけにもいかず、黙ったまま立っていた。
「夫人は、『私は、あの子を愛していない』とおっしゃいました」
雨音の中へ、言葉が落ちる。
誰もすぐには口を開かなかった。
家令の顔から、今度こそ完全に血の気が失せた。
「……聞き間違いではないのですか」
「聞き間違えるほど長い言葉ではありません」
「死者の声など、あなたの思い込みでしょう」
「ええ、そうかもしれません。私は自分の力を、神のお告げだとも、絶対の真実だとも思っていません。ただ、聞こえる言葉には一つだけ共通点があります。亡くなった方が、他人ではなく、ご自分に何度も言い聞かせていた嘘だということです」
「夫人は、誰かを愛していたと?」
「少なくとも、ご本人は愛していないと思い込もうとしていたのでしょう。あの子が誰なのかは、私にも分かりません」
セドリックは靴を見下ろしながら、しばらく考えていた。
「十五足という数には、意味があると思いますか」
「年齢の違いだと考えるのが自然です。最初は赤子用、最後は十五歳前後の少女が履ける大きさですから」
「少女?」
「刺繍や形はすべて女児向けです。もちろん、夫人がそういう意匠を好んだだけという可能性もありますが」
「購入年を調べられますか」
「工房印がある靴なら。帳簿が残っていれば、購入者まで分かるかもしれません」
「では、調べてください」
「依頼の仕方が、ずいぶん横柄ですね」
「必要な費用は検視院が負担します」
「料金の問題ではありません」
「では、どのように頼めばよいのですか」
本気で分からないらしい。
リゼットは彼の無表情を見つめ、しばらく迷ったあと、わざと丁寧に言った。
「クローヴァーさん、あなたの知識が必要です。どうか力を貸してください、とおっしゃれば、たいていの人は少なくとも話を聞く気になります」
「クローヴァーさん、あなたの知識が必要です。力を貸してください」
「覚えた言葉をそのまま読むのではなく、少しくらい気持ちを込めてください」
「必要だとは思っています」
「そこは顔にも出していただきたいのですが、これ以上を望むと一日が終わりそうなので、今回は引き受けます」
オルフェンが、耐えかねたように口を挟んだ。
「お待ちください。なぜ検視院が、夫人の私物をそこまで調べる必要があるのですか。死因の確認は、すでに終わったと伺っております」
「終わっていません」
セドリックは即答した。
「橋から転落した遺体は、通常、水面や岸壁との衝突によって多数の損傷を負います。伯爵夫人にも、肩、背中、左脚に打撲がありました。しかし、両手のひらと指先には、身を守ろうとした痕跡がほとんどなかった」
「それが、何だというのです」
「意識のある人間が高所から落ちれば、壁や欄干へ反射的に手を伸ばします。たとえ何も掴めなくても、爪が欠けたり、指へ擦過傷が残ったりすることが多い。夫人には、それがありませんでした」
「覚悟を決めて飛び降りたのなら、手を伸ばさなかったとしても不思議ではないでしょう」
家令の言葉は反論というより、すがるように聞こえた。
セドリックは感情を動かさずに続ける。
「遺体の口腔内から、鎮静作用のある薬草の匂いも確認されています。葬儀を急いだため、詳しい検査ができなかったと報告を受けましたが、保存されていた血液から同じ成分が検出されました。通常量より多い」
「夫人は眠れず、医師から薬を処方されていました」
「処方量の三倍近くです」
「間違えて飲んだのかもしれません」
「その可能性はあります。自ら多く飲み、意識が朦朧とした状態で橋から落ちた可能性も、現時点では否定できません。ただし、もう一つあります」
セドリックは革鞄から薄い紙包みを取り出し、卓上へ置いた。
中には、青みがかった細い繊維が数本入っている。
「夫人の右手首に、強く掴まれたような皮下出血がありました。その傷へ、この繊維が付着していた。夫人が当日着ていた服にも、寝室の衣類にも、同じ色の布は使われていません」
オルフェンは何も言わなかった。
リゼットは、男の喉が小さく動いたのを見た。
「つまり、どういうことですか」
尋ねたのはリゼットだった。
分かってはいた。
それでも、セドリック本人の言葉で聞いておく必要があると思った。
彼は紙包みを閉じ、黒い目をまっすぐに向けてくる。
「伯爵夫人は、眠らされたあと、誰かに橋から落とされた可能性があります」
窓の外で、遅れて雷が鳴った。
家令が卓へ手をつき、どうにか身体を支える。
「そんなことが……旦那様には、まだ」
「正式な殺人事件として扱う前に、確認すべきことがあります。夫人が屋敷を出た時刻、馬車を使わず一人で橋まで歩いた理由、薬を用意した人物、それから、手首へ残った繊維と一致する衣服です」
「伯爵家へ疑いを向けるおつもりですか」
「疑いを向ける相手を、身分で選ぶつもりはありません」
「あなた方には、家名というものが、どれほど多くの人間の生活を背負っているのか分からないのでしょう。根拠の薄い殺人の噂が広がれば、旦那様だけではなく、屋敷で働く者も、領地の商人も、縁談を控えた親族も傷つくことになる」
初めて、オルフェンの声に怒りが滲んだ。
単なる保身だけではない。
家を守ることが、そこで暮らす大勢を守ることだと、長い年月をかけて信じてきた人間の怒りだった。
セドリックは冷淡に切り捨てるかと思われたが、少し間を置いてから答えた。
「分かります。だからこそ、噂ではなく事実を調べます。自死であったなら、その結論を記録へ残す。事故なら事故、殺人なら殺人です。家名を守るために死因を変えれば、一時的に救われる人間はいるでしょうが、その代わり、殺した人間だけが救われることになる」
「理屈は立派です。しかし、理屈だけで生きられる者ばかりではありません」
「私も、そうは思っていません」
「でしたら――」
「それでも、死者の身体に残った事実を、都合のよい形へ片づけることはできません。あなたが守りたいものの中に、亡くなった夫人も含まれているのであれば、なおさらです」
オルフェンは唇を震わせたが、それ以上は何も言わなかった。
正論で人を納得させられると思うな、とリゼットは内心でセドリックへ言いたくなった。
ただ、家令が本当に腹を立てたのは、言い負かされたからではない。
自分が守ろうとしている伯爵家の中に、夫人を含めていたのかと問われ、即答できなかったからだ。
人間は、自分でも見ないようにしていた部分を他人から指摘されると、傷つくより先に怒る。
「オルフェンさん」
リゼットはできるだけ柔らかく声をかけた。
「この靴のことは、私たちと、見つけたことを知っている方だけの間に留めます。少なくとも、何のための物か分かるまでは外へ話しません。ですが、燃やすことも、元の壁へ戻すこともできません」
「……私に選択肢はないのでしょう」
「あります。夫人の秘密を守るために協力するか、伯爵家の体面を守るために私たちを追い出すか。ただし後者を選んだ場合、検視官は正式な命令書を持って戻るでしょうし、私も、見つけた遺品が処分される可能性があると判断すれば、保全を申し立てます。ですから、選択肢はありますが、楽なほうが残っているとは申し上げられません」
「あなたは、慰めているつもりですか」
「いいえ。私は慰めるのが下手ですから、正直に申し上げています」
「その点は、レイン検視官とよく似ておられる」
「それは心外です」
「私もです」
横から即座に返され、リゼットは思わずセドリックを睨んだ。
家令は、こんな状況だというのに、ほんの一瞬だけ笑いそうな顔をした。しかし笑うことを自分へ許せなかったのか、すぐに表情を引き締める。
「……分かりました。旦那様へは、私からご説明いたします。ただし、夫人の名誉を傷つけるような扱いだけは、絶対に認めません」
「同意します」
セドリックが答えた。
「私もです」
リゼットも続けた。
オルフェンが退出したあと、部屋には二人だけが残った。
セドリックは窓際へ歩き、雨に霞む庭を見下ろしている。何か考えているのかと思ったが、彼が見ていたのは景色ではなく、窓枠へ残った薄い擦り傷だった。
「あなたは、部屋へ入ったときから、ずっと人ではなく傷を見ているのですね」
「傷は、見た人間によって言い分を変えません」
「人間は変えます。わざとではなくても、自分が耐えられる形へ少しずつ記憶を書き換える。それでも、人の言葉を聞かずに事件は解けないでしょう」
「だから聞きます。ただし、信じる前に確かめる」
「ずいぶん寂しい生き方ですね」
「初対面の相手へ、よくそこまで言えますね」
「よく言われます」
セドリックは振り返り、ようやく彼女の顔を正面から見た。
「顔色が悪い」
「話を急に変えないでください」
「眩暈がありますか」
「少しだけです。もう治まりました」
「嘘ですね」
リゼットは眉を上げた。
「私の力は、死者の嘘しか聞けません。生きている人間の嘘を見抜く役目まで、あなたに取られると困るのですが」
「立ち上がるとき、衣装棚へ手をついた跡があります。卓の茶は一口しか減っておらず、唇も乾いている。先ほどから右手だけを強く握り込んでいるのは、痺れが残っているからでしょう」
「……人の身体を、遺体と同じように観察しないでください」
「生きているから観察しています。死んでからでは、水を飲ませることもできない」
セドリックは卓上の茶器へ手を伸ばし、冷えた茶を一瞥したあと、呼び鈴を鳴らした。
「何をなさっているのですか」
「温かい湯と、砂糖を頼みます」
「必要ありません。仕事中です」
「倒れれば、仕事が遅れます」
「心配しているような言い方はできないのですか」
「心配しているかどうかで、水分と糖分の必要性は変わりません」
「あなた、本当に面倒な人ですね」
「先ほどから、あなたにだけは言われたくないと思っています」
扉の向こうで、呼び鈴に応じたミナの足音が近づいてくる。
リゼットは言い返そうとして、やめた。
腹は立つ。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
大丈夫だと笑えば、たいていの人は安心して、それ以上は見ようとしない。倒れたくないのは本人の勝手、無理をするのも本人の選択だと、見て見ぬふりをしてくれる。
この男は、気遣い方がひどく不器用なくせに、見つけた異常をなかったことにできないらしい。
それは死者に対しても、生きている人間に対しても、同じなのだろう。
「レイン検視官」
「何ですか」
「先ほどの青い繊維ですが、もう一度見せていただけますか」
セドリックが紙包みを開く。
リゼットは中の繊維を、今度は灯りの近くでじっくりと眺めた。
青というより、紫を一滴落としたような濃い色。
細く、光沢があり、一般的な羊毛でも麻でもない。
「これ、布の繊維ではないかもしれません」
「どういう意味です」
「装飾用の組紐です。喪服や礼装の袖口へ縫いつけることがあります。ただ、この染め方は王都の工房ではあまり使いません。東方から輸入される《夜藍糸》に似ています」
「見分けられますか」
「専門の仕立屋なら。ですが、この糸を使った服は高価ですから、持ち主はかなり限られるでしょう」
セドリックは紙包みを閉じようとしたが、リゼットはふと床に並んだ靴へ目を向けた。
十五足目の少女靴。
その履き口には、色褪せてはいるものの、細い飾り紐が縫いつけられている。
「待ってください」
靴を手に取り、窓辺の光へかざす。
飾り紐は紫がかった青。
遺体から見つかった繊維と、よく似た光沢を持っていた。
セドリックも隣へ立ち、二つを見比べる。
「同じ糸に見えます」
「ええ。ただし、靴の糸は古く、遺体に残っていたものは新しい。染色の癖が同じなら、同じ工房か、同じ職人が作った可能性があります」
「この靴を注文した人物と、夫人の手首を掴んだ人物がつながるかもしれない」
「まだ偶然の可能性もあります」
「あなたに言われなくても分かっています」
「では、そういう顔をしてください。今、犯人の襟首を掴んだような目をしていますから」
セドリックは反論せず、十五足目の靴の内側を調べ始めた。
やがて中敷きの端に、針で刻まれた小さな数字を見つける。
「十五、ではありませんね」
リゼットも覗き込んだ。
刻まれていたのは、数字の十四だった。
他の靴も確認する。
最も小さな靴には零、次には一、その次には二。順番に並べると、最後の靴は十四になる。
「赤子だった年を零歳として数えれば、十五足で十四歳までです」
リゼットの背中を、冷たいものが走った。
「では、十五歳の靴は?」
「今年分がない」
「買わなかったのかもしれません」
「あるいは、買ったあとで誰かが持ち去った」
二人は同時に、外された壁の奥へ目を向けた。
そこには靴を置いていた跡が十五個ある。
だが一番端、もっとも大きな靴が収まるはずの場所だけ、周囲より埃が薄く、不自然な長方形の跡が残っていた。
つい最近まで、そこにはもう一足あった。
夫人が亡くなったあとか、亡くなる直前に、誰かが持ち出している。
セドリックの声が、低くなる。
「この部屋へ、夫人の死後に入った人間を全員確認します」
リゼットは、先ほど質問したときに一瞬だけ表情を固くした侍女を思い出した。
そして、十五足の靴を見て、驚きより先に恐れを浮かべた家令の顔も。
伯爵夫人は、存在しないはずの少女へ、十五年間靴を買い続けていた。
その最後の一足だけが、消えている。
リゼットは壁の暗い空洞を見つめながら、胸の奥で、亡くなった女性の声をもう一度聞いた。
『私は、あの子を愛していない』
愛していないはずの少女は、いまどこにいるのか。
そして十日前、伯爵夫人を橋から落とした者は、なぜ十五歳の靴を持ち去ったのだろう。




