第62話「怒り」
扉の内側は、下りの喉だった。
段差はない。手すりもない。滑らかな黒の坂と、下から昇ってくる重さだけがある。重さなら扉の外でも浴びた。中身は別物だ。外のは水圧に似ていた。こっちのは、視線に近い。降りるほど、見られている面積が増えていく。
膝は笑い終えて、いまは黙って震えていた。震えは経費で落ちない。落ちない出費は、数えない主義だ。
歩きながら、胸の中で検品をひとつ。妹の顔、ある。声、ある。退院したらの1番から10番も、ある。……よし。まだ全部ある。
「天海さん、聞こえますか。3人とも、抜けました」
返事は、砂の音に半分食われていた。「――おう」の欠片らしきものが、辛うじて拾えただけだ。扉の内側で、回線は急に痩せた。門は任せてある。こっちは、こっちの現場をやるだけだ。
「観測します。一。深度、全既存記録を更新中。二。魔素濃度、計器の上限で頭打ち。実数は測定不能。三。……三は、着いてから言います」
氷室さんの声だけが、いつも通りの温度で坂を刻んでいく。所長は先頭で、目と足の裏の地図を更新し続けていた。三十年前の紙は、ここから下では白紙らしい。首元で、藍色の手拭いが揺れている。
坂が、終わった。
核の間は、広かった。天井は暗くて測れない。投光器の光が、途中で吸われて戻ってこない。床は黒く磨かれて、3人ぶんの足音を呑んでいく。声が反響しないのは、部屋が広いからじゃない。部屋のほうが、音の受け取りを拒んでいるからだ。
その中央に、傷があった。
床の裂け目。……いや、裂けているのは床じゃない。たぶん、世界のほうだ。縁は火傷の痕みたいにめくれて、奥では黒い奔流が渦を巻いていた。膨らんで、戻る。押して、引く。膿んだままの傷口が、三十年、呼吸だけを続けている。
この仕事で、いろんな汚れを見てきた。こびりつき。魔素だまり。落ちない汚れ。あれはぜんぶ、ここの飛沫だったわけだ。掃除屋として言わせてもらえば、元栓の閉まっていない現場だった。拭く前に、栓の場所を探す種類の仕事だ。
「三。傷口の直径、推定90メートル。奔流の周期は14秒。……吸って、溜めています。これは、吐く前の呼吸です」
「三十年前より、傷が育っとる。……嬢ちゃん、縁から10歩は下がっとれ。傷ってのはな、触る指を選ばんのさ」
「9歩で妥協します。観測点を3つ置きます。5分ください。……核の実測データは、人類初なので」
氷室さんは端末を2台とも起こして、縁へ半歩寄った。観測員の半歩だ。数字のためなら、あの人は崖の縁にでも寄る。俺は俺で、床の検分を始めた。どこから拭くにしても、順番の見立てが要る。バケツはとっくに諦めている。今夜の相手は、プールでも足りない。
最初の異音は、掃除機に似ていた。
壁際の暗がり。瓦礫だと思っていた影の下に、白い機材ケースが積んであった。開けた形跡はなく、落ちてきた形跡だけがある。誰かの置き土産だ。その周りで、白い甲殻がいっせいに起き上がった。丸い機体。4枚の羽。腹には見覚えのある紋章と、通し番号。あの白だ。書類の白。協会の白。
「残置ドローン……確保計画の先行投入機です。シリアルが控えと一致します。発注36機、深層で全機沈黙のはず――いえ。訂正します。生きているのではなく、汚染されています」
機体の関節から、黒が古い油みたいにはみ出していた。起き上がったのは11機。氷室さんが番号を読み終えるより先に、機械の側が読み上げた。
『特別観測対象、確保。……登録外個体ヲ検知。異物。排除』
11個のレンズが、同じ方角を向いた。
傷口の縁から9歩。観測点をしゃがんで置いている、細い背中。
ここから先の数秒を、俺はたぶん一生、正しい順番で思い出せない。
ドローンの腹が光る音。所長のバールが2機を叩き落とす音。走り出した自分の足音。光が氷室さんの足元で爆ぜて、細い体が縁の内へ傾いだ。奔流が招くみたいに膨らんで、黒い飛沫が彼女の足首に絡みつく。
「観測点が――私に構わず、データを」
言い終わる前に、黒が背中まで昇った。
悲鳴が、聞こえた。
あの人の悲鳴を、俺は初めて聞いた。上げ慣れていない人の悲鳴ほど、耳に長く残る。
俺の中で、何かの切れる音がした。
張り詰めた糸の音じゃない。もっと事務的な音だった。つけ続けてきた帳簿の、綴じ糸が切れる音。
世界が静かになった。羽音が、遠い棚に上がった。所長の怒号も。砂の向こうで吠える門の男の声も。視界の真ん中に、拭くべきものだけが残った。
名前をつけるなら、たぶんこれが、怒りだった。
モップを、置いた。
手袋を、外した。
歩いた。
傷口から触手が来た。腕ごと呑む太さの黒。手のひらで、拭いた。消えた。次は2本まとめて。撫でて、消した。3本目は足元から。踏んで、消えた。歩幅は変えない。掃除は走ってやるものじゃない。走ると、拭き残す。
触手は途中から、俺を避け始めた。避けた先から、消した。汚れに学習されるのは、業界的にちょっと癪だった。
1機が進路に降りた。腹の紋章が目の高さに来る。知っている紋章だ。妹の病室の書類でも、決裁記録の上座でも、いつも偉そうに刷られていた。人を金庫にしまい損ねて、ゴミだけ捨てて帰った連中の判子だ。
不法投棄。うちの業界で、いちばん嫌われる客だった。
「俺の職場で」
機体を、撫でた。黒が抜けて、白い殻は電池の切れた音で転がった。
「俺の時給で」
2機目と3機目。まとめて、拭いた。
「俺の、大事な人に」
縁に着いた。氷室さんは肩まで黒に呑まれて、それでも端末だけは胸に抱えていた。目が、こっちの歩数を測っていた。最後まで観測員の目だった。
彼女に絡んだ黒へ、両手を入れた。
「――汚い手で、触るな」
拭いた。根こそぎ、拭いた。
財布の開く音を、初めて自分の耳で聞いた気がする。胸の奥で、束になった何かが抜かれていく。ページを破く音に似ていた。何のページかは、確かめようがない。確かめる係の棚ごと、持っていかれているんだから。止め方は知らない。知っていたとしても、今夜は止めなかった。
黒が、退いた。
縁から床の素の色が輪になって広がり、奔流が一拍、呼吸を忘れた。残りのドローンは輪に触れた端から白い殻に戻って転がる。所長のバールが、最後の1機を仕留める音がした。
引き上げた体は、軽かった。軽すぎて、腹の底が冷えた。
「……観測点、は」
「無事です。あなたの次に」
咳き込んで、それでも最初の言葉がそれか。この人の時制は、呑まれかけても現在形だ。
抱き起こして、名前を呼ぼうとした。
出てこなかった。
顔は、ある。声も、ある。9歩で妥協する言い方も、定規で引いたみたいな字もある。名前だけが、棚から抜かれていた。
指先を、こすり合わせた。癖になった動きだ。……こすっても、出ない。
傷口も、ドローンも、腹の底をここまで冷やさなかった。自分の呼吸が浅くなる音を、他人事みたいに聞いた。
胸ポケットの上に、重さがあった。心臓の上の、ちょうどいい重さ。あの手帳だ。開かなくても、書いた人のことなら体が覚えている。嘘を0割にしたがる人。三つに割って話す人。ひ――
「……ひむろ、さん」
思い出せた。
まだ、間に合う。
薄く開いた目が、俺を見上げた。
「……いま、8秒かかりました。呼ぶまでに」
「……計ってたんですか、それ」
「観測は、業務なので。左のページに、書いておきます。……それと。いま何か、払いましたね」
「残業代の、範囲内です」
書かないでください、とは言えなかった。代わりに立てるかどうかだけ訊いた。立てます、と即答された。立てなかった。所長が反対側から肩を入れて、二人で観測点の外まで運んだ。
砂の向こうから、割れた声が届いた。門の男の声だ。
「――生きて、るか」
「全員、無事です。門を、お願いします」
所長は俺の素手と、床の輪と、置き去りのモップを順に見た。何も言わなかった。言わない代わりにモップを拾って、俺の手に握らせた。
「……財布の話は、帰りの昇降機で聞くさ」
「はい。領収書は、あります」
胸ポケットを、上から押さえた。今夜抜かれたページの中身は、もう確かめられない。確かめられないものは、怖がりようもない。……なら帳尻は、生きて帰ってから合わせる。書いた人に、手伝ってもらって。
傷口の奥で、渦の速度が変わった。
吸う呼吸が、止まった。
吐く側に、変わる。
黒の底で、でかい何かが、こっちを見た。目なんてないはずなのに、見られたと分かった。初対面の気がしないのが、いちばん質が悪い。
モップを握り直した。手袋は、はめ直さなかった。
世界でいちばんでかい汚れが、そこにいた。




