第1話 壁の中から出てきた、小さな靴
人が亡くなった部屋には、その人が生きていた頃よりも、ずっと多くの物があるように見える。
使いかけの香水、半分だけ編まれた刺繍、読み終えたのか途中で投げ出したのか分からない本、二度と返事の書かれない手紙、それから、持ち主がいなくなった途端に急に価値を尋ねられるようになった家具や宝石。
生きているうちは誰も気に留めなかった品まで、死後には一つ一つが意味ありげな顔をして、これは捨ててよいのか、自分にはまだ役目が残っているのではないかと、片づける人間を困らせる。
「ですから、私どもといたしましては、夫人がお使いになっていた品を必要以上に残したくないのです。縁起が悪い、と申し上げたいわけではありませんが、この部屋をいつまでも亡くなった方の形にしておくのは、旦那様のお心にもよろしくありませんので」
窓を打つ雨音に負けないよう、伯爵家の家令はわずかに声を張ったが、その言い方は丁寧であればあるほど、言葉の奥にある本音を隠せていなかった。
早く空にしてほしい。
できるだけ安く、できるだけ騒がず、そして夫人の死について余計なことを嗅ぎ回らずに。
リゼット・クローヴァーは、黒い作業用のドレスの袖口を折り返しながら、目の前の初老の家令を見た。長い廊下を案内してきた間、男は一度も亡くなった主人を「奥様」と呼ばず、必ず「夫人」と呼んでいた。それが礼儀なのか、意識して距離を取っているのかは、まだ分からない。
「お気持ちは分かりますが、全部捨ててください、とおっしゃる依頼ほど、あとから『あれだけは残してほしかった』というお話になりやすいんです。ご主人の許可書はいただきましたけれど、ご親族の間で残してほしい物がないか、念のためもう一度確認していただけますか」
「確認は済んでおります」
「昨日、こちらへ来たときには、夫人の妹君にはまだ連絡が取れていないと伺いました」
「妹君は二十年以上も夫人と交流がございません。いまさら形見を欲しがるとも思えませんが」
「欲しがるかどうかを、こちらで先に決めるわけにはいきません。二十年も会わなかったのだから、姉の物など見たくもないと思われるかもしれないし、二十年も会えなかったからこそ、何か一つ欲しいと思われるかもしれません。人間というのは、亡くなった相手に対してだけ、急に自分でも予想していなかった感情を持つことがありますから」
家令は何か言い返しかけ、唇を一度結んだ。
面倒な女を雇ってしまった、と顔に書いてある。
リゼット自身も、それについては否定できなかった。依頼人の言うとおり荷物を箱へ詰め、売れる物を買い取り、残りを処分すれば、仕事は半日で終わる。だが、それで済ませた結果、三か月後に泣きながら店へ駆け込んできた家族を、彼女は一度や二度しか見たことがないわけではなかった。
「……では、妹君から返事が届くまで、私物の処分は保留にいたします。ただし、旦那様はこの部屋を三日以内に空けるようお望みですので、分類作業だけは本日中に進めてください」
「承知しました。売却、返却、保管、廃棄の四つに分けて、品目表も作ります。ただ、壁や床に隠し収納があった場合は、追加料金になります」
「そのようなものはありません」
「古いお屋敷でそう言い切る方は、だいたいあとで見つかります」
「クローヴァーさん」
「はい」
「私は冗談を申し上げているのではありません」
「私もです」
家令はとうとう露骨に眉間へ皺を寄せたが、そこで扉の外から小さな咳払いが聞こえた。
廊下に控えていた若い侍女が、盆に茶器を載せたまま、困りきった表情で二人を見比べている。
「オルフェン様、その……お茶をお持ちしましたけれど、こちらへ置いてもよろしいでしょうか」
「夫人の部屋へ飲食物を持ち込むなと、何度も言っているでしょう」
「申し訳ございません。ただ、朝から何も召し上がっていないと伺いましたので、せめて温かい物だけでもと思って……」
「誰から、そのような余計な話を聞いたのです」
「ええと、その、厨房のマルタさんが……でもマルタさんは、旦那様が食事をなさらないのを心配しているだけで、決して噂をしていたわけではありません」
「あなたは口を開くたびに、聞かれていないことまで説明する癖を直しなさい」
侍女は萎縮し、盆の上で茶器がかすかに鳴った。
リゼットは家令の横を通り過ぎると、侍女から盆を受け取り、窓際に置かれた小卓へ運んだ。
「ここへ置いておきます。冷める前に家令さんが飲むか、冷めたあとで私がいただきますから、どちらにしても無駄にはなりません」
「あなたのために用意したものではありません」
「承知しています。でも、捨てるよりはましでしょう。私は、食べ物を捨てる仕事まで引き受けた覚えはありませんので」
「本当に、ずいぶんとよくお話しになる方ですね」
「黙って仕事をすると、もっと嫌がられます。何を考えているのか分からない、不気味だ、死者の品に触れて平気なのか、と。ですから、必要がなくても少し話すようにしています。そのほうが、皆さん私をただの口うるさい商売人だと思って安心してくださるので」
家令は、その返答のどこまでを本気として受け取ればよいのか判断できないらしく、数秒間リゼットを見つめた。
やがて諦めたように息を吐くと、侍女へ退出を命じ、自分も廊下へ出ようとする。
「午後には王室検視院の者が参ります。それまでに寝室と書斎の仕分けを終えておいてください」
「検視院?」
「形式的な確認です。夫人の死は自死と判断されましたが、伯爵家の人間が亡くなった以上、記録を残す必要があるそうです」
「橋から落ちたのは、十日前でしたよね。もう葬儀も終わっているのに、ずいぶん遅い確認ですね」
「あなたには関係のないことです」
「そうでしょうか。検視官が触れてはいけない品まで処分してしまえば、怒られるのはこちらです。何を確認する予定なのか、せめて聞いておいていただけませんか」
「分かりました。ですからあなたは、与えられた仕事だけをしてください」
重い扉が閉まり、部屋には雨音と、微かな香水の匂いだけが残った。
リゼットは、閉じた扉へ向かって小さく舌を出した。
「与えられた仕事だけをしてほしいなら、遺品整理人ではなく、荷運び人を呼べばよかったでしょうに」
誰もいない部屋でそんなことを言う自分も、かなり性格が悪い。
けれど、家令の態度が悪いからという理由だけで仕事を雑にするほど、若くもなかった。
リゼットは店から持ってきた木箱を床へ並べ、それぞれに「親族確認」「売却候補」「寄付」「処分保留」と札を置いた。廃棄という札は、最初から用意しない。処分してよいと決まった品でも、最後にもう一度確認するためだ。
伯爵夫人クラウディア・アルヴェインの寝室は、驚くほど整っていた。
寝台の天蓋には埃一つなく、化粧台の小瓶は高さの順に並べられ、衣装棚のドレスは季節ごとに分けられている。本人が几帳面だったのか、亡くなったあとで使用人が整えたのかは分からない。
ただ、暮らしていた人間の部屋にしては、どこか息苦しい。
物は多いのに、使った痕跡がほとんどないのだ。
リゼットは白い手袋をはめ、まず化粧台の引き出しを開けた。櫛、髪留め、粉白粉、小さな鋏。次の引き出しには、未開封の手紙が三通と、古びた鍵が一本。
鍵には番号も飾りもなく、どの錠に使うものか分からない。
「こういう物を一番上の引き出しへ入れておく方が、隠す気があったのか、なかったのか……」
鍵を小袋へ入れ、品目表に記す。
そのとき、廊下から遠慮がちな足音が聞こえ、先ほどの侍女が扉の隙間から顔を出した。
「あの、クローヴァーさん」
「お茶を下げに来ましたか。残念ながら、家令さんは一口も飲まずに行きました」
「いえ、そのお茶は、よろしければ召し上がってください。オルフェン様は怒ると、ご自分が朝から何も口にしていないことまで忘れてしまわれますから」
「あなたもずいぶん言いますね」
「い、今のは内緒にしてください」
「では、さっき私が家令さんへ舌を出したことも内緒で」
侍女は目を丸くしたあと、慌てて口元を押さえた。それでも笑い声は指の隙間から漏れ、張り詰めていた部屋の空気が少しだけ緩んだ。
「お名前を伺っても?」
「ミナと申します。夫人のお側に仕えて、二年になります」
「二年ですか。では、この部屋のこともよくご存じですね。たとえば、この鍵がどこのものか分かりますか」
リゼットが小袋越しに鍵を見せると、ミナは近づき、首を傾げた。
「見たことがありません。夫人は私物へ鍵をかけることを好まれませんでしたし、衣装棚も書き物机も、いつも開いたままでした」
「人に見られて困る物がなかったのか、それとも、見られて困る物は鍵をかける場所に置かなかったのか」
「クローヴァーさんは、皆さんの遺品を調べるとき、いつもそのように疑ってかかるのですか」
「疑うというより、決めつけないようにしているんです。きれい好きだった、家族思いだった、冷たい人だった、幸福だった――亡くなった方について周囲が口にする言葉は、たいてい半分ほどしか合っていませんから」
「残りの半分は?」
「本人にも分からなかったことが多いです」
ミナは難しい顔をした。
おそらく、この女は何を言っているのだろうと思っている。
リゼットも、自分で口にしてから少し気取った言い方だったと後悔したが、説明を足すほど恥ずかしくなるので、そのまま化粧台の整理へ戻った。
「夫人は、どのような方でしたか」
「優しい方でした、と申し上げるのが正しいのだと思います」
「正しい答えではなく、あなたが本当に思っていることを聞いています」
「それでしたら……少し、怖い方でした」
ミナは声を潜め、背後の扉を振り返った。
「怒鳴ることも、物を投げることもございませんでした。ただ、私が失敗をしても叱らず、何もなかったようにお仕事を続けられるので、かえって苦しくなるのです。謝っても『気にしていないわ』とおっしゃるだけで、笑いもしなければ、怒りもなさらない。私が辞めたほうがよいかと尋ねたときには、『あなたが決めることよ』と……」
「何も求めない方だった?」
「はい。旦那様が何日お戻りにならなくても、寂しいともおっしゃいませんでしたし、ご親族が訪ねてこなくても、気になさらないようでした。お一人でいることが、お好きだったのかもしれません」
「そうですか」
リゼットは返事をしながら、夫人の寝台へ目を向けた。
一人が好きだった。
寂しくなかった。
何も気にしていなかった。
死んだ人間には、実に便利な言葉が与えられる。本人が否定できなくなってから、周囲はその人の性格を分かりやすい形へ整え、扱いやすい箱へ収めてしまう。
だが、遺品整理というのは、人間をきれいな箱へ入れる仕事ではない。
むしろ、箱の中からはみ出した、誰にも説明できない部分を拾い集める仕事だった。
「もう一つだけ。夫人に、お子様はいらっしゃらなかったのですよね」
ミナの表情が固まった。
ほんの一瞬だったが、リゼットは見逃さなかった。
「……いらっしゃいません」
「では、なぜいま、答えるまでに少し間があったんですか」
「そんな、間などありませんでした」
「ありました」
「クローヴァーさんは、人を疑いすぎです。夫人にお子様はいらっしゃいませんし、そのことで長くお悩みだったと、屋敷の者は皆知っています。旦那様も、跡継ぎについては――」
廊下の向こうから、誰かがミナを呼んだ。
彼女は明らかに安堵し、逃げるように頭を下げる。
「申し訳ございません。仕事へ戻ります」
「ミナさん」
呼び止めると、侍女は足を止めたものの、振り返らなかった。
「私は秘密を暴いて、新聞へ売る仕事をしているわけではありません。ただ、誰かが残した品を、意味も分からないまま燃やすのが嫌なだけです。あなたが何か知っているなら、いま話さなくても構いませんが、捨ててはいけない物があるかどうかだけは教えてください」
「……ございません」
「分かりました」
嘘だ、と追及することもできた。
しかし、嘘をつく人には、嘘をつかなければならない事情がある。
それを無理に剥がせば、下から真実が出てくるとは限らない。さらに固い嘘が重ねられるだけのことも多い。
ミナが去ったあと、リゼットは冷めかけた茶を一口飲み、衣装棚へ取りかかった。
礼装、夜会服、外出着、喪服。
どれも上質だったが、色味は抑えられ、流行を追った派手な装飾はない。ポケットには何も入っておらず、裾にも汚れ一つなかった。
最後の一着を箱へ移したとき、棚の奥板がわずかに浮いていることへ気づいた。
古い屋敷では珍しくない。湿気で板が反ったのだろうと思い、指で押してみると、乾いた音が返ってきた。
壁との間に、空洞がある。
「隠し収納はない、と言い切ったばかりでしたね」
返事をする者はいない。
リゼットは工具袋から細いへらを取り出し、板の隙間へ差し込んだ。釘は打たれておらず、板は驚くほど簡単に外れた。
その向こうにあったのは、衣装棚の幅ほどの浅い空間だった。
布に包まれた物が、いくつも縦に並んでいる。
リゼットは最初、それが何なのか分からなかった。
一つを取り出し、埃を払って布を開く。
中から現れたのは、手のひらに載るほど小さな子どもの靴だった。
柔らかな白革に、薄桃色の花が刺繍されている。底は一度も地面へ触れておらず、けれど新品にしては革が古び、金具にもわずかな曇りがあった。
なぜ、子どものいなかった伯爵夫人の寝室に、幼児用の靴が隠されているのか。
リゼットは奥の包みを数えた。
一つ、二つ、三つ。
すべて大きさが異なる。
小さな赤子用から始まり、年を重ねるように、少しずつ大きくなっていた。
十五足。
十五年分の靴が、誰にも見つからない壁の中へ隠されている。
「……これは、少しどころではなく、面倒な物を見つけましたね」
リゼットは白い手袋を見下ろした。
手袋をしたままなら、ただの品として扱える。
そのまま包み直し、品目表へ記し、家令へ渡せばよい。彼女の仕事は、死者の秘密を知ることではない。
むしろ、知らないほうがよいことのほうが多い。
力を使うたび、頭痛が残る。死者の感情が強ければ、吐き気や息苦しさを覚えることもある。聞こえてくる言葉は断片だけで、真相を教えてくれるわけでもない。
それでも、十五足の靴を一年ごとに買い、誰にも見せず、壁の中へ隠していた女性が、本当に何も気にしない人だったとは思えなかった。
リゼットはしばらく迷ったあと、右手の手袋を外した。
素肌で、最も小さな靴へ触れる。
冷たい革の感触が指先へ伝わった次の瞬間、部屋から雨音が消えた。
胸の奥を内側から握り潰されるような痛みが走り、息が止まる。
暗い場所で、誰かが泣いている。
いいえ、泣いてはいけないと、必死に声を殺している。
腕の中には温かな重みがあり、それを抱き締めたいのに、抱き締めれば離せなくなると分かっている。
だから、見ない。
名前を呼ばない。
愛していないと、自分へ言い聞かせる。
何度も、何度も。
やがて、亡くなった伯爵夫人の声が、リゼットの耳元ではっきりと囁いた。
『私は、あの子を愛していない』
その言葉が消えた途端、雨音が一気に戻ってきた。
リゼットは膝から力が抜け、衣装棚へ片手をつく。荒い呼吸を繰り返しながら、もう片方の手で、小さな靴だけは落とさないよう胸元へ抱え込んだ。
愛していない。
だから十五年間、毎年一足ずつ靴を買った。
愛していない。
だから誰にも捨てられない場所へ隠した。
「夫人」
自分でも馬鹿なことをしていると思いながら、リゼットは、もう答えることのできない女性へ問いかけた。
「あなたは、いったい誰に、そんな嘘をつき続けていたんですか」




