第3話 十六足目の靴を見た侍女
呼び鈴に応じて現れたミナは、盆の上に湯差しと砂糖壺、それから何を勘違いしたのか、厚切りのパンに蜂蜜を塗ったものまで載せていた。
「温かいお湯とお砂糖を、と伺ったのですが、厨房のマルタさんが、それだけではお腹に何もたまらないから駄目だと申しましたので……あの、余計でしたでしょうか」
「余計ではありません」
セドリックが即答する。
「必要なのは私の意見ではなく、こちらの方の胃袋だと思いますけれど」
リゼットはそう言いながらも、蜂蜜の甘い匂いを嗅いだ途端、自分が朝から固いビスケットを二枚かじったきりだったことを思い出した。空腹を自覚した途端に腹が鳴りそうになり、慌てて咳払いでごまかす。
幸い、ミナは気づかなかったらしい。
ただしセドリックは、ちらりとリゼットの腹のあたりへ視線を落とした。
「何ですか」
「何も言っていません」
「言葉にしなくても失礼なことはありますからね」
「空腹は失礼ではありません。生理現象です」
「あなたと話していると、こちらが怒るべき場所を見失うんですけれど」
「食べながら探してください」
セドリックは本気でそう思っているらしく、パンの載った皿をリゼットの前へ押した。
ミナが、二人の顔を交互に見比べる。
「お二人は、以前からのお知り合いなのですか」
「今日初めて会いました」
「残念ながら」
二人の返事が重なり、ミナはますます困惑した顔になった。
それでも、先ほどまでより部屋の空気がわずかに軽くなったのは確かだった。リゼットは椅子へ座り直し、湯に砂糖を二匙溶かして口をつける。
温かさが喉から腹へ落ちると、強張っていた指先が少しずつ緩んだ。
「おいしいです。ありがとう、ミナさん」
「ただのお湯ですけれど」
「具合が悪いときの温かい甘味は、手の込んだ菓子よりありがたいことがあります。作ったのがマルタさんなら、あとでお礼を伝えてください」
「はい。きっと喜びます。マルタさんは、食べさせれば大抵のことは解決すると思っている方ですから」
「間違いとも言い切れませんね。少なくとも、空腹の人間同士で大切な相談をすると、ろくな結論にならないことは多いです」
ミナがようやく笑った。
その視線が、床に並べられた十五足の靴へ移るまでは。
笑みが消えた。
盆を持っていた両手が固まり、陶器の湯差しと砂糖壺が微かに触れ合う。
ほんの小さな音だったが、静かな寝室では妙に大きく響いた。
リゼットとセドリックは、ほぼ同時にその変化へ気づいた。
先に口を開いたのはセドリックだった。
「この靴を知っていますか」
「……いいえ」
返答が早すぎた。
質問を聞き終える前から用意していたような否定だった。
セドリックは立ち上がり、ミナと靴の間に視線を往復させる。
「夫人の死後、この部屋へ入った人間を確認します。あなたは入りましたか」
「毎日、掃除と換気のために入りました」
「衣装棚は開けましたか」
「いいえ。オルフェン様から、遺品整理人が来るまでは私物へ触れないようにと言われておりましたから」
「奥板が外れることを知っていましたか」
「知りません」
「壁の中に靴があることも?」
「存じません」
「最後の一足が持ち出されたことについては?」
「何のことでしょうか」
「十五足しかありませんが、壁の埃には、もう一足置かれていた痕跡があります。あなたは今、靴そのものではなく、その空いた場所を最初に見ました」
ミナの顔色が変わった。
リゼットは内心で、もう少し言い方というものがあるでしょう、とセドリックへ文句を言いたくなった。
事実は合っている。
だからこそ、逃げ道をすべて塞ぐような聞き方をされた人間は、正直になるとは限らない。追い詰められた者は、真実より先に、自分を守るための言葉を探す。
「私は、何も盗んでおりません」
ミナの声が震えた。
「盗んだとは言っていません」
「でも、疑っていらっしゃるのでしょう。身分の低い侍女が、亡くなった奥様の部屋へ出入りしていたのですから、何かなくなれば私が疑われます。そうなるに決まっています」
「決めつけてはいません。確認しているだけです」
「検視官様にとっては確認でも、私にとっては違います」
ミナの瞳に涙が浮かんだ。
けれど泣くまいとして、顎へ力を入れている。
「私は、ここを辞めさせられたら困るんです。母は身体が弱くて働けませんし、弟が二人いて、下の子はまだ学校へ通っています。夫人がお亡くなりになってから、屋敷の使用人を減らすかもしれないという話も出ていて、ただでさえ皆、自分が次に呼ばれるのではないかと怯えているのに、盗みまで疑われたら、次の奉公先も見つかりません」
「ですから、盗んだと断定してはいません」
「同じです。偉い方は、断定していない、可能性を調べただけだとおっしゃいますけれど、一度疑われたという話だけで、私たちのような者には十分なんです。あとで潔白だと分かっても、あの子は主人の部屋から物を盗んだらしいという噂だけが残るんですから」
セドリックは黙った。
反論できないのではなく、自分の言葉が相手にどう届いたのか、理解しようとしているようだった。
リゼットは蜂蜜パンを皿へ戻し、立ち上がる。
「ミナさん、少し場所を変えましょうか」
「でも……」
「ここは夫人の寝室ですし、あの人は人を尋ねているつもりで、いつの間にか壁へ追い詰める癖があるようですから、落ち着いて話せる場所のほうがいいでしょう」
「聞こえています」
「聞こえるように言いました」
セドリックは不満そうに眉を寄せたが、止めはしなかった。
ミナを連れて廊下へ出ると、少し離れたところに小さなリネン室があった。洗濯済みのシーツやタオルが棚へ詰め込まれ、香草を入れた防虫袋の匂いがする。
華やかな伯爵夫人の寝室より、ミナにとってはずっと馴染み深い場所なのだろう。
彼女は棚の前へ立ち、白いシーツの端を意味もなく整え始めた。
「私は、本当に盗んでいません」
「分かっています」
「どうして分かるんですか」
「盗んだ人なら、あの空いた場所を見たとき、もっと知らないふりをする準備ができています。あなたは、なくなっていることに驚いた。つまり、そこに何があったかは知っているけれど、それがなくなったことまでは知らなかったのでしょう」
ミナの手が止まる。
「それに、靴を盗んだ人が、わざわざ他の十五足を残して一足だけ持ち出すとは思えません。売るためなら、古い子ども靴より、化粧台の宝石を選ぶはずです」
「それでも、私が隠したと思われるかもしれません」
「思う人はいるでしょうね」
リゼットが正直に答えると、ミナは傷ついたような顔をした。
「そこは、大丈夫だと言ってくださるところではないのですか」
「根拠もないのに大丈夫だと言うと、あとで大丈夫ではなかったとき、あなたはもっと困るでしょう。私にできるのは、知っていることを話したからといって、あなたを盗人扱いさせないようにすることです。ただ、何も話さずにいると、レイン検視官は屋敷中の人を一人ずつ調べます。そうなれば、あなたが隠していたことも、別のところから分かるかもしれません」
「脅しているのですか」
「少しは」
「正直すぎませんか」
「優しい言葉だけで話してもらおうとすると、相手に甘えてしまうことがありますから。私はあなたを助けたいけれど、亡くなった夫人のことも、いなくなった靴のことも、放ってはおけません。ですから、どちらか一方だけに都合のよいことは言えないんです」
ミナは唇を噛み、目を伏せた。
「夫人は……あなたにとって、怖い方だったのですよね」
「はい」
「嫌いでしたか」
「分かりません」
その答えは、先ほどまでの否定よりもずっと素直だった。
「優しくしていただいたこともあります。母が倒れたとき、私が何も申し上げていないのに、医師を手配してくださいました。でも、そのことをお礼申し上げても、『屋敷の者が病気を持ち込めば困るからよ』としかおっしゃらなくて……本当にそう思っていたのか、私に恩を感じさせないためだったのか、分からないんです」
「その分からなさが、怖かった?」
「はい。夫人は、自分の気持ちを絶対に人へ見せない方でしたから。うれしいのか、悲しいのか、何を望んでいるのか、そばにいても何も分からなくて……でも、亡くなられてから思うんです。もしかしたら、誰にも分かってほしくなかったのではなくて、分かってもらえないと思い込んでいただけなのかもしれない、と」
人は、相手が生きている間には言えなかったことを、死んだあとで何度も考える。
もっと尋ねればよかった。
あのとき、あの言葉を違う意味で受け取っていれば。
けれど、死者は答えない。
だから残された者は、自分の中に都合のよい答えを作るか、答えのない問いを抱え続けるしかない。
「十六足目を、見たのですね」
リゼットが静かに尋ねると、ミナは長いあいだ黙っていた。
やがて、諦めたように小さく頷いた。
「夫人がお亡くなりになる三日前です」
「どこで?」
「寝室で見ました。朝のお茶をお持ちしたとき、夫人が窓辺に座って、靴を手にしていらっしゃいました。いま並んでいるものより少し大きくて、濃い青の飾り紐がついていました」
遺体の手首に残っていた繊維と、同じ色。
「夫人は、その靴を見て何かおっしゃいましたか」
「私が入ると、ひどく驚かれて、すぐ布へ包まれました。それから、『見たことを誰にも話さないで』と……夫人があんなふうにお願いをするのは初めてでした。命令ではなく、お願いだったんです」
「あなたは、どう答えたのですか」
「はい、と答えました。だって、ほかに何と申し上げればよかったのですか。理由を尋ねられるような関係ではありませんでしたし、私は夫人の侍女で、秘密を守るのも仕事ですから」
「その靴を、夫人はどこへ?」
「壁の中へ戻したのだと思います。私が部屋を出るとき、衣装棚の前に立っていらっしゃいましたから」
「誰かが靴を持ち出すところは見ていない?」
「見ていません。ただ……」
ミナはまた言葉を止めた。
「まだ何かあるのですね」
「夫人が亡くなった翌日の夜、オルフェン様が、この部屋から出てくるのを見ました」
「家令さんが?」
「はい。灯りも持たず、廊下を歩いていらっしゃいました。お声をかけようとしたら、気づかれたのか、私を見て、『今夜ここで見たことは忘れなさい』とおっしゃいました」
「それで、オルフェンさんが靴を持ち出したと思った?」
「分かりません。ただ、あの方は夫人がお亡くなりになってから、ずっと様子がおかしいんです。普段なら旦那様の命令には何も言わず従うのに、葬儀を急ぐことについてだけは、何度も反対していました。それなのに、最後には突然、何も言わなくなって……」
「なぜ今まで黙っていたのですか」
「オルフェン様には恩があります」
ミナは目を赤くしながら、かすかに笑った。
「三年前、私がこの屋敷へ来たばかりの頃、銀の菓子匙を一本なくしたことがありました。私は触っていないのに、先輩の侍女から疑われて、もう辞めさせられると思いました。けれどオルフェン様が、誰もいない厨房まで探し、鼠穴のそばから見つけてくださったんです。先輩たちには、根拠もなく人を疑うなと叱ってくださって……だから、あの方が悪いことをしたとは思いたくありませんでした」
「恩のある人を疑うのは、苦しいですよね」
「もし私が余計なことを言って、オルフェン様まで捕まったら、私は一生後悔します。でも、黙ったせいで夫人を殺した人が逃げるのも怖い。どちらを選んでも、自分がひどい人間になるような気がして、何も決められませんでした」
「どちらかを選ばなければならないと考えると、人は動けなくなります。ですから今は、誰が善人で誰が悪人かを決めるのではなく、見たことだけを話しましょう。オルフェンさんが夜に部屋へ入った。あなたへ忘れろと言った。それだけです。何のためだったかは、これから本人に尋ねます」
「怒られるでしょうか」
「かなり怒るでしょうね」
「そこも正直に言うんですね……」
「ただ、怒られることと、あなたが間違っていることは別です」
ミナは目元を袖で拭った。
「もう一つ、あります」
「聞きます」
「十六足目の靴と一緒に、白い封筒が置かれていました。夫人が靴を包むとき、床へ落ちたんです。拾ってお渡ししたので、宛名が見えました」
「誰宛てでしたか」
「人の名前ではありません。白百合慈善院、と書かれていました」
聞き覚えのない名だった。
少なくとも、リゼットが下町で遺品整理をしている範囲では、よく知られた慈善院ではない。
「場所は分かりますか」
「王都西区の外れにある、身寄りのない女の子を預かる施設だと聞いたことがあります。貴族の奥様方が寄付をしていて、読み書きや裁縫を教え、成長すれば奉公先も紹介してくださるそうです」
「夫人が、そこへ寄付を?」
「分かりません。でも、以前にも何度か、白百合の印がついた封筒を見たことがあります。夫人はいつもご自分で受け取り、私たちには触れさせませんでした」
リネン室の扉が、外から勢いよく開いた。
そこに立っていたのはオルフェンだった。
普段は背筋を伸ばし、感情を表へ出さない家令が、肩で息をしている。
「ミナ」
怒鳴ったわけではない。
それでも、呼ばれたミナは身体を竦ませた。
「申し訳ございません」
「何を、どこまで話しました」
「オルフェンさん」
リゼットが間へ入る。
「質問する相手を間違えています。ミナさんが何を話したかではなく、あなたが夫人の死後、夜中に寝室で何をしていたかを説明してください」
「それは、あなたにお話しする必要のないことです」
「では、レイン検視官を呼びましょうか。あの人は私よりずっと遠慮なく尋ねますよ」
「脅しですか」
「先ほども同じことを聞かれました。今日は私自身、思ったより感じが悪いようですね」
「冗談を言っている場合ではありません」
「ええ。夫人が殺されたかもしれないのですから、まったく冗談ではありません」
オルフェンの顔が苦しげに歪んだ。
ミナが、震える声で言う。
「私が勝手に話しました。オルフェン様は悪くありません。ですが、夫人がお亡くなりになった翌日の夜、この部屋へ入っていらっしゃいましたよね。私は、もう何を信じればよいのか分からないんです。どうか、何をしていたのか教えてください」
「あなたには関係がない」
「また、そうやって何も教えてくださらないのですか」
ミナは泣きながら、初めて家令へ反抗するように顔を上げた。
「夫人も、オルフェン様も、私たちには関係がないとおっしゃるばかりです。でも、何も知らされないまま、知らなかった責任だけは取らされるんです。夫人が亡くなった夜だって、もっとよく見ていれば、もっと早く異変に気づいていればと、使用人同士で責め合って……私は、自分が馬鹿だから何も分からないのだと思っていました。でも、分からないのではなくて、皆さんが何も話してくださらなかったのではありませんか」
オルフェンは、叱ることも、目を逸らすこともできず、立ち尽くした。
しばらくして、その肩から力が抜ける。
「……夫人から、生前に頼まれていたものを探していました」
「何をですか」
「一通の手紙です。もし自分に何かあった場合、寝室に隠した手紙を見つけ、白百合慈善院へ届けてほしいと」
「手紙は見つかりましたか」
「いいえ。壁の隠し場所は知りませんでした。机、化粧台、衣装棚を調べましたが、どこにもなかった。旦那様に知られる前に見つけなければならなかったのです」
「なぜ伯爵へ知られてはいけないのです」
「それは……」
「ここまで話して、まだ隠すのですか」
「隠したいのではありません。私にも分からないのです。夫人は理由をおっしゃらなかった。ただ、旦那様には絶対に渡してはならないと、それだけを何度も念押しされました」
「白百合慈善院については?」
「夫人が毎年寄付をしていたことは知っています。ですが、領地の会計とは別に、個人の宝石や衣類を売った金から出していたため、帳簿には残していません」
「毎年?」
「はい。十五年前から、同じ日に」
「日付は分かりますか」
オルフェンは一瞬ためらったあと、答えた。
「冬至祭の七日前です。夫人はその日になると、白百合慈善院から届いた手紙を一人で読み、翌朝には寄付金を用意しておられました」
「今年は?」
「今年も手紙は届きました。しかし、寄付は送られていません。夫人はその三日後に亡くなりました」
十六足目の靴。
白百合慈善院からの手紙。
そして、送られなかった今年の寄付。
そのすべてが、伯爵夫人の死の直前に重なっている。
「夫人が探してほしいと言った手紙は、白い封筒でしたか」
ミナが尋ねる。
オルフェンが彼女を見る。
「なぜ分かるのです」
「亡くなる三日前、夫人が靴と一緒に持っていらっしゃいました。宛名は白百合慈善院でした」
「靴?」
今度はオルフェンが、本当に何も知らない顔をした。
リゼットは、彼が十五足の靴を見たときの恐怖を思い出す。
知っていたからではない。
夫人が隠していたものが、ついに見つかってしまったと理解したから、恐れたのだ。
「家令さん、夫人が子どもの靴を毎年買っていたことは、本当にご存じなかったのですね」
「知りません。夫人にお子様はいらっしゃらなかった。それだけは確かです」
「確か、というのは?」
「私は、夫人がこの屋敷へ嫁がれる以前から、アルヴェイン伯爵家へ仕えております。婚礼後に懐妊されたことも、長く屋敷を離れたこともありません。少なくとも、伯爵夫人となったあとに子を産んだ可能性はない」
「では、それ以前なら?」
オルフェンは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
そのとき、寝室のほうから足音が近づき、セドリックが姿を現した。手には、先ほど化粧台から見つけた古い鍵を持っている。
「話は聞こえていました」
「立ち聞きですか」
「扉を開けたまま話していれば、聞くつもりがなくても聞こえます」
「どこから聞いていました?」
「『今日は私自身、思ったより感じが悪いようですね』というところからです」
「かなり最初ではありませんか」
「重要な話をしていたので、遮りませんでした」
セドリックは気まずそうに立つミナとオルフェンへ軽く頭を下げた。
「ミナ、あなたの証言だけで盗みを疑うことはしません。オルフェンさん、夫人から頼まれた手紙を探していたという話は、記録には残しますが、現時点であなたを犯人と判断する材料にはなりません」
「ずいぶん人らしい言い方ができるようになりましたね」
リゼットが言うと、セドリックは彼女を見た。
「先ほど、言い方に問題があったと理解しました」
「認めるのですね」
「誤りを訂正しないことに、何か利点がありますか」
「ありませんけれど、世の中には、謝るくらいなら間違ったままでいたい人が案外多いんです」
「非効率です」
「人間は効率だけで動かないから面倒なんですよ」
ミナが、涙の残る顔で小さく笑った。
オルフェンは相変わらず険しい顔をしていたが、先ほどまでの拒絶は薄れている。
「その鍵は、何のものでしたか」
リゼットが尋ねると、セドリックは寝室へ戻るよう顎で示した。
「書き物机の脚に、外からは見えない小さな鍵穴がありました」
四人で寝室へ戻り、セドリックが机の右脚へ鍵を差し込む。軽い音とともに側面の板が開き、内部から薄い木箱が現れた。
箱の中には、整然と束ねられた領収書が入っている。
白百合の紋章。
寄付金の受領記録。
十五年前から、毎年同じ日付で一枚ずつ。
そして一番下には、宛名のない封筒があった。
蝋封は割られている。
中には、短い手紙が一枚だけ入っていた。
リゼットが読み上げる。
「『今年は、これまでどおりにはできません。娘は十五歳になりました。奉公先を決める前に、一度だけ会ってください』」
署名はない。
ただし、手紙の隅には、白百合慈善院の紋章と、日付が記されている。
伯爵夫人が亡くなる、四日前。
「娘は十五歳になりました」
ミナが、かすれた声で繰り返した。
オルフェンは目を閉じ、深く息を吐く。
セドリックは手紙を受け取り、光へ透かしながら言った。
「この娘が、靴の持ち主だと考えるのが自然です」
「夫人が十五年間、毎年靴を買っていた少女」
リゼットは壁の中へ残された十五足を見る。
そして、いま消えている十六足目を思う。
「白百合慈善院は、娘を奉公へ出そうとしていた。夫人は、それを止めようとしたのかもしれません」
「あるいは、奉公先について何かを知った」
セドリックの声が低くなる。
手紙には、続きがあった。
紙の下部は、水へ濡れたように文字が滲んでいる。
それでも、最後の一文だけは読めた。
「『これ以上、あの家へ少女たちを送ることには耐えられません』」
部屋の空気が、重く沈んだ。
夫人は、ただ隠し子へ会おうとしていたのではない。
白百合慈善院から少女たちが送られている、ある家の秘密へ気づいていた。
そして、それを止めようとした直後に殺された。
リゼットは、最後の一足が置かれていた空白を見つめた。
犯人が持ち去ったのは、少女への贈り物だったのか。
それとも、その靴自体に、奉公先を示す何かが残されていたのか。
セドリックが手紙を静かに折り直す。
「白百合慈善院へ行きます」
「検視官が正面から訪ねれば、警戒されませんか」
「では、あなたには別の案がありますか」
「あります。遺品整理商会として、亡くなった寄付者の品を届けに来たと申し上げます。慈善院なら、衣類や家具の寄付を受け付けているでしょう」
「嘘をつくのですか」
「完全な嘘ではありません。夫人の遺品の中から、寄付に回せる衣類を持っていきます。ただし、何を尋ねるつもりなのかを、最初から全部話さないだけです」
「それを一般には、相手を欺くと言います」
「事実だけを正面からぶつけて、皆が素直に答えてくれるなら、世の中から私の仕事の半分はなくなっています」
「あなたの方法は、証言の信頼性を損なう可能性があります」
「あなたの方法は、証言する前に相手が口を閉ざす可能性があります」
二人はしばらく睨み合った。
ミナが、不安そうにオルフェンへ囁く。
「また始まりましたね」
「どうやら、これがこの方々なりの相談なのでしょう」
聞こえていたらしく、リゼットとセドリックが同時に二人を見る。
ミナは慌てて口をつぐみ、オルフェンは素知らぬ顔で眼鏡を直した。
「分かりました」
先に折れたのはセドリックだった。
「あなたの方法で入ります。ただし、記録の確認と、少女の安全確保が優先です。危険を感じた場合は、こちらの判断で捜査へ切り替えます」
「私も、事件を面白がって首を突っ込むつもりはありません。女の子が危険なら、秘密を守ることより助けることを優先します」
「その点については、意見が一致しましたね」
「不本意そうに言わないでください」
リゼットは言い返しながら、白百合の紋章が押された手紙を見下ろした。
十五年間、一度も会わなかった母と娘。
会うことを決めた母は殺され、娘へ贈るはずだった靴は消えた。
そして慈善院では、少女たちが実在しない奉公先へ送られているかもしれない。
亡き夫人の嘘は、愛していない、だった。
だが本当の問題は、愛していたかどうかではない。
なぜ、愛していると伝えるまでに十五年もかかったのか。
そして、その十五年の沈黙を守ろうとしているのは、いったい誰なのか。
窓の外では、朝から降り続いていた雨が、ようやく細くなり始めていた。
けれど、王都西区の空だけは、厚い雲の向こうに隠れたままだった。




