第69話「清掃員の背中」
白い軽トラが、堤防沿いの道を遠ざかっていく。
荷台でモップの柄が揺れていた。手入れのいい道具は、荷台の上でも姿勢がいい。目が、離せなかった。
駆け出しかけた私の肩を、大きい手が押さえた。
「走るな、嬢ちゃん。掃除屋の車は逃げやせんのさ。……それに、先に筋を通す相手がおる」
所長さんの声は、いつもの工程の声だった。声だけは、だ。肩に載った手のひらが、びっくりするくらい熱かった。
軽トラの側面には、社名が入っていた。磯浜クリーンサービス。氷室さんが端末を3秒叩いて、顔を上げる。
「該当1件。従業員4名の清掃会社。事務所は……漁港の隣です」
「昨日の電話の主さ。……行くがな」
◇
事務所から出てきたのは、日に焼けた小さいおじいさんだった。所長さんの顔を見るなり、ああ、と息だけで返事をした。
「来たかい、熊谷さん。電話で言えんかったのは、まあ、こういうことさ」
麦茶が4つ出た。誰も、手をつけなかった。
話は、3か月前の朝から始まった。時化の翌朝、浜に若い男が倒れていた。持ち物はなし。目立った怪我もなし。名前を訊いても、首を振るだけ。警察に届けても病院に預けても、該当者なしで戻ってくる。行き場がないなら、と事務所の2階に置いた。そうしたら――手が、とんでもなかった。
「呼び名がないと不便だからね。うちじゃ、あんちゃんと呼んどる。本人は、屈託なく返事をするのさ」
「四十年この商売をやっとるが、ありゃあ教えてできる手じゃないよ。体の芯まで、掃除でできとる。……先週の廃ビルの晩はね、確かめるつもりで、あの子をひとりで現場に残してみたのさ。朝行ったら、あの様さ。5階建てまる1棟が、ひと晩で無菌室だ」
「それで熊谷さんの回覧を思い出してね。……名前を訊くと、あの子は笑ってこう言うんだよ」
おじいさんは、湯呑みに目を落としたまま続けた。
「――覚えてないんです。でも、体が掃除を覚えてて、って」
膝の上で、メモ帳の表紙が曲がった。私が握り潰しかけていた。捜索リストの1行目。日本でいちばん綺麗になった場所を探せ。……仮説、的中。考察歴1年の、最後の大当たりだ。
誰も声を出さなかった。氷室さんは鞄の四角い膨らみを、上から手で押さえたきりだ。レイジさんは腕を組んで目を閉じていた。組んだ指が、二の腕に食い込んでいた。
「あとね、これは余談だが。あの子の賄いは旨いよ。うちの若いのが、まかない目当てに休日も顔を出しよる」
レイジさんの目が、開いた。
「……38軒、外れるわけだぜ。店じゃなくて、掃除屋の台所にいやがった」
訊きたいことは山ほどあった。でも考察は、最悪の可能性から潰すのが作法だ。最初の質問は、これにした。
「あの人、ここで困ってませんか。暮らしとか、その」
「困っとるように見えたら、あんたらより先に病院へ連れとるさ」
「夜は、眠れてるんですか」
「よう寝とるよ。……ただ、月の綺麗な晩はな、たまに屋根の上で海を見とる。何かを思い出しかけとる、って顔でな」
おじいさんは、事務所の隅を顎で指した。洗い上げたバケツが、口を伏せて干してある。棚の洗剤は、ラベルの向きまで揃っていた。
「いい職人だよ。……どこの誰かは、知らんがね」
どこの誰かは、私が知っている。世界中の誰より詳しい自信がある。
「今日の現場は、どこですか」
「駅前のアーケードさ。年に一度の大掃除でね。……会いに行くかい、嬢ちゃん」
◇
アーケードの入り口で、大人3人の足が止まった。
示し合わせた気配もないのに、誰も敷居をまたがなかった。氷室さんが鞄からノートを半分出して――しまい直した。
「配達の順番は、決まっていますので。一。家族。二。友人。三。……観測員は、最後です」
「はっ。取り立ての口上なら、後で俺が仕込んでやる。行ってこい、考察屋」
「めしの席の相談は、それからさ。……ゆっくりでいいがな」
ずるい大人たちだ。いちばん必死に探してきた順番を、こういう日だけ譲ってくる。
私はひとりで、夕方のアーケードをくぐった。
◇
その背中は、通路のいちばん奥にいた。
青い作業着。モップとバケツ。閉店時刻の商店街の、どこにでもいる清掃員。
なのに、床の色が違った。その人の周りだけ、照明の映り込みが一段明るい。明るい帯が、通路の奥から手前へ伸びてくる。奥から、出口へ。自分の足跡を踏まない順番。ノロイちゃんが3か月唱え続けた、あの指紋だった。
駆け出すはずだった膝が、その場で止まった。
……見てしまったら、動けなくなった。
痩せた、と思う。作業着の肩が少し余っている。それでも、モップを持つ立ち姿だけは変わらない。8年、私の暮らしをひとりで背負ってきた立ち姿だ。
8年間、私は兄の働く姿を想像することしかできなかった。深夜のダンジョンは見舞客には見せてもらえないから、病室で想像の在庫ばかり増えた。実物は、想像より地味だった。そして、想像よりずっと綺麗だった。
モップが止まる。屈む。タイルの継ぎ目を、指の背でなぞる。わずかに首をかしげて、同じ場所をもう一度だけ拭く。誰も見ていない場所を、誰も採点しない基準で仕上げていく。
知ってる。その手つき、知ってる。実家の風呂場で見た。面会室のテーブルの、拭き方で見た。
惣菜屋の店先で、その人は揚げたてのコロッケを1個持たされていた。両手で受け取って、頭を下げる。商店街の夕方に、その背中はもう馴染んでいた。3か月ぶんの、私の知らない時間だった。
八百屋のおばちゃんが、シャッターを半分下ろしながら声を投げた。
「あんちゃん、そのへんでいいよ。どうせ明日も汚れるんだから」
「まあ、掃除しときますね。……時給分は、働きますから」
声。
8年と3か月ぶんの、あの声だった。視界の下半分が揺れて、まばたきで押し戻す。泣くのは、まだだ。順番が違う。
◇
5時の鐘が鳴ると、その人はモップを洗って干した。道具の片付けまでが仕事、というあの背中のまま、コンビニに寄って堤防へ歩いていく。
私は自販機と電柱を盾に尾行した。考察系配信の視聴者として、追跡の作法は履修済みだ。……令状持ちのやることじゃないのは、分かってる。
堤防に腰を下ろして、その人は袋を開けた。
出てきたのは、いちごのパックだった。
息が、止まった。
時給が上がった日に、兄が病室へ買ってきたのと同じ銘柄。いちばん安いやつ。あの日の兄は、レシートを二度も見返してから胸を張ったのだ。
夕陽で、横顔が影になる。ヘタをひとつずつ取って、小さい粒から順に食べていく。大事に、大事に。……この食べ方も知ってる。小さいのから食べて、いちばん大きいのを最後に残す。それで最後のひと粒は、昔から必ず――
その人は、最後のひと粒を食べなかった。
パックの隅にそっと転がして、蓋を閉じた。それから自分の手元を見下ろして、首をかしげた。なんで残したのか、自分でも分かっていない顔だった。理由だけが消えて、手だけが覚えている。
――いちばん大きいのは、妹の分。うちの兄の、8年変わらないルールだ。
病室のベッドで、私は何十回もそのひと粒をもらった。もらうたびに、次は半分こにしようねって言った。半分こは、いまだに実現していない。
目の奥が熱くなった。鞄の内側から、角の丸くなった手紙を出す。宛名の「ひよりへ」は、もう空で書ける。
――ごめん。全部は書けなかった。
知ってるよ。だから続きは口頭で回収するって、ずっと決めてた。書いた本人が中身を忘れていても、約束は消えない。あの人自身が言ったのだ。約束は、記憶より深いところにあるって。
……検証の、時間だ。
深呼吸を、ひとつ。目元を手の甲で拭く。よし。笑顔を作る。病室で鍛え上げた、面会時間用のやつじゃない。今日のは、新品だ。
堤防までの20歩を、数えながら歩いた。心臓の音が、波よりうるさい。準備してきた台詞は、3パターンあった。ぜんぶ飛んだ。
波の音。夕陽。膝にいちごのパックを載せた、世界でいちばん静かな最強の背中。
あと3歩で、その人が振り向いた。
知らない人を見る目だった。分かっていたのに、胸の真ん中を突かれた。それでも、足は止めない。止め方なんて、最初から知らない。
「……あの、何か?」
「はい。人を探してたんです。8年と、3か月」
その人は眉を下げて、それでも膝のパックを少し脇へずらした。人が来たら、座る場所を空ける。その癖まで、そのままだった。
私は空けてもらった場所には座らず、正面に立った。息を、吸う。
「――初めまして、から始めましょう。お兄ちゃん」




