第60話「三十年目の再会」
解体屋の頃から、決めとることがひとつある。やけに綺麗な現場は、疑ってかかれ。
第69層は、綺麗すぎた。
埃がない。焦げた魔素の匂いもない。第66層から続いとった腐り水の系統が、この層だけぷつりと途切れとる。壁の脈も止まって、廊下はしんと澄んでいた。嬢ちゃんの端末が拾った「逆さまの波形」ってのは、つまりこの眺めのことさ。
記録は、切ってもらった。ここから先は帳面の外の仕事だ。三十年、そのために空けて取っといた行がある。
通路の真ん中に、そいつは立っていた。
人の形。細身。首には、色の抜けた布きれが1本。
左足に重心を置いて、右手の指だけを遊ばせる立ち方。モップも似合わん優男が、稽古のたびにやっとった癖のままだ。夢ん中でしか会えなかった立ち姿が、通路のど真ん中で俺を待っていた。
顔は、なかった。あるべき場所に、磨いた鏡みたいな白があるだけだ。防護服は着とらん。着る必要が、もうないんだろう。
「所長」
湊の声は、低いままだった。低いまま、モップを握り直す音がした。
「生きてる人じゃ、ないですね。汚れとも違う。俺の目には……綺麗に、見えます」
「だろうな。ありゃあ番人さ。核が戸口に置いた、店番みたいなもんだ」
番人の足元では、石畳が黒ずんでいた。立っとるだけで床が腐る。触れた壁は煮しめた色に変わる。世界を拭くための力を、逆さまに回しとるのさ。綺麗のかたちをした、汚す力。……核ってのは、つくづく帳簿の付け方が悪趣味だ。
「湊。工程を変える。お前は先へ行って、最後の扉の検分をしてこい」
「工程表だと、この層は二人で――」
「班長命令さ」
俺は番人から目を離さんまま、顎で奥を指した。
「三十年前の、俺の忘れ物でな。回収は班長の仕事と、うちの就業規則で決まっとる」
湊はしばらく黙っていた。俺と、番人と、その首の布きれとを順に見た。あれは、勘定を済ませた目だ。
「……検分、行ってきます。残業が出たら、呼んでください」
「おう。財布は開けるなよ」
「所長も、です」
行きかけた足が、一度だけ止まった。
「所長。シノさんの掃除、俺も見たかったです」
「……ああ。腕は、お前とどっこいさ」
「なら、安心して任せられますね」
それだけ言って、若いのは奥の暗がりへ消えた。任せる、の主語は聞かんでおいた。
言うことは、道すがら決めてあった。三十年かけて推敲した口上さ。すまなかった。遅くなった。お前が稼いだ三十年で、地上の人間が何人生きたか知れん。――だが実物の立ち姿を前にしたら、口をついたのは頭でも尻でもない一言だった。
「よう、シノ。……迎えに来るのが、三十年も遅れちまった」
白い顔が、こっちを向いた。磨いた鏡みたいな面に、歪んだ俺が映っとった。……三十年で、ずいぶん老けた男がな。
返事の代わりに、石畳が鳴った。番人の爪先から、黒が走る。問答無用か。まあいい。三十年ぶんの話なんぞ、どうせ口じゃ終わらんのさ。
初手は、左の刺しだった。
知っとる。稽古で100回受けた並びだ。刺しを外せば、次は低い払い。払いのあとに、照れ隠しみたいな半歩の引き。……全部、あいつの癖のままだった。核の野郎は力だけじゃ足りず、体の帳面まで写し取ってやがる。
外す。往なす。石柱の陰へ誘う。
二合、三合。躱すたびに、掠めた壁が黒く咲いた。触れられんというのは厄介だが、条件としちゃ単純さ。当たらなきゃいい。老いぼれの肺は正直で、四合目には笛の音を鳴らし始めたがな。……上等さ。三十年ぶんの追い焚きにしちゃ、体はよく動いとるほうだ。
五合目で、読みがひとつ遅れた。払いと見せた腕が、刺しに化けた。仰け反った鼻先を、黒い指がかすめる。前髪が数本、音もなく腐って落ちた。……教えた覚えのない手さ。三十年も飼われりゃ、癖も混ざるらしい。それが妙に、腹の底に響いた。
こっちは腕力自慢の若造じゃない。解体屋ってのはな、壊れる順番を読む商売なんだ。建物も、現場も――勝負も、だ。
三手かけて、番人を古い梁の下へ誘い込んだ。天井のひびは、この層に入るなり検分してある。腰の旧式のバールを1本、要の石へ叩き込む。
崩落。狙った幅だけ、狙った順で。
岩の重みが、番人の両脚を床ごと呑んだ。埃の向こうで白い顔が揺れる。だが腐りは止まらん。瓦礫が端から黒ずみ、砂に崩れていく。長くは保たん檻さ。
保たんでいい。俺の仕事は勝つことじゃない。……逃がさんことだ。
瓦礫を踏み越えて、番人の右腕を摑んだ。
籠手が、じゅ、と鳴いた。革の焦げる匂い。黒が手首へ這い上がってくる。指を開け、と体中の古傷が騒いだ。
開くかよ。
三十年前、俺はこの手を離した。摑んだはずの腕が煙みたいに抜けて、手の甲に火傷だけが残った。あの夜の領収書の上を、いま同じ黒が這っとる。……都合がいいじゃねえか。支払いの窓口まで、同じときた。
「今度は、離さん」
黒は肘まで来ていた。革が剥がれ、その下の古傷が焼ける。数えるのはやめた。数えると、離すための理屈を探しちまう。
なあ、シノ。地下でいちばん働いたのは、お前だった。誰よりへらへら笑って、誰より汚れを引き受けた。なら地上でいちばん長く待つ役は、俺でいいはずさ。……三十年待った腕の一本、安いもんだろう。
白い顔が、間近にあった。鏡の面の奥で、何かが揺れた気がした。気のせいでもいい。三十年、気のせいを頼りに求人を出し続けた男だ。今さら験は担がん。
「――所長」
背中に、聞き慣れた低温が届いた。
「検分、終わりました。扉は健在です。……それと、残業を1件、見つけたので」
「……見とったのか」
「途中からです。財布の話は、お互い様ですね」
湊は瓦礫を回り込んで、番人の正面に膝をついた。白い顔と、俺の焦げた腕と、首の布きれとを順に見る。
「所長。この人は、消しません」
「……頼めた義理じゃねえが。シノは、もう」
「汚れてるのは、この人じゃないです」
モップが、静かに床へ置かれた。湊は手袋を外し、番人の胸に手のひらを当てた。
「生地とシミは、別物です。……シミ抜きなら、うちの領分なので」
世界が、澄んだ。
三十年前に一度だけ見た澄み方と、同じで、違った。あのときは、何もかもが薄れていった。今夜は黒だけが引いていく。番人の輪郭から煤を拭き取るみたいに、指の幅ずつ。丁寧に。生地を傷めんように。
俺の腕の黒まで、ついでに落ちた。焼けた痛みまでは、落ちん。だが痛みの勘定は、あとでいい。
首の布きれに、色が戻った。
薄い藍色。初任給で買ったと自慢しとった、あの安物の藍だ。
黒が抜けきったあとに、優男が立っていた。……立っとる、と言うには薄すぎた。向こうの壁が透けとる。それでも、顔があった。へらへらと、三十年前のまんまの顔が。
「……源さん。老けたっすねえ」
「誰のせいだ、馬鹿もんが」
声は、思ったより保った。保ったのは、そこまでだった。
「泣かないでくださいよ。班長でしょ」
「……泣いとらん」
籠手の落ちた右手で、顔を拭った。埃を拭いただけさ。手の甲の火傷に、あったかいもんが染みただけだ。
シノは透けた顔を、湊のほうへ向けた。俺は焼けた腕で、若いのの肩を指した。
「うちの新入りだ。灰崎湊。……お前と同じ、掃除係さ」
「道理で。いい腕っすねえ」
優男は目を細めて、それから深々と頭を下げた。
「……ありがとな、灰崎。俺の三十年を、掃除してくれて」
「仕事なので。……それと、道具の趣味が合いそうなので」
湊が答えると、シノは声を出さずに笑った。輪郭が、端から光にほどけ始めとる。あいつは急ぐ様子もなく首の手拭いを解いて、俺の胸へ押し付けた。布きれには、まだ温度があった。汗と、洗剤と、埃の匂いがした。三十年前の詰所と、同じ匂いだ。
「源さん。核の野郎、俺の力を三十年も勉強してますよ。……掃除代、だいぶ吊り上がってます」
「勘定はこっちで持つさ。……ゆっくり寝ろ、シノ。長い残業だったな」
「うっす。――あとは、頼んます」
それは三十年前に聞き損ねた、続きの台詞だった。
親指が、立った。
三十年前と同じ形のまま、光がほどけて、消えた。
通路に残ったのは、俺と湊と、藍色の手拭いだけだった。
手拭いは、首に巻いた。巻き方は見よう見真似だ。三十年開きっぱなしだった帳簿の行が、今夜ようやく閉じた。判を押したのは俺じゃない。うちの新入りだ。
「湊。この貸しは高いぞ。何で返しゃいい」
「時給に、少しだけ色をつけてください。それと――」
湊は指の先を、二度こすり合わせた。それから、何でもない顔で続けた。
「今の掃除の代金、何を払ったか思い出せないので。手帳に『安い買い物だった』と、書いておいてもらえますか」
「……ああ。俺が証人になるさ」
嘘は書かん主義だが、あれは嘘にならん。あいつがそう言った事実を、俺が死ぬまで覚えとく。帳簿ってのは、そのためにあるのさ。
シノの力は、いつかまた生まれる。そう信じて受け皿だけ出し続けた三十年だった。……受け皿の役目は、今夜で終いさ。ここから先は班長として、この若いのを生きて連れて帰る。それが新しい行の、一行目だ。
最後の扉は、第69層のどん詰まりにあった。
扉と呼んでいいのかも怪しい。世界の床が突き当たりで裏返ったような、継ぎ目のない黒さ。三十年前の地図で、扉の印はこれで最後だ。ここから下は扉も岩戸もない、ひと繋がりの喉になる。核の間まで、まだ幾層もあるはずだった。……あるはずなのに、圧はもう漏れてきていた。
音もなく、匂いもなく、ただ重さだけが来る。三十年前、俺の膝を折りかけたのと同じ重さが、だ。工程表は、初日からもう赤字だ。だが扉の前に立った途端、そういう数字がまとめて軽くなった。
「……検分したときより、重くなってます」
湊の声は、いつも通りの低温だった。いつも通りに聞こえるよう、低温を保っとる声だった。モップを握る手も、動いとる。
だが膝が――あの湊の膝が、初めて笑っとった。




