第65話「世界規模の大掃除」
最初に見たのは、ダンジョン協会・中央観測室の当直だった。
深夜1時13分。第七ダンジョンの直上に、白い柱が立った。地の底から夜空へ昇る、まっすぐな光だ。当直は3秒迷って、機材故障の報告書式を閉じた。故障というのは、こんなに静かじゃない。
「第七ダンジョン、全階層――反応、消失!」
叫びの残りは、沈黙に食われた。監視地図の上で、赤い点がひとつ消えている。息を継ぐ間に、隣も消えた。国内第三。第五。第九。
「海外も来てます! 北米、消失。欧州、消失。……全部です。世界中のダンジョンが、消えて――」
観測開始から三十年、増える一方だった赤い地図が、端から白に戻っていく。当直は通報の手順を忘れて、ただ画面を見ていた。災厄の消える速度に、人類の書式が追いつかない。
5分後、各国のホットラインが一斉に鳴った。中身はどこも同じだったという。――そちらの仕業か。違うのか。では、誰だ。
白い柱の写真は、1分で地球を1周した。
◇
定食屋の大将は、寸胴の火を弱めて路地へ出た。
夜空の半分が、白い。まぶしくはない。月をふたつ足したくらいの、妙に行儀のいい明るさだ。近所の窓が次々に開いて、誰かの「なんだありゃ」が路地を飛び交う。
大将は詮索しない。家訓だ。ひとしきり空を眺めて店に戻ると、カウンターの隅に古い札を1枚立てた。
――予約席。
「……4人だったな、あいつら。めしぐれえ、炊いて待つか」
寸胴の湯気が、白い夜に混ざって消えた。
◇
「緊急! 緊急生配信よ! 挨拶は省略、本題いくわ!」
同時接続は、開始90秒で7桁に乗った。画面いっぱいの世界地図の上で、ダンジョンの反応が音もなく減っていく。
「落ち着いて聞きなさい。世界中のダンジョンが、いま消えてるの。機材トラブルじゃないわ。各国の観測網が、同じものを見てる。……それでね、いちばんおかしいのはここ。消え方に、順番があるの」
「奥の階層から、浅い階層へ。部屋の隅から、出口へ向かって。……分かる? これ、崩壊じゃないの。拭き上げの順番なのよ。プロの掃除はね、奥から出口へ拭くの! 自分の足跡を、踏まないように!」
コメントの滝が、一拍だけ止まった。
「スパチャは止めなさい! いまお金の画面じゃないの!」
金色の雨は、それでも降りやまなかった。
「……昔のノロイちゃんの動画、憶えてる人いる? 『単独であれだけの浄化は物理的に不可能』。……訂正するわ。土下座つきで撤回する。こんなに揃った手つき、部隊じゃ出せない。ひとりよ。この星の大掃除をしてるのは、たった、ひとりなの」
◇
同じ夜、各地の病棟で同じ音が鳴り始めた。長いこと下りしか知らなかったモニターの音が、上向きに変わっていく。魔素症候群の病棟だ。
その病室でも、数字は坂を上っていた。
眠る少女の胸元から、黒い靄が立ちのぼっている。糸のようにほどけて、窓から差す白に触れた端から消える。8年、その体に居座り続けたものが、荷物もまとめずに出ていく。
駆けつけた当直医は計器を二度見して、それから配線を疑った。疑える間だけ、医学は無事でいられる。
ガラス越しに、王城巧はそれを見ていた。数字の意味なら、誰より早く読める男だ。読めた瞬間、壁に預けた背中がずり落ちかけた。
「……届いたな、灰崎。請求書は、耳を揃えて持っていく」
祈り方を知らない男は、それだけ言って頭を下げた。誰もいない廊下で、深々と。長いこと。
ベッドの上で、少女の指が手紙を握り直した。折り目が、また少しやわらかくなる。唇が、音のない形に動いた。
「……おにい、ちゃん」
◇
最後の扉の前では、山が崩れ始めていた。
腕の中の黒が、根元から白に変わって軽くなる。あれだけ暴れた閂が、砂の崩れる速さでほどけていく。男は最後まで腕を解かず、白くなっていく相手に笑いかけた。
「はっ。……閉店だ。長っ尻の客はな、こうやって畳んで帰すんだよ」
見上げた先で、扉だったものが霧に変わる。その向こうの白へ、男は声を張った。届くとは思っていない。張らずにいられなかっただけだ。
「派手にやりやがって……! めしの席、冷めるんじゃねえぞ! 清掃員!」
◇
核の間は、白の底だった。
「21番、谷です。灰崎さん。――今」
「右へ2歩さ。次の弧は根が深い。撫でるな、押し当てとけ」
言われたとおり、押し当てる。縁のこびりつきが手のひらの下で白に還る。そのたび、胸の奥で束の抜ける音がする。ページの束だ。中身は、もう確かめない。確かめる係の棚が、とっくに空いている。
拭くたび、床から天井へ細い白が昇っていく。三十年ぶんの汚れが、順番に引き取られていく。世界のどこかが軽くなる音は、ここまでは届かない。届かなくていい。請求書が現場に残らないのが、いい仕事の条件だ。
谷の番号に、いちいち俺の名前が付くようになった。分類の人にしては、無駄の多い読み上げだ。……無駄の意味は、訊かないでおく。
歩きながら、検品をひとつ。
顔が、ある。誰かの顔だ。名前は出ない。声も、ある。笑い方の音だけ。番号は1番と7番が残って、あいだが飛んでいる。
いい。顔があるうちは、まだ回る。
「22番、谷。灰崎さん。……残りを、教えてください」
「あと2割です。いい現場ですよ。やり甲斐の塊だ」
自分の声が、少しずつ他人の声に聞こえてくる。かまわない。手順は体が覚えている。拭いて確かめて、次へ。何か月やってきたのかは、もう数字が出ない。とにかく毎晩だ。毎晩これをやってきた手だ。
「23番、谷。灰崎さん、体は」
「動きます。……すみません。いま、何番でしたっけ」
「23です。何度でも、言います」
弧の最後のひと区画で、手が止まった。
拭き残し。縁の裏に、糸くずほどの黒が1本へばりついている。ここまで来て、見逃すところだった。指でなぞって、性根ごと拭き取る。
「……よし」
うちの業界でいちばん格好悪いのは、派手な現場の拭き残しだ。誰に教わったんだったか。顔は出てこない。声だけ残っている。低くて、乾いた声。――掃除ってのはな、世界を昨日より少しマシにする仕事だ。
ですね。今夜のここは、だいぶマシになりましたよ。
背中で、誰かが名前を呼んでいる。ふたりぶんの声だ。呼ばれているのが俺だ、ということだけは分かる。宛名の消えた封筒でも、届く家は決まっているようなものだ。
「最後の谷、来ます。……三。二――」
「湊。拭いたら、俺の声のほうへ戻れ。道は覚えとらんでいい。声で戻るのさ」
戻る。……どこへ、だったか。
膝をついて、最後の縁に手を置いた。手のひらの下で、世界の傷が最後の息を吐いている。長い長い、三十年ぶんの息だ。
胸ポケットから、ノートが滑り落ちた。胸にはまだ、重さがふたつ残っている。中身は出てこない。正しい重さだ、ということだけ分かる。
開いたページに、書き写したリストがあった。読める行と、読めない行。7番の余白に、絵がひとつ描いてある。丸いのが何段も重なって、上からとろりと何かの垂れている絵だ。線は下手くそのくせに、湯気だけ妙に上手い。
誰が描いたのかは、棚にもうない。何という食い物かも、出てこない。ただ、この絵を挟んで誰かと笑った音だけが、いちばん深い棚で鳴っている。
絵の上へ、手のひらを一度だけ置いた。人差し指の付け根の、かたい皮が紙の上でこすれる。この皮が何のために育ったのかは、もう出てこない。……いや。いま、思い出した。目の前の絵と、同じ用事のためだ。
……そうか。おまえが、最後の1枚か。
なら、置いていく荷物じゃない。持っていくぶんだ。
最後の谷が、開いた。
手のひらに、体重を乗せる。
「……あまいの、たべような」
白が、世界を染めた。
◇
光は、音もなく引いた。
核の間に、傷はなかった。三十年、世界の底で膿み続けた裂け目が、床の素の色に還っている。投光器の光は初めて、吸われずに天井へ届いた。
「……観測します。一。湧出点、消失。二。魔素反応、検出限界以下。三――」
三は、続かなかった。
所長の籠手が、藍色の結び目を摑んだまま動かない。
素の色の床の真ん中に、モップが1本、倒れている。毛先は今朝替えたばかりの白のまま、持ち主の手だけを失って。
湊の姿が、どこにもなかった。




