第61話「人類最強の全力」
店番って稼業のいちばんきついところは、閉店時間を誰も教えてくれねえことだ。
右で砕く。左で払う。砕けた黒は床に還り、ふた呼吸で列に戻る。賽の河原の改修工事は、そろそろ何時間目だ。拳の皮は音を上げかけてたが、あいにく中身はまだ笑ってた。
「観測報告。波高、低下。……全個体、後退を開始しました」
言われて気づいた。黒い波が、引いてる。
押し寄せる側だった黒が、坂を下って還っていく。俺に飽きた面つきじゃねえ。あれは――呼ばれた面だ。
「向きは一方向、下方層です。……回収されています。核が、在庫を引き上げている」
「はっ。閉店のベルにしちゃ、嫌な鳴り方だ」
「違います。開店準備です。この物量を一箇所に集めて、いいことがあるとは思えません」
「分析官どのの見立ては、いちいち縁起が悪いな」
「そして、いちいち当たります。……追いましょう。私たちの班が、そのど真ん中へ歩いています」
岩戸は、黒の引いた道の先で口を開けてた。通行止めの看板は用済みってことだ。なら店番も終いさ。下の階には、取り立てそこねてる貸しがまだ残ってる。
第69層は、静かだった。
通路の途中に、崩落の山がひとつ。断面の割れ方に見覚えがあった。壊れる順番を読んで落とす、親父さんの手口だ。瓦礫の脇の床に、焦げた革籠手が片っぽだけ転がってた。
分析官どのは端末を一度持ち上げて、そのまま、しまった。頁は開かなかった。記録しねえと決めた場所なんだろう。なら俺も、見なかった勘定にしとく。私事ってのは、そういう扱いの荷物だ。
どん詰まりで、ふたつの背中が待ってた。
「よう。店じまいしてきたぜ」
「早かったな」
「客がまとめて、こっちへ引っ越したもんでね。……親父さん、首のそれ、趣味が変わったじゃねえか」
「拾いもんさ。上物だぞ」
藍色の手拭いだった。事情は聞かねえ。頁を開かねえのは、こっちも同じ流儀だ。ただ、親父さんの顔は来たときより軽くなってた。三日ぶんの飯より、よっぽど効く何かを食った顔だった。
「レイジさん。……検分の続きを、お待ちしてました」
清掃員の声は、いつもの低温だった。膝も、もう笑ってなかった。連れの顔を見た途端に営業を再開する膝ってのは、いい膝だ。
軽口の在庫は、そこで切れた。扉が目の前にあったからだ。
床の突き当たりが、裏返ってた。継ぎ目のねえ黒。扉というより、世界の底が口を閉じてる唇だった。そこから圧が漏れてる。音でも風でもなく、重さだけが漏れてくる。……なるほどな。こいつは客じゃねえ。店ごと呑む側だ。
「観測します。一。扉の奥は短い下りの喉。三十年前の地図にある中間の層が、観測上、存在しません。核はもう、扉のすぐ下です。二。回収された全個体の反応が、扉の直下に集結。三。……集結、完了しました」
黒が、来た。
床を流れる潮になり、俺たちの足首の脇を抜けて扉へ吸い込まれていく。334の在庫が、唇の向こうに消えた。それから扉が――膨らんだ。
生まれてきたのは、山だった。
天井まで届く黒。腕が4本。顔はねえ。そして根元が、扉と地続きだった。切れ目がどこにもねえ。
「……あれ自体が、閂です。あれが張り付いている限り、扉は開きません」
「なら話は単純だ。閂は、引っこ抜くもんだぜ」
先手はもらった。
助走3歩。腰を落として、右。10年を全部載せた、俺のいちばん値の張る右だ。
山が、止まった。
止まった。……それだけだった。拳の先で黒が凹み、凹んだまま押し返してくる。岩でも肉でもねえ。世界の底そのものを殴った手応えだった。
4本のうちの1本が、俺を薙いだ。ガードの上から体が浮いて、壁まで運ばれた。背中で岩が砕けて、肺から息がまとめて出てく。
「出力、観測しました。……あなたの全開と、同水準です。再生率を勘案すると、勝率は算出不能」
「レイジ、退き時を見誤るな。代わりは――」
「いねえだろ。代わりも、退き時もな」
立った。膝は動く。歯も全部残ってる。なら営業継続だ。
はっ、と喉が鳴った。笑ってるのが自分でも分かった。10年ぶりなんだよ。全力を出して、届かねえ壁ってのは。
10年、俺は勝ち方しか磨いてこなかった。最短で崩して、最速で終わらせる。それが最強の商売だと思ってた。……違ったんだよな、清掃員。お前の背中を眺め続けて、やっと腑に落ちた。勝ち負けの帳簿に載らねえ仕事が、世界を回してる。掃除も、露払いも、店番もだ。
なら今夜、俺が売る商品も決まってる。
「分析官どの。俺があの閂を扉から引き剥がしたら、隙間はどうなる」
「……開きます。推定幅0.8メートル。維持時間は観測不能。あなた次第です」
「長めに見積もっとけ」
「天海さん。それは、勝つ算段ではありません」
「拮抗で十分なんだよ。俺の仕事は勝つことじゃねえ、【時間を作ること】だ」
山に向かって歩いた。殴るためじゃねえ。摑むためだ。
「親父さん。傷口の場所を読めるのは、あんただけだ。清掃員の道案内を頼む」
「……死ぬなよ、レイジ。待つのは、今夜でもう懲り懲りさ」
「レイジさん。警備手当の精算が、まだです」
「取り立てには行くと言ったろ。複利で膨らませとけ。……ついでに定食屋の席も、4つ押さえとけ」
「大盛りは、俺が持ちます」
「はっ。高くつくぜ、俺の大盛りは」
4本の腕が、まとめて来た。
躱さねえ。2本は肩で受けた。2本は潜った。懐に入る。根元の黒に両腕を回す。指が沈む。沈んだ先で、組んだ。
引く。
足の下で床が割れた。背中の筋が悲鳴の代わりに軋む。黒が腕に絡んで、肘まで這い上がってくる。構うかよ。俺の商品は今夜、破壊でも勝利でもねえ。
1秒だ。1秒を、何枚仕入れられるかの商売だ。
剥がれ始めた。扉の唇と閂の根元の間に、髪の毛ほどの線が走る。線が指の幅になり、指が腕の幅になる。向こう側に、下りの喉が見えた。
「隙間、開通。幅0.7、0.8――行けます」
「行けェ! 清掃員!」
モップの背中が、真っ先に飛び込んだ。分析官どのが続く。親父さんは半歩遅れて、俺の横で一拍だけ止まった。
「説教は帰ってからだ、親父さん。利子をつけて聞いてやる」
「……ああ。積んどくさ」
三つ目の背中が、黒の唇の向こうへ消えた。
途端、閂が暴れた。4本の腕が扉へ戻ろうと空を掻く。戻したら終いだ。俺は根元を抱えたまま、引き剥がす向きに全部を注ぎ込んだ。隙間が閉じて、唇が結ばれる。……いいさ。用は済んだ。あとはこいつを、1秒でも長くこっち側に留めるだけだ。
それにな、閂のいねえ扉は、内側からなら開く。帰り道は確保した。あとは全員で使うだけだ。
なあ、知ってるか。最強ってのは、いちばん強く殴れる奴のことじゃねえんだぜ。
いちばん重い荷物を、いちばん長く持ってられる奴のことだ。
腕の中で、世界の底が暴れてる。上等だ。10年ためた全力の、これが初めての正しい使い道――
耳の奥で、回線が鳴った。
ノイズ。風みてえな音。それから。
分析官どのの、悲鳴だった。




