第8話「兄妹の夜」
検査が、1日2回に増えた。
朝のぶんと、夕方の面会前のぶん。看護師さんは「念のためだよ」と笑ったけど、念のためと言うときの大人は目が忙しい。モニターと私の顔を行ったり来たり。8か月も入院していると、そういうのが読めるようになってしまう。
灰崎ひより、16歳。入院生活で身についた特技は、点滴を挿したままの水やりと、大人の顔色の速読です。我ながら、あんまり自慢にならない。
夕方の検査が終わってすぐ、廊下の足音でお兄ちゃんだと分かった。かかとを引きずらない早足。うちのお兄ちゃんは、病院の廊下でだけ歩くのが速い。面会時間を1分も無駄にしない歩き方だ。
「おす。今日はプリンな」
「やった。……でも、いちごには負けるかな」
「あれは投資だからな。プリンは経費だ」
「経費のほうが、言い方ちょっとかわいいね」
お兄ちゃんは荷物を置くと、まず窓際の鉢に水をやる。頼んだことは一度もないのに、8か月ずっとそうだ。葉っぱが1枚増えるたび、この人は自分の手柄みたいな顔をする。
その袖から、知らない匂いがした。
石鹸を煮詰めたような、つんとした匂い。前の職場の頃は、油と鉄の匂いだった。転職して、お兄ちゃんの匂いは変わった。爪の間の黒ずみも、心なしか薄くなった。清潔の匂いは、ちょっとだけ病院に似ている。だから私は、まだ見ぬ新しい職場を勝手に信用している。
「新しいお仕事、順調?」
「まあな。所長は今日も熊だった」
「ふふ。お昼は?」
「食った」
「何を?」
「……そば」
考える間が1秒あった。この人の「食った」は、半分くらい食べていない。でも証拠がないから、追及は保留にする。私も検査が増えたことを黙っているし、おあいこだ。
「そういやこの前、夜勤明けにうまいもん食ったんだ。ええと……生姜焼きの、あの店……」
お兄ちゃんはそこで止まって、指先を軽くこすり合わせた。最近ときどき見る仕草だ。
「……ど忘れした。駅裏の、暖簾が青いとこ」
「疲れてるんだよ。夜のお仕事なんだから、ちゃんと寝てね」
「寝てる寝てる」
「2回言うと嘘っぽいの、知ってた?」
「……はいはい」
「はいは1回」
いつもの仕返しが決まったので、今日の面会は私の勝ちとする。
「ね、お兄ちゃん。退院したら、夜のお散歩がしたいなあ。消灯より遅い時間に、コンビニでプリンを買うの」
「安上がりだな」
「贅沢なんだよ、それが」
お兄ちゃんは「そうかい」と笑って、それをスマホにメモした。この人は私の「退院したら」を、ひとつも聞き流さない。
帰り際、ドアの前で一度だけ振り返る。
「なんかあったら、夜中でも電話しろよ」
「ないよ、なんにも」
私の「なんにも」も、半分くらいは嘘だ。似た者兄妹、ということにしておく。手を振る。ドアが閉まる。ここまでが面会のフルコースだ。プリンは晩ごはんのあとの楽しみに残した。
消灯は21時。
カーテンの向こうで、雨が降り始めた。屋根を叩く音。遠い。規則正しい。この音は、昔からあんまり得意じゃない。
――8年前も、雨だった。
あの日の私は、小学校の体育館にいた。ダンジョン災害という言葉の意味も、まだよく知らなかった。毛布の列。知らない大人の泣き声。放送で名前を呼ばれた家族から、順番に迎えの人へ手を挙げていく。
うちの名字は、最後まで呼ばれなかった。
体育館の時計が何周しても、誰も迎えに来なかった。スマホの充電はとっくに切れていて、私は時計ばかり見ていた。
中学の制服のまま駆け込んできたお兄ちゃんは、入口で私を見つけて、変な歩き方で近づいてきた。速いのに、まっすぐじゃない歩き方。それから濡れたままの腕で、私を抱きしめた。
「大丈夫だ。俺が何とかする」
声は、平らだった。手だけが、ずっと震えていた。
15歳の「何とかする」に、いくらの値段がついていたのか。当時の私は知らない。ただ次の春、お兄ちゃんの机から高校の願書が消えて、部屋に作業着が増えた。作業着はそのうち、大きなクランの揃いのものに変わった。私が小学5年生の、終わりの頃だ。
愚痴は、一度も聞いたことがない。
私が熱を出せば、朝まで枕元にいた。参観日には作業着のまま走ってきた。入院が決まった日には「個室って響き、ちょっと贅沢でいいな」と笑った。笑ってから、廊下に出て、長いこと戻ってこなかった。
知ってるんだよ、お兄ちゃん。
新しいお薬が高いことも、検査が増えればお金も増えることも。ベッドの上は暇だから、計算だけは速くなる。時給1,250円。私が今日ここで寝ていた8時間は、お兄ちゃんの夜勤の何回ぶんだろう。
頭の中の電卓は、途中でやめた。答えが出ると、息がしにくくなるから。
お兄ちゃんは、私のせいで人生を使ってる。
この考えは、夜になると点滴の管を伝って入ってくる。ありがとうと、ごめんね。ふたつは混ぜると固まって、喉に詰まる。だから私は昼のあいだ、明るいほうの言葉しか使わないと決めている。
サイドテーブルのメモ帳を引き寄せた。「退院したら」リスト。1、いちご狩り。2、お兄ちゃんの職場見学。3、教室のみんなとお弁当。4、海で写真。5、家の掃除を私が代わる。今日ので、6番は夜のお散歩に決まりだ。
7番の欄にペンを置いた。少し迷って、やめた。
「お兄ちゃんに、ちゃんと――」の先は、書くと涙腺の管まで開きそうだったから。7番は、退院してから考える。
枕の下からスマホを出して、イヤホンを片方だけ挿した。消灯後のこれは、見回りの看護師さんとの暗黙の協定である。音は小さく、顔は寝たふり。
友達が送ってくれたノートの写真。学校のグループの通知。それから、動画のおすすめ欄。
最近の世間は、ひとつの話題で騒がしい。正体不明の単独攻略者。軍隊が逃げ出した化け物を、ひとりで消しちゃったらしい幻の誰かさん。
『【緊急】謎の攻略者の正体を追う【考察】』
赤い太文字のサムネイルが、おすすめの一番上にいた。再生数は、夕方のニュースより勢いがある。
ふうん、と思う。世界はいま、その人を探して大騒ぎらしい。
――お兄ちゃんはすごいんだよ。世界が気づいてないだけ。
いつもの口癖を、頭の中で幻の誰かさんにも分けてあげる。すごい人は、きっと名前の出ないところにもいる。たとえば深夜に、どこかの床を磨いている人とか。
雨の音が、少しだけ遠くなった。
私は何気なく、親指で再生ボタンに触れた。




