第59話「露払いの流儀」
通行止めってのは、看板の仕事じゃねえ。立ってる奴の目方の仕事だ。
坂の底の黒は、見てる間にも殖えていた。人の形に伸びかけて、やめる。獣に折れかけて、やめる。決まらねえ形が3桁ぶん、音もなしに煮えている。
「観測、再集計。概算320。……訂正します。334」
「数える端から増える在庫かよ。景気がいいねえ」
「整理します。一。個体の強度は、初戦の個体の10分の1程度。二。ただし砕けた個体は床に還り、ふた呼吸で再構成されます。三。……つまり殲滅という解は、存在しません」
「知ってた。だから殲滅とは言ってねえ。通行止めだ」
親父さんが横に並んだ。坂の底と俺の顔を、同じ目方で見比べる。
「勝たんでいいんだぞ、レイジ」
「はっ。注文はそれだけか」
「30分、釣っとれ。俺と湊は壁沿いを抜ける。……眷属はな、群れると個の判断を捨てるのさ。いちばんでかい騒ぎに集る。お前さんより騒がしい男を、俺は知らん」
「褒めてんのか、それ」
「工程の話さ」
湊が荷物を探って、包みをひとつ差し出してきた。塩むすびの、最後の1個だった。
「警備手当の、前払いです」
「利子をつけて取り立てに行く。とっとと行け、清掃員。……床は任せた」
「はい。門は、任せました」
黒が、坂を昇り始めた。
波だった。1体ずつの群れじゃねえ。黒い水が、勾配を無視して迫り上がってくる。
「天海さん、訂正します。あれは群体ではなく流体です。頭を潰しても、流れは死にません」
「なら、どうする」
「流れには向きがあります。向きは、刺激で変わります。――あなたが、この層でいちばん大きい刺激になってください」
「はっ。餌の係か」
「囮です。様式上の呼称は」
「どっちでもいい。……面白くなってきた」
波頭のいちばん厚いところへ、正面から突っ込んだ。
右で3体。返しの肘で2体。砕けた黒が霧になり、霧のまま床に還っていく。ふた呼吸で、床がまた黒を産む。賽の河原の、今日は大規模改修だ。出来高はゼロ。それでいい。俺の商品は今夜、破壊じゃねえ。時間だ。
「7時の方向、圧力集中。3歩下がって、坂の中央へ」
「注文が細けえ」
「細かい注文で、生きてもらいます」
「言っとくが、堰が破れたら真っ先に食われるのはお前だぜ、分析官どの」
「知っています。ですから、破らせないでください。……囮の管制を、後方100メートルからやる方法があるなら、聞きますが」
「はっ。前線勤務の口が達者になったもんだ」
管制の声は、一度も湿らなかった。湿らねえ声ってのは、こういう夜は何よりあったけえ。数字は嘘をつかねえんだとよ。なら今夜の俺は、数字に守られてる勘定だ。悪くねえ布陣だぜ。
暴れるほど、流れは俺に集まった。集まったぶん、左の壁際が乾いていく。細い水路みてえな空白。分析官どのの図面どおりだ。
「通り道、開通。幅1.2メートル、維持予測40秒。――お二人、どうぞ」
視界の端を、大小ふたつの背中が走り抜けた。でかい背中が先導して、モップを担いだ背中が続く。黒の波は、どっちにも見向きしなかった。俺の拳のほうが、よっぽど上客らしい。
40秒きっかり。第69層への岩戸が、背中ふたつを呑んで閉じた。
――よし。
ここからは、閉店までの店番だ。
露払いって稼業を、俺は長いこと勘違いしてた。主役の前座だとな。違った。主役が主役の仕事だけで済むように、道の汚れを先に引き受ける係だ。……なんだ。どこかの清掃員と、同じ商売だったわけだ。
波が厚くなった。岩戸の前で暴れる獲物には、全員で来るらしい。右。右。左。膝。蹴り倒された投光器を拾い上げて、分析官どのの足元へ放り返す。息が上がってきた。10年で、初めての上がり方だった。
10年、俺の全力は俺一人の持ち物だった。使い道は賞金と席次で、使い切っても誰の腹も膨れなかった。全力なんて軽いもんだと思ってた。振り回すだけなら、な。
今夜のは違う。この拳には預かり物が載ってる。あの兄妹の三日。親父さんの30年。分析官どのの5年。全部まとめて、俺の背中に置いていきやがった。
――一人の全力より、預けられた全力のほうが、重くて、熱い。
なんだよ。最強ってのは、10年目の表彰台より、今夜のドブ板の上のほうが強えのか。誰か教えとけよ、もっと早く。
「はっ……ははっ」
殴りながら笑う男を、黒どもはどう観測してるんだろうな。
◇
観測とは、本来は過去形の仕事だ。起きたことを、起きたあとで数える。5年間、私はその安全な時制の中で生きてきた。
今夜の数字は、全部が現在形だった。
手元は端末2台と投光器1台。第68層の固定観測点は、残り3割。この持ち札で、私は堰の全部を読む。読みが1秒遅れれば、あの人の死角に牙が届く。1メートル逸れれば、次の空白が黒で塞がる。
「11時の方向、波高上昇。交差まで2秒」
「おう」
拳の音が、予測線のとおりの位置で鳴る。観測が当たるたび、人が生きる。当たり続ける限り、生き続ける。
5年前、私の数字は人を守れなかった。正しさだけあって、間に合わなかった。今夜の数字は間に合っている。1秒ごとに、間に合い続けている。
震えてもいいはずの指が、一度も止まらなかった。棚の中で5年眠っていた私の数字が、今夜は人の形で走っている。読み上げた端から拳に変わって、黒を割っている。
こんなに生きている観測を、私は知らない。
岩戸が閉じる寸前のことも、記録している。モップの背中は、一度も振り返らなかった。信じている者の背中は、振り返らない。私の数字は今夜、あの背中に信じられている。責任という単語の質量を、今夜ほど正確に計測した夜はない。
手帳の今日の頁に、あとで1行だけ足すと決めた。観測者・氷室紗雪は本日、業務中に初めて時間を忘れた。……様式外につき、裏の頁でいい。
異変は、堰のこちら側からは来なかった。
第69層の固定観測点。生き残りの1基が、静かすぎる数字を送ってきた。
濃度、急落。眷属反応、ゼロ。あの深さで、清浄。
……この波形を、私はずっと追いかけていた。浄化領域。ただし、極性が逆さまだった。綺麗のかたちをした、まっ黒な数字。
回線が開いた。
「氷室さん。第69層に、着きました。……先客が、います」
いつもの低温だった。低温のまま、最後の音節だけ掠れていた。
「眷属じゃ、ないです。逃げも隠れもしないで、通路の真ん中に立ってます。――人の、形をしています」
次の声まで、7秒あった。所長の回線は、その7秒を埋めなかった。
聞こえたのは、革の籠手が一度だけ軋む音だった。
「……嬢ちゃん。すまんが、第69層の記録を切ってくれ」
「所長。観測データは、切れば戻りません」
「載せんでいい帳面も、世の中にはあるのさ。……三十年ぶんの、私事でな」
私は初めて、自分の意思で観測を止めた。
データは嘘をつきません。
……だから今夜のこれは、データにしないでおきます。




