第9話「所長は喰えない」
入職以来はじめて、休暇届の理由欄に「私用」と書いた。
私用。嘘ではない。協会が「機材の誤作動」で葬った記録を、私が勝手に掘り返しに行くだけだ。これ以上の私用があるだろうか。
夕方の駅裏商店街を抜けた先に、その雑居ビルはあった。築40年は堅い。外階段の錆。1階の居酒屋は、まだ暖簾を出していない。案内板の3階に、目当ての名前を見つけた。
くまがいクリーンサービス。
消えた通過記録に載っていた、唯一の固有名詞。データベースからは「破損により欠落」した文字列だが、紗雪の記憶は破損していない。裏取りの手段は、もう自分の足しか残っていなかった。
単独で来たのには理由がある。第一に、これは無断の調査で、巻き込む人数は少ないほうがいい。第二に――
「よう。遅えぞ、分析官どの」
――第二の理由が、外階段の下で缶コーヒーを振っていた。
「……なぜここにいるんですか」
「あんた、俺と会うたびメモを裏返すだろ。昨日、裏返すのが0.5秒遅かった」
「『単独行動はしない』。条件を出したのはあなたでは」
「あれはあんたが俺に出した条件だ。はっ、ざまあねえな」
世界ランク1位の動体視力を、こんなことに使わないでほしい。紗雪は眉間を一度押さえ、選択肢を計算した。追い返す:不可能。放置する:単独で暴れるので最悪。同行させて監視する:消去法で最適。
「……発言は最小限。暴れない。サインをしない。以上が条件です」
「最後のは差別じゃねえか?」
「あなたの顔は目立ちすぎるんです。帽子を深く。行きますよ」
3階の磨りガラスの戸は、ノックする前に内側から開いた。
「協会の人だろう。まあ、入んな」
熊谷源三、と差し出された名刺にはあった。名刺より先に体格が名乗っていた。事務机の椅子がひとつだけ、明らかに特注の幅をしている。
こちらはまだ、名乗ってもいない。紗雪は用意していた最初の質問を飲み込み、別の質問に差し替えた。
「……なぜ、協会だと?」
「うちを訪ねてくるのは営業か協会さんだけだ。営業は、ふたり組では来ない」
茶が出た。来客用の出涸らしではない、ちゃんと熱い茶だった。妙なところで手厚い事務所だ。
「記録分析室の氷室と申します。本日は非公式の、一般的な聞き取りです。……御社は、ダンジョン内の清掃業務を請けていますね」
「請けてるよ。かれこれ30年になる」
「30年」
「ダンジョンってのは散らかるんでな。探索者さんが素材を剥いだあとの残骸。ゲート周りの泥と吸い殻。まあ、通路のゴミ拾いってやつさ」
「深夜帯の、深層での作業実績は」
「うちは掃除屋ですよ、分析官さん。ダンジョンの掃除ったって、通路のゴミ拾いです。深層なんぞに行った日にゃ、掃除の前にこっちが片づけられちまう」
熊谷は笑いもせずに言い、頼んでもいない帳簿と勤務表を机へ並べた。
「どうせそれが見たいんだろう。持ってきな」
紗雪は目を走らせた。職業柄、数字の列は景色より速く読める。
勤務表。従業員4名。現場はいずれも浅層の通路と管理棟周り。あの夜――第47層が消えた夜の欄には『第七・連絡通路A/定期清掃・1名』とだけあった。
帳簿。収入は協会の定期発注と、民間ビルの清掃契約。支出は洗剤と消耗品と人件費。利益は薄い。数字は端から端まで、一円の狂いもなく繋がっていた。
繋がりすぎていた。
頁をめくる指が止まる。修正の跡がない。記載漏れがない。インクの濃淡まで揃っている。30年ものの町場の帳簿が、監査の朝のような顔をしていた。
――来客の前に、掃除された部屋だ。
データは嘘をつかない。それが紗雪の信条だ。ただ今日、その条文に注釈がひとつ増えた。データは嘘をつかない。――ただし、掃除はできる。
「……保守区分の通行パスは、御社にも貸与されていますね」
「されてるよ。ゲート周りを拭くのに要る」
「あの夜、深層に御社のパスの通過記録が――」
「あったのかい」
熊谷は湯呑みを置いた。急がない動作だった。
「そりゃ妙だ。うちの連中は指示書の現場にしか行かん。……で、その記録とやらは、今どこにあるんだね」
「…………システム更新で、欠落しています」
「なら、ないのと同じだな」
正論だった。正論というものは時々、どんな煙幕よりよく効く。
「最近、新しく雇われた方は」
「若いのがひとり。真面目な働き者だよ。……それがどうかしたかい」
「いえ。……一般的な、確認です」
湯呑みの中身が半分になる頃には、話題は今年の梅雨と腰痛に移されていた。質問を投げるたび、座布団のような世間話が返ってくる。投げても投げても、手応えだけが沈んでいく。
沈黙を破ったのは、部屋の隅をうろついていた大男だった。
「なあ、おやじさん。これ、誰の得物だ」
レイジが用具立てから、モップを1本抜き上げていた。
「得物じゃない。モップだ」
「柄を見ろって言ってんだよ」
紗雪の位置からも見えた。何の変哲もない業務用モップ。ただ、柄の2箇所だけが色を変えている。握りの位置だけが、鏡のように磨り減っていた。
「10年使い込んだ剣の柄と同じ減り方だ。それも毎日同じ握りで、化け物みてえな回数を振った場合の」
「道具ってのは、使や減るもんさ」
「柄自体は新品同然なんだよ。買って半年ってとこだろ。……計算が合わねえ」
武器の目利きをモップに全力投入する世界1位と、微動だにしない熊。紗雪は頭痛の予感を覚えつつ、熊谷の目が半拍だけ細くなったのを見逃さなかった。
「うちの若いのが、まあ、よく働くんでな」
熊谷は湯呑みを持ち上げ、それきり話を腰痛に戻した。
ときにあんた、どこかで見た顔だな――と、帰り支度の段になって熊谷が言った。レイジが帽子のつばを上げる。
「ようやく気づいたか、おやじさん」
「ああ、思い出した。駅前の引っ越し屋の兄ちゃんだ」
「人類最強だよ!」
「発言は最小限、の条件をお忘れなく」
結局、1時間粘って得られたものはゼロだった。正確には、無害な回答だけが完璧な形で揃った。戸口で紗雪は、台本にない質問をひとつだけ足した。
「……なぜ、ダンジョンの掃除なんですか。危険の割に、割に合わないでしょう」
熊谷は初めて、わずかに間を置いた。
「掃除ってのはな、世界を昨日より少しマシにする仕事だ。ダンジョンだろうが便所だろうが、そこは変わらんさ」
「…………」
「気が済んだら、また来な。茶ぐらいは出す」
外階段を降りる途中、下から人が上がってきた。
作業着の青年だった。20代前半。ひどく眠そうな顔で欠伸を噛み殺し、壁側に身を寄せて道を空けてくれる。すれ違いざま、石鹸を煮詰めたような匂いがした。
「おはようございます」
夕方の5時に、おはよう。夜勤の人間の時計だ。レイジが「おう、ご苦労さん」と片手を上げ、青年は3階へ消えた。
それだけだった。
駅までの道すがら、レイジが缶コーヒーの2本目を開けた。
「で、分析官どの。収穫は」
「ゼロです。帳簿も勤務表も完璧でした。……完璧すぎるほどに」
「はっ。つまり、クロってことか」
「データ上はシロです。完璧なシロ。――ただ、現実の書類はあそこまで綺麗になりません。汚れひとつない未踏破層を見たとき、あなたならどう考えますか」
「誰かが掃除した、って考えるわな」
「……ええ。そういうことです」
第47層と、同じ顔だ。
紗雪は雑居ビルを振り返った。3階の窓に灯りがともっている。完璧すぎる帳簿。磨り減ったモップの柄。数字はまだ何も証明しない。それでも分析官の勘というものは、確率よりしぶとくできている。
――あの事務所は、まだ何か隠している。
ただし、この日の紗雪の計算にはひとつだけ重大な欠落があった。探していた答えそのものが、外階段で自分に道を空けてくれたこと。答えのほうも、世界でいちばん探されている相手に「おはようございます」と頭を下げたこと。
双方、まだ何も知らない。
――3階の窓辺では、熊谷が湯呑みをふたつ、流しに下げていた。
外階段のすれ違いを窓越しに見届けてから、長い息をひとつ吐く。
「……喰えないのは、どっちだかな」
その夜。
動画サイトの急上昇1位に、赤いサムネイルが躍り出た。
『【新説】ファントムは個人ではない――正体は"組織"だ【徹底考察】』
再生数は公開1時間で6桁を超えた。コメント欄が加速していく。国家機関説。秘密結社説。そして――どこかの民間企業説。
考察の火は、もう誰にも消せない高さで燃え始めていた。




