第68話「仲間の後日談」
協会の新しい執務室は、静かすぎて仕事がはかどる。困ったことに、定時を過ぎてもはかどってしまう。
記録管理部門、初代部門長。肩書きは重くなったが、一日の締め方は変わらない。定時後の30分。端末の画面をひとつ切り替えて、私は「宛先の確認」を始める。
並ぶのは、全国の清掃業の求人応募の動向データだ。業界団体との共同研究という名目は本物で、目的だけが書類に載っていない。
抽出条件は三つ。一。深夜帯の勤務を希望。二。経験の欄が空白なのに、手際の評価だけ突出している新人。三。志望動機が異様に短いこと。
三つ目は、私の独断だ。あの人ならきっと、1行で済ませる。……体が覚えているので、とか。
先週、1件だけ網に掛かった。深夜希望、経験欄は空白、志望動機は1行。半休を取って、現地まで行った。出てきたのは、夜間学校に通う19歳だった。履歴書の書き方を少し助言して、帰りの電車で抽出条件を組み直した。外れの処理にも、書式ができてきた。
今夜の該当、0件。
0件の日は、条件を1か所だけ緩めて再実行する。緩めすぎれば、網ではなくなる。締めすぎれば、あの人の「ついで」を取りこぼす。この加減にだけは、まだ正解が出ていない。
データは嘘をつきません。0は0だ。ただし0が言うのは「この網にまだ掛かっていない」であって、「いない」ではない。統計のいちばん最初に習うことを、私は毎晩ひとりで復習している。
引き出しには、薄いノートが1冊入っている。宛先は、明日の灰崎湊。配達は、まだ済んでいない。
「……彼は絶対、働いています」
誰もいない執務室で、口に出した。根拠は数字ではない。積み上げてきた観測記録だ。あの人が汚れた場所を素通りできた例は、記録上ただの一度もない。
記憶は帳簿で、手は現場だ。帳簿が飛んでも、現場は残る。……この仮説の検証にだけは、観測員ではなく私用で立ち会うと決めている。
◇
遠征5連戦、5連勝。表彰式より先に、俺は会場を抜けた。
行き先は決まってる。その町でいちばん年季の入った定食屋だ。
のれんをくぐって、大盛りを2つ頼む。食いながら、大将に同じことを訊く。何十軒目かは、もう数えてねえ。
「最近この辺りで、賄いが急に旨くなった店の噂はねえか」
妙な質問だってのは百も承知だ。だがな、これがいちばん確実なんだよ。あいつの飯は、一度食ったら忘れねえ。深夜の現場で食わされた、あの差し入れの味。腕ってのはな、名前より先に噂になる。名前を忘れた野郎を探すなら、噂の側から行くしかねえだろ。
めしの記憶も抜けてんじゃねえか、って? ……ねえな。舌より先に、手が覚えてる。あの飯はレシピの味じゃなかった。誰かに食わせ慣れた味だ。ああいうのは、頭より深いとこに残るんだよ。
「……ないねえ。兄さん、探し人かい」
「ダチだ。めしの約束が、まだ済んでねえ」
空振り、38軒目。勘定を多めに置いて、席を立つ。
昨日の会見でも「目標は2位だ」と答えて、記者連中を固まらせた。説明してやる義理はねえ。1位の席ってのはな――取り立てが済むまでの、預かりもんなんだよ。
◇
事務所の隅には、モップが1本立てかけてある。
毛先は白いまんまさ。備品台帳の貸出欄には、こう書いてある。――貸出中。返却期限、未定。誰が何と言おうと、うちの帳簿の上じゃ、あいつはまだ在籍しとる。
電話は今日も鳴りっぱなしだった。半分は跡地の依頼。残り半分が、俺の頼んだ「妙な現場」の報告さ。
同業の網ってのは、ありがたいもんでな。日本中の掃除屋が、朝いちばんの道で目を光らせてくれとる。異常に綺麗な現場を見たら、くまがいへ一報。その約束が、3か月で200件を超えた。
大半は外れさ。腕のいい新人。働き者の自治会。……世の中、思ったより真面目に掃除されとる。悪い話じゃないがな、探す側としては骨が折れるのさ。
外れの報告には、礼状を1枚ずつ出しとる。字ぃ書くのは苦手だが、これは所長の仕事だ。網ってのは、張りっぱなしじゃ破れる。手入れをするから、次も掛かる。……掃除と、同じさ。
その電話は、夕方に鳴った。
「――熊谷さんかい。例の件で、妙なもんを見ちまってな」
海辺の町で小さい清掃社をやっとる、古い顔なじみだった。三十年の付き合いで、初めて聞く声の高さだった。
「廃ビルの原状回復さ。5階建て、まる1棟。見積もりじゃ、どう転んでも1週間の現場だ。それがな……一晩だよ。一晩で終わるはずのない現場が、朝には無菌室みたいになっとった」
湯呑みを、置いた。
「……拭きの順番は、分かるか」
「あんたも妙なことを訊くね。……奥から出口へ、さ。足跡ひとつ残っとらんかった。四十年この商売をやっとるが、あんな現場は初めてだよ」
奥から、出口へ。
自分の足跡を、踏まないように。
「誰の仕事か、心当たりは」
「……なくもない。だが電話じゃ、うまく言えんのさ。あんた、一度見に来るかい」
「行くさ。町の名前を教えてくれ」
受話器を握る手の甲に、年寄りの筋が浮いとった。震えとらんかったのは、我ながら上出来さ。
その晩、電話を3本かけた。嬢ちゃんは3コールで出た。レイジは1コール。最後の1本は呼び出しの途中で切れて、折り返すより先に向こうから鳴った。開口一番、「何時の電車ですか」ときた。……考察歴1年の嬢ちゃんは、話が早い。
◇
翌日の昼過ぎ、ローカル線の窓に海が出た。
4人掛けの席は、ちょうど埋まった。めしの席と同じ頭数さ、とは誰も言わんかった。言えば、まだ1人足りんことを数えちまうからな。
ひよりの嬢ちゃんは、膝のメモ帳を開きっぱなしにしとった。いちばん下の行に、書いたばかりの字で町の名前。丸が、二重についとる。鞄の口からは、角の丸くなった手紙がのぞいとった。指は触れんまま、窓の外ばかり見とる。触れば緩む顔を、知っとるんだろうさ。
分析官の嬢ちゃんは、紙の時刻表を睨んどった。膝の鞄が、四角く膨らんどる。中身は訊かんでも分かる。宛先つきの、薄いノートさ。
レイジは腕を組んで目を閉じとった。寝とらんのは、貧乏ゆすりで分かる。
駅を降りると、潮の匂いがした。
堤防沿いの道を、白い軽トラが1台、ゆっくり走っていく。荷台で、バケツとモップの柄が揺れとった。
隣で、小さい足音が止まった。
ひよりの嬢ちゃんの目が、清掃車を捉えて――そのまま、離さなかった。




