第63話「魔素の王・前編」
うちの業界の見積もりは、面積で出す。畳で何枚。廊下で何本。プールで何杯。……今夜の相手には、どの単位も届かなかった。
傷口の縁に、黒い指が掛かった。
指、と呼んだのは形の話だ。太さは業者用昇降機の箱くらいある。指は5本に増え、腕になった。腕は縁を摑み、中身を引き上げた。
世界の傷から、世界の汚れが身を起こす。
立ち上がった、とは言いにくい。脚がない。腰から下は傷口に浸かったまま、上半身だけが天井の暗がりへ届いた。投光器の光は裾に触れた先から吸われて、戻ってこない。
表面が、流れていた。
流れの中に、形がある。錆びた剣。焼けた梁。鎧の破片。片方だけの小さい靴。人の顔に見えるものは、途中で数えるのをやめた。層になっているのが、遠目にも分かった。汚れは古いものほど、下へ沈む。あれの底には、三十年どころじゃない澱が溜まっている。
戦の血。呪いの声。蓋をされた犠牲。……世界が捨てて忘れてきたものの、総体。
圧は、扉の前の比じゃなかった。音はない。匂いもない。ただ立っているだけで、体の勘定が狂う。心臓が勝手に残業を始めて、汗の出る係だけが休んでいる。……俺の毎晩は、あれの飛沫の掃除だった。本体のお目見えは、これが初めてということになる。
「観測します。一。全高、推定40メートル。本体の過半は、まだ傷口の内側です。二。表層濃度、計器の……いえ。計器の話は、やめます。三。回収された眷属334個体の反応が、あの中から出ています」
氷室さんは観測点の脇に座らされたまま、端末だけは離していなかった。数字を読むときだけ、あの人の背筋は勝手に伸びる。
「……見間違えん。三十年ぶりでもな」
所長は藍色の手拭いの結び目を、一度だけ確かめた。
「ありゃあ王さ。汚れの、王。……三十年前、俺たちの雑巾が届かなかった大元だ」
――ミナ、ト。
床が、鳴った。
声帯の音じゃない。床のずっと深いところから響く振動が、モップの柄を伝って手のひらへ昇ってくる。この昇り方を、俺は知っていた。
ひと月ほど前。浅層連絡通路A。ガム剥がしの夜だ。
誰もいない通路で名前を呼ばれて、俺はあれを幻聴として経費処理した。深夜労働と寝不足の欄に付け替えて、帳簿を締めた。……処理が甘かったらしい。あの夜の声の主が、いま目の前にいる。
――ミナ、ト。
「……名刺を渡した覚えは、ないんですけどね」
「向こうは、とっくにお前さんを知っとるのさ」
所長の声は、乾いていた。
「三十年前、あれは一度だけ消されかけた。シノの雑巾でな。7割消えて、3割で生き延びた。……それからずっと、待っとったんだ。同じ力が、もう一遍降りてくるのをな」
「律儀な客ですね」
「客じゃねえ。向こうにしてみりゃ、お前さんは三十年ごしの宿敵さ」
耳の奥で、シノさんの声が鳴った。核の野郎、俺の力を三十年も勉強してますよ。……あのときは、冗談の側で聞いていた。
王の腕が、来た。
振りかぶりはなかった。天井から落ちてくる、黒い梁だった。半歩ずれて、通り過ぎる横っ面に手のひらを当てる。
拭く。
触れた面から先が、霧に散った。俺の背丈ぶんの黒が、音もなく消える。
胸の奥で、小銭の落ちる音がした。何の小銭かは、確かめようがない。歩きながら検品をひとつ。妹の顔、ある。声、ある。10番も、ある。……よし。まだ回る。
なくなったものの見当は、つけない。棚卸しは、生きて帰った夜の仕事だ。
「通りました。……浄化、有効です」
氷室さんの声が半音上がって――すぐ、落ちた。
「再生を観測。欠損部の充填まで、ふた呼吸。それと、天井方向から細い流入が……67本。いえ。計数を放棄します。無数です」
見上げると、暗がりから糸が降りていた。
黒い、蜘蛛の糸みたいなやつだ。幾筋も幾筋も、王の肩や背中に注ぎ込んでいる。天井の暗がりの、さらに上……地上の方角からだった。
「供給路です。この王は、閉じた在庫ではありません。地上と直結しています。誰かが憎むたび、争うたび、糸の1本が太る。……世界の全部が、あれの水源です」
誰の仕業でもない。悪意の在庫は、世界がある限り補充される。うちの妹を8年蝕んできた病気の元栓が、いま目の前で開きっぱなしになっていた。
試しに、もう一拭き。今度は倍の幅が消えて、倍の速さで埋まった。三度目は、消える端から埋まった。……向こうも検品をしている。俺の雑巾の、速さと値段をだ。
蛇口の開きっぱなしの床を拭く仕事を、うちの業界では無限の雑巾がけと呼ぶ。呼ぶだけで、やる奴はいない。工賃が出ないからだ。
「傷口の周期も変わりました。14秒の呼吸が、いまは吐きっぱなしです。……地上の魔素濃度は、これから跳ねます」
地上、の一言で、指先が勝手に動いた。こすり合わせる、例の癖だ。面会は夕方。検温とかぶらない時間。……今夜の地上に、俺は何もしてやれない。なら、手を動かすだけだ。
「……試算を、やり直します」
端末の上で、氷室さんの指が走って、止まった。数字の人の指が、止まった。
「言いな、嬢ちゃん」
「……作戦の前提は、湧出量3倍の核でした。実測は、下限でも9倍。供給が続く限り、総量は減りません。対象をあの1体に絞っても、完全浄化に要る支払いは――」
その先を、氷室さんは読み上げなかった。かわりに、端末を伏せた。データの人が、データを伏せた。
「――記憶では、足りません。記憶のすべてを払っても、桁が残ります。不足分は、記憶以外から徴収される。感覚。それから――存在、そのものです」
核の間が、静かになった。王の表面だけが、音もなく流れ続けていた。
所長は、すぐには何も言わなかった。籠手の指が、手拭いの結び目に一度触れた。
「……シノは、全部払って7割だった。いまのあれは、あの夜より肥えとる。嬢ちゃんの算盤は、俺の目と合っとるよ」
「帰るぞ」
所長の声が、工程を捨てた。
「作戦は白紙だ。うちの班はな、生きて帰る前提の数字しか扱わん。モップを引け、湊。……班長命令さ」
「私も、です。データは嘘をつきません。――だから今夜だけは、データの言うことを聞かないでください」
砂の向こうから、割れた声が割り込んだ。門の男に、こっちの数字は届いていないはずだ。届いていないのに、あの人の勘定は早い。
「――おい。……妙なこと、考えてねえだろうな。清掃、員」
回線の砂が濃くなって、続きは削れて消えた。門の向こうで、閂が暴れているんだろう。あの人の1秒は、いまも売られ続けている。
◇
地上。王城巧は、基金事務所の会議室で夜を越すつもりだった。
23時4分、電話が鳴った。病院に置いた駐在弁護士からだ。あの病室の周りには、金で買える安全を全部積んである。……買えない報せは、いつもその隙間から来る。
「容態が――」
最後まで聞かず、車のキーを摑んでいた。
病院までの12分で、6本の電話をかけた。症候群の権威。夜間搬送。検査技師。金と義理の利く名前を、上から順に全部だ。6本目の途中で、電話口の医師が言った。おたくだけではない、と。今夜、魔素症候群の患者は全国で急変している。地上の魔素濃度が、観測開始以来の速さで上がっている――と。
廊下は走った。走りながら、古い癖で計算していた。専門医、買える。機材、買える。時間は――。
病室の前で、計算が終わった。あの欄は、いつかの雑用係の欄と同じだ。数字に、ならない。
ベッドの少女は、眠ったまま浅い呼吸を繰り返していた。枕元に、角の丸くなった手紙が1通。看護師が預かろうとして、指が離さなかったのだという。
読み込まれて、折り目が透けている。文面は知らない。……知る資格も、まだない。
少女の唇が、音のない形に動いた。呼んでいる相手の欄だけは、読み取れた。
モニターの数字が、また1段下がった。医師が何か言っている。今夜が、どうとか。
王城は廊下の壁に、背を預けた。祈り方を知らずに来た人生だった。かわりに、収支の合わない独り言がひとつ落ちた。
「……急げ、灰崎。請求書は、あとで全部俺が持つ」
◇
核の間には、反対が満ちていた。班長命令。判を押さない宣言。砂まじりの凄み。……ありがたい話だと思う。俺の帳簿は、いつの間にか黒字らしい。
その全部に返事をしないまま、俺は床を見ていた。
王は、動かない。正確には――離れない。あれだけの図体で、傷口の真上から半歩も動いていない。腰から下は、ずっと傷の中だ。供給の糸も奔流も、眷属の在庫も、全部があの裂け目を通る。
傷口が、吐く息のたびに王を継ぎ足す。王が、蓋をするみたいに傷口へ座り込んでいる。……どっちが主で、どっちが従だ。
こぼれた水を拭くのが先か。蛇口を締めるのが先か。
ふた月前の俺でも、即答できる質問だった。
顔を上げる。汚れの王様は、三十年かけて前任者の雑巾を勉強してきたらしい。ご苦労なことだ。……的が、ひとつずれてるとも知らずに。
「……なんだ。やっぱりこれ、掃除と同じだ」
声に出すつもりはなかったが、出ていた。三人ぶんの視線が、こっちを向く。俺はモップの先で、王の根元を指した。王じゃない。その足元で膿み続けている、世界の傷のほうをだ。
「汚れってのは、元から絶たなきゃダメなんですよ。――所長、あんたの三十年前の答え合わせ、しましょう」




