第66話「行方不明」
三、の続きが出てこなかった。
観測報告は三つで一組。5年、私はそうやって世界を数えてきた。一。湧出点、消失。二。魔素反応、検出限界以下。三。……三は、班の生体反応。喉の手前で、読み上げの在庫が切れていた。
端末は律儀に働いていた。核の間、生体反応、2。
私と、所長。それだけ、という意味の数字だった。
データは嘘をつきません。……この口癖が、こんな夜まで勤勉なのは知らなかった。
所長は動かない。籠手は藍の結び目を摑んだままだ。あの人の三十年が、いまどこを歩いているのか。……訊ける空気では、なかった。
膝で、進んだ。立てます、と言える脚はとっくにない。それでも行き先は決まっていた。素の色に還った床の、真ん中。
モップが1本、倒れていた。毛先は白いままだった。今朝替えたばかりだと、本人が言っていた白だ。柄には、まだ持ち主の高さが残っている気がした。「気がした」を報告書に書く日が来るとは、思っていなかった。
拾えなかった。
かわりに、その脇の薄いノートを拾った。落ちた拍子に開いた頁の、1行目。定規とは無縁の、あの字だった。
――ひよりのことは全部あるので、まだ大丈夫。次のページからは、明日の俺あての引き継ぎ書。
明日の、俺あて。
宛先の書いてある郵便を、配達不能で処理する規定は私にはない。ないものは、作らない。
「……観測を、継続します」
誰あての報告かは、決めないまま言った。端末を握り直す。最終ログを、消失の瞬間まで巻き戻す。消えたのなら、消えた瞬間が数字に残る。……残っていないなら、消えていない。
指は、動いた。5年で、いちばん遅い速度でだが。
◇
下りの喉は、来たときより明るかった。
壁が端から霧に変わっていく。閂の野郎を畳んだ拳の跡ごと、世界が店じまいを始めてやがった。閉店の作法としちゃ上等だ。ただし――客を中に残したまま、ってのはいただけねえ。
核の間に転がり込んで、最初に見えたのはふたつの背中だった。突っ立ったままの親父さん。床に座り込んで端末を睨む、分析官どの。
ふたつ、だ。
……4つ、って言ったんだぜ、俺は。定食屋の席の数え方も知らねえのか、あの野郎。
「めしの席が、余るじゃねえか」
軽口は、床に落ちたきり跳ねなかった。こんなに響かねえ部屋だったか、ここは。
「レイジ。……上はどうなっとる」
「霧だ。この店ごと、じきに畳まれる。……撤収だぜ、親父さん」
「あと40秒ください。最終区間の、読み出し中です」
「10数えたら担ぐ」
親父さんは何も言わずにモップを拾い上げた。それから、汚れひとつねえ床を一度だけ見回した。
「……備品を置きっぱなしで帰る奴があるか。減給もんさ」
声は、工程の声のままだった。まま、ってところに年季が入ってた。崩すもんか、って声だ。
俺は分析官どのを背負って、霧になっていく階段を昇った。背中の荷物は軽くて、端末だけは胸から離さなかった。……あの晩の清掃員と、同じ抱え方だった。
最強ってのは、いちばん重い荷物をいちばん長く持ってられる奴のことだ。そう啖呵を切った口で言うがな。――いちばん重いのは、いなくなった奴の分の軽さだぜ。
◇
地上は、夜明けの手前だった。
第七ダンジョンだった穴は、もう穴ですらなかった。ただの平らな土地さ。三十年、口を開けとった地面が、何食わぬ顔で閉じとる。白い柱は消えて、名残だけが雲の腹をうっすら光らせていた。
規制線の向こうは、祭りの支度だった。協会の車列。報道の中継車。夜明け前だってのに、ヘリまで飛んどる。誰も彼も、英雄の凱旋を待っとるのさ。穴だった場所から、光と一緒に何かが昇ってくるのを。
首の藍に、指の背で触れた。
……三十年前と、同じ匂いの朝だ。あの朝も世界は勝手に沸いとった。俺は病院の廊下で、戻らんかった連中の名簿だけ握っとった。待つ側の朝の味ってのは、三十年経っても薄まらん。
「――ありました」
嬢ちゃんの声が、暗がりで上がった。レイジの背中から降ろされてもなお、端末を回し続けとった目が、初めてこっちを向いた。
「最終ログ、消失の0.4秒前。灰崎さんの反応は、ゼロになっていません。座標だけが動いています。傷口の縁の、内から外へ。……上へ、です」
「つまり、なんだ。嬢ちゃん」
「消滅じゃない。……『排出』です。浄化の奔流が、彼をどこかの層に押し流した」
レイジが、半歩詰めた。
「――生きてんのか」
「観測できたのは、そこまでです。ですが、前例があります。世界中の消滅跡で、中に居た探索者は全員、地表で発見されています。構造は消える時、中身を外へ置いていく。……人は、捨てられない仕組みなんです」
「流された先は」
「不明です。追跡するべき層構造そのものが、もうありません。奔流の国内系統を通ったことまでは確かです。捜索範囲は、事実上――日本の、どこかです」
日本の、どこか。
1億の頭数の中から、自分の名前の帳簿を失くした男を1人。普通なら、探すと言った口のほうが笑われる数字さ。
レイジが、笑った。はっ、といういつもの音で。
「上等だ。見えないものを見つけるのは、俺たちの得意分野だろ」
「世界中が総出で探して見つからなかった男だぜ。見つからねえ側の手口なら、こっちは本家から習ってる」
嬢ちゃんは頷いて、それから一拍だけ目を伏せた。
「補足します。楽観は、しません。支払いは済んでいるはずです。見つけても、彼は私たちを知らない。……ですがそれは、探す理由に影響しません」
拾ったノートを、胸に抱え直す手つきだけが観測員の顔をやめていた。
「この引き継ぎ書の宛先は、明日の灰崎湊です。配達が済むまで、私の業務は終わりません。……何度でも、初めから。そういう約束なので」
俺はモップを、荷台じゃなく自分の肩に載せた。
「うちはな、備品の持ち出しにゃうるさい会社なのさ。……取りに来させる。首に縄をつけてでも、とは言わん。めしの席まで歩かせりゃ、それで十分さ」
「貸しの取り立てもある。複利は日割りだぜ、清掃員。逃げ切れると思うなよ」
持ち場は決まった。嬢ちゃんは記録と跡地の数字。レイジは足と顔の広さ。俺は――同業の網さ。掃除屋の目ってのは、朝のいちばん早い時間に、日本中の道に立っとるもんでな。
規制線の向こうで、誰かが叫んだ。ファントムはまだ出てこないのか、と。マイクと拍手が、来もせん凱旋を待ち続けとる。
……悪いな。あんたらの英雄は、名簿には載らんのさ。本物ってのは、昔からそういうもんだ。
車のエンジンを掛けた。夜明けの街へ、ヘッドライトを向ける。
世界でいちばん静かな男の、最後の捜索が始まった。




