第67話「世界の後日談」
ダンジョン消滅から、3か月が経った。
観測地図の赤は、あの夜から1点も戻っていない。世界中の穴という穴が平らな土地に還り、早い所では雑草が生え始めた。三十年、人類の隣で口を開けていたものが、今では防災教育の教材の中にしかいない。
職を失ったはずの探索者たちは、跡地の測量や資材の回収で忙しい。滅びた業界にしては、求人欄が賑やかだった。
世界の立ち直りは、早かった。……礼を言う相手だけが、どこにもいなかった。
◇
最初に空いたのは、病院のベッドだった。
魔素症候群の病棟では、あの夜を境にモニターの音が上り坂に変わった。3か月で、退院基準に達した患者は世界で9割を超えた。医学は最後まで理由を説明できず、各国の論文はどれも似た一文で結ばれた。――発生源の消失に伴う自然寛解と、推定される。
推定。8年手も足も出なかった相手に、ずいぶん謙虚な2文字である。快方の始まりは、世界中どの病室でも同じ夜だった。白い柱の立った、あの深夜だ。カルテの上では偶然でも、患者の家族で偶然と呼んだ者はいない。
空いたベッドを畳む仕事は、埋める仕事より機嫌のいい残業だったという。
各地の病棟では、面会制限の貼り紙が順番に剥がされていった。三十年ぶんの待合室が、静かに空いていく。
◇
恩人の席は、空席のまま伝説になった。
顔のない救世主。各国は競って礼を形にしたがった。銅像の建立。共同記念日の制定。新紙幣の図案。言い出さなかった国を数えるほうが早い。肝心の顔が誰にも分からないため、銅像の頭部は「モップを掲げる光」という前衛芸術で落着する見込みらしい。記念日の日付も、柱の夜か消滅の朝かでまだ揉めている。救われた側の宿題としては、上等な揉め事だった。
一方で、静かに畳まれた紙もあった。
内閣の特異攻略者対策室は、先月付けで看板を下ろした。保留され続けた顔写真の公表は、正式に撤回。表向きは「対象消滅に伴う調査終了」。水面の下では、告発で生まれ変わった協会と、どこかの財団の弁護士たちが働いた。政府に渡っていた記録は、名簿も調書も写真も、法律の雑巾で隅から隅まで拭き上げられた。
最後の1枚を裁断機へ送る前に、室長の首藤は手を止めた。役所の辞書では、保護とは囲いの内側へ入れることをいう。25年の翻訳業の店じまいに、首藤はその単語を最後にもう一度だけ訳し直した。
――そっとしておくこと。
裁断機が鳴って、ファントムは公文書の上から消えた。伝説には、名簿がないのだ。
◇
跡地の始末は、生きている者の仕事である。
くまがいクリーンサービスの電話は、鳴りやまなくなった。全国のダンジョン跡地の清掃と原状回復。指名の理由はどこも同じで、「あそこは跡地の扱いに慣れとるらしい」。所長は人を3人増やし、取材だけは全部断った。断り文句も、毎回変わらない。
「うちはただの掃除屋さ。……ただ、全国どこへでも行くがな」
王城巧は、クランを再建しなかった。かわりに財団を立てた。特異な力を持つ者の権利保護と、その家族への生活支援。設立会見で動機を問われた元代表は、3秒黙ってから答えた。
「昔、数字にならないものを切り捨てました。……その返済です。完済の予定は、ありません」
協会には新しい記録管理部門が生まれ、初代の長には最年少の元分析官が就いた。就任の挨拶は3つで済んだ。一。記録は正確に。二。保存は永久に。三。――公開の範囲は、この部門が守ります。
天海レイジは、競技戦線に復帰した。復帰会見で目標を問われた世界1位は、マイクを引き寄せて一言だけ答えた。
「2位だ」
会場が固まった。見出しは翌朝から「王者の異変」を書き立てたが、本人は説明しなかった。質問を重ねた記者には「はっ」と笑っただけで、席を立った。……なお復帰後の遠征先は、なぜか国内の地方都市ばかり選ばれている。
世間はこの3か月を、英雄なき時代の美談として読んだ。読み違いではない。ただし、全部でもない。跡地を回る掃除屋の網。権利を守る財団の金。封じられた記録。空けたままの1位の席。――宛先は全部、同じだった。
◇
駅前の定食屋では、カウンターの隅の札が3か月立ちっぱなしだ。
――予約席。
いつまで置くんだい、と常連が訊くと、大将は寸胴から顔も上げなかった。
「野暮を訊くな。……4人前の米が、まだ余ってんだよ」
◇
祭りの燃えかすの中で、ひとりだけ火の番を続ける配信者がいた。
「定例配信、始めるわよ。今夜も結論から言うわ。ファントムの正体は――プロの、清掃員なの」
コメント欄は今夜も優しかった。またその話か。たぶん87回目。夢がない。ロマン不足。数字の女神も焼きが回った――。あの夜7桁まで伸びた同時接続は、いまや4桁で安定している。スパチャの雨も、もう降らない。それでも配信は、毎週同じ曜日の同じ時刻に立つ。……律儀さだけは、どこかの誰かさんとよく似ていた。
それでも画面の図表は、毎回同じだった。消滅の進行は奥から出口へ。自分の足跡を踏まない、拭き上げの順番。あの手つきは、職業だ。
「笑いなさいよ。3か月前まで、単独説を笑ってたのもあんたたちなの。……異論は認めるわ。ただし、データを持ってきてからにしなさい」
真実は、いつも笑われる場所にある。三十年後の教科書がどの説を採るか、採点はまだ先の話だ。
◇
同じ頃。都内の病院で、1年あまりぶんの退院手続きが終わった。
書類の束は、思ったより厚かった。1年ぶんの「ありがとうございました」を言って回ったら、会計のおばちゃんまで泣いた。……泣かせるつもりは、なかったんだけど。
「退院したら」が口癖の患者は、今日で卒業だ。1年あまり働いてくれた口癖に、お疲れさまでしたと言っておく。
荷物は段ボールふた箱で済んだ。片方の箱では、ガジュマルが葉を揺らしている。水やり係が戻るまで、枯らすわけにはいかない。鞄のいちばん内側には、角の丸くなった手紙が入っている。お守りというより、令状に近い。全部は書いてないんだから、続きは本人の口から回収する。
病院の門は、内側から見ると案外小さい。
くぐる。
……くぐった。私の足で。付き添いなしで。
振り向くと、ナースステーションの窓で手がいくつも揺れていた。手を振り返して、それきり振り向かないことにする。
外の空気は、病室の窓越しより雑味が多かった。排気ガス。どこかの家の味噌汁。アスファルトの照り返し。ぜんぶ、リストの向こう側の匂いだ。
世界はニュースの中で、銅像だの記念日だの騒いでいる。ほらね、と思う。うちのお兄ちゃんはすごいんだよ。世界が気づいてないだけ――って、8年言い続けてきた。気づくの、遅いんだよ。
メモ帳を出す。「退院したらリスト」の次のページに、私の字で新しい見出しを足してある。
――【捜索リスト】。
商店街の清掃受付。公園の管理事務所。駅ビルの夜間清掃。モップの似合う場所が、上から順に並んでいる。氷室さんの数字も、レイジさんの遠征もまだ空振り。所長の同業の網にも、当たりはない。なら、次は家族の番だ。
考察歴は、もうすぐ1年になる。世界中が8か月かけて見つけられなかった人を、病室のベッドから言い当てた実績がある。見くびらないでほしい。
それに、あの人はじっとしていられる人じゃない。頭の帳簿が何枚抜けていても、手が覚えている。汚れた場所を見て、拭かずにいられるわけがないのだ。
だから、探し方は簡単だ。
日本でいちばん綺麗になった場所を、探せばいい。
リストの1行目に、丸をつけた。今日のぶんの捜索、開始。
「お兄ちゃんは、絶対にいる。……たぶん、掃除してる」




