第64話「これが、俺の仕事だ」
答え合わせ、と言い出した側には説明の義務がある。うちの業界には古い標語があった。段取り九割、現場一割。……今夜ほどこの九割が頼もしい夜は、たぶん人類史にない。
モップの先は、王の根元へ向けたままにした。下げる理由が、まだ出てこない。
「……何が見えとる、湊」
「見えてるものじゃなく、見えてないものの話です。所長、あれ――さっきから半歩も動いてません」
「腰から下は、最初から傷の中です。供給の糸も、眷属の出し入れも、全部あの裂け目を通ってる。図体だけ見りゃ主役ですけど、動線で見れば、あれは――」
「あれは、なんだ」
「水たまりです」
核の間が、一拍だけ黙った。
「こぼれた水は、拭けば消えます。現に消えました。でも蛇口が開いてる限り、床は何度でも濡れ直す。……つまりあの図体は本体じゃない。傷口からあふれた分が、あふれた場所で固まってるだけです。本体は下だ。世界の傷、そのものです」
「観測が、一点だけ仮説に合います」
氷室さんの指が、端末の上へ戻った。座らされた人の指とは思えない速さだった。
「王は、傷口の真上から一度も動いていません。理由の候補は二つ。一。動けない。二。動かない。……後者なら、あれは守っているんです。自分の、水源を」
「守ってるんですよ。三十年前に、7割まで閉められかけた蛇口ですから」
王の腕が、話の腰を折りに来た。
天井から落ちる黒い梁。半歩ずれて、通り過ぎる横っ面を撫でる。消えた。消えた端から、天井の糸が太って埋め直す。
「ほら。いま消したぶんも、もう補充された。在庫が無限なんじゃない。仕入れが無限なんです。だったら勘定を合わせる相手は、在庫じゃなく――仕入れ元だ」
「続きを観測します。一。王の反応の重心は、床面より下です。可視部分は、全体の3割足らず。二。奔流の噴出は縁の全周からではなく、偏っています。三。噴いているのは縁の一部だけ。弧の長さにして――全周の、およそ3割」
3割。
その数字に、いちばん長い息を吐いたのは所長だった。
「……そうか。そういう帳尻か」
籠手の指が、首の藍色に一度触れた。
「三十年前の話をするぞ。記録じゃ、シノは核を7割消したことになっとる。俺もさっきは、そう言うた。……だがあの夜、この目が見とったもんは、ちいと違う」
「あいつは途中で、狙いを変えたのさ。王を拭くのをやめた。拭いても湧く、と分かった瞬間にな。それで傷の縁に取り付いた。端から順に、拭いては閉じていった」
「……縫い合わせるみたいに、ですか」
「そうさ。王が7割痩せたのは、傷が7割閉じたからだ。あれは消されたんじゃない。――干上がりかけたのさ」
耳の奥で、あの軽い声が鳴った。あとは、頼んます。……あの親指は、この続きを指していたのか。三十年前の先輩は、段取りの七割を済ませて帰ったわけだ。
「シノの背中はな、最後まで慌てとらんかった。掃除の背中のまんまさ。右回りに、縁を撫でていった。……で、止まった。どこから始めて、どこで手が止まったか。残った3割が、どの弧か。殿を張りながら、全部この目で見とった」
「地図は」
「紙にはせん。燃やされる時代だったんでな」
所長は、自分のこめかみを指の背で叩いた。
「ここさ。三十年、毎晩なぞってきた。目印の岩はもう残っとらんが、弧の向きと歩数は体が覚えとる」
「傷は育ってます。三十年前より」
「育っても、瘡蓋は瘡蓋さ。シノが閉じた7割は、もう噴かん。生きとるのは縫い残しの3割だけ。……嬢ちゃんの観測と俺の三十年は、いま帳尻が合ったよ」
「解体屋ってのは、壊れる順番を読む商売だ。縫い目にはな、閉じる順番がある。シノが閉じた向きの続きから、端へ。順番さえ守りゃあ、傷は暴れんまま閉じる」
「傷口ってのは、俺に消せる相手なんですか」
「シノに消せた。なら、お前に消せんはずがないさ」
「……俺の目にも、あの縁は生地の破れには見えません。根の深い、こびりつきです。なら、うちの領分ですね」
王が、動いた。
初めて、傷口の縁へ腕を下ろした。攻撃じゃない。囲う動きだ。黒い腕が縁の一部を――ちょうど観測の言った弧のあたりを、抱えるように覆った。
「……回答が、向こうから来ましたね」
「守りに入ったか。図体のでかい割に、正直なやつさ」
「――試算を、更新します」
氷室さんの指が走った。さっきは止まった指だ。今度は、止まらなかった。
「対象を、湧出点の残存3割に変更。三十年ぶんの成長を上限で見積もっても、完全浄化の支払いは――記憶の大半。……存在までは、届きません。データは嘘をつきません」
さっき自分の側から破った口癖を、あの人は自分の側から拾い直した。数字が人を生かす側に回る夜も、あるらしい。
「補足します。呼吸は吐きっぱなしでも、噴出には脈が残っています。谷は平均2.3秒。拭けるのは谷の間だけで、工程は長丁場になります。……ですが、有限です。有限なら、終わります」
「終わる仕事は、いい仕事さ」
「それと、地上の濃度はまだ上昇中です。……猶予の欄は、今夜も減っています」
記憶の、大半。
請求書の文字面としては、ずいぶん値引きされたもんだ。存在そのもの、の隣に置けばだが。
胸の中で、検品をした。妹の顔、ある。声、ある。退院したらの1番から10番も、ある。……今夜の払いは、この棚ごとだ。いちご狩り。パジャマ禁止の夜の散歩。プリンの取り締まり。はいは1回。8年かけて書いた帳簿が、ほとんど白紙になる。
白紙がこわくない、と言えば嘘になる。
だが白紙ってのは、書き直せる紙のことでもある。初めましての顔で会っても、どうせ3日で取り締まりを再開する。そういう手に、もう育ててある。
指をこすり合わせかけて、やめた。確かめるまでもない。かわりに胸ポケットの上へ、手のひらを置いた。ちょうどいい重さが、ふたつ。俺の控えと、俺の毎日の控え。書いた人は、いま3歩後ろで脈を数えてくれている。
右手を、一度だけ開いて閉じる。人差し指の付け根の、かたい皮。8年こすれて、兄ちゃんの形になった手だ。頭の帳簿が飛んでも、こっちは残る。何回忘れても兄ちゃんをやる、と約束した相手がいる。あの約束の置き場所は、記憶より深い。
……なら、払える。
ノートを出して、立ったまま1行書いた。
――ひよりのことは全部あるので、まだ大丈夫。次のページからは、明日の俺あての引き継ぎ書。
「所長。道案内、頼めますか」
「班長命令の撤回には、条件があるさ」
声は、もう工程の声に戻っていた。
「順番は俺が読む。拭くのはお前だが、歩幅と向きは俺の指図だ。半歩でも先走ったら、工程ごと止める」
「呑みます」
「合図は私が出します。谷のたびに、番号で。……観測は、業務なので」
「助かります」
砂の向こうから、割れた声が届いた。
「――おい。閂は、まだ俺の腕ん中だ。……閉店まで、店番はしといてやる」
「終わったら、めしですね。4つ、でしたっけ」
「……大盛り、忘れんな」
「大盛りは、俺が持ちます。……払ったこと、覚えてられるかは怪しいですけど」
軽口のつもりだった。三人ぶんの沈黙が、受け取りを拒否した。
だから俺は、モップを握り直して、笑ってみせた。ちゃんと笑えたはずだ。毎晩、深夜の現場で鍛えた顔だから。
「忘れたら、また教えてください。俺の名前と――俺が、何のためにこれをやったのか」
「……ああ。証人は俺さ。何べんでも聞かせてやる」
「左のページに、全部あります。何度でも、初めから」
「――貸しは複利だ、清掃員。……忘れても、いい。俺が覚えとく」
王が、揺れた。
――ミナ、ト。
床の振動が、モップの柄を昇ってくる。三十年待った宿敵への呼び出しにしては、ずいぶん気の長い電話だった。あいにくこっちは、指名の依頼を断らない主義だ。
「はい、くまがいクリーンサービスです」
いつもの声が出た。深夜料金の説明をするときの声だ。
「ご依頼の件、ただいま伺います。……三十年も、お待たせしました」
息を、ひとつ吐いた。モップを構える。毛先は今朝、替えたばかりだ。
段取りは、九割済んでいる。三十年前にシノさんが7割を拭いた。所長が順番を覚えていた。氷室さんが脈を読み、レイジさんが扉を預かっている。妹との約束は、記憶より深い棚に置いた。
残りは一割。……つまり、俺の持ち場だけだ。
汚れの王様が、傷の上からこっちを見下ろしていた。悪いが、あんたは主役じゃない。あんたの座ってる床が、今夜の現場だ。
「汚れてるなら、片付けるだけだ。――これが、俺の仕事だ」
世界でいちばんでかい大掃除が、始まる。




