第58話「最終アタック開始」
うちの班の朝礼は、今日は降下する箱の中でやることになった。時は金なり、というより時は命なりの日程だ。猶予、三日。うち移動が二日。誰も文句を言わなかったのは、文句の時給が出ないからだと思う。
ゆうべは助けた18人を、地上の医者に引き渡した。深場のキャンプは、もう畳んである。戻る道は、この箱ひとつだ。
業者用昇降機、第66層行き。定員8名の箱に、4人と最小限の荷だけが乗っている。中継の先送りは、なし。水は1人2本。飯は塩むすびが1食ぶん。三日で終わる工程に、四日目の弁当は要らない――所長の見積もりは、今朝も乾いていた。
「点呼はいい、顔で済んどる。――湊、検品」
「はい」
胸ポケットのノートを開いた。ゆうべの行は、1行だけ増えている。
「妹の顔も、声も、あります。『退院したら』の1番から10番も。……まだ大丈夫です」
「よし」
「はっ。景気のいい検品だ。今日も満点で行こうぜ」
「工程を整理します。一。本日中に第66層から第79層まで踏破。二。深層の転送ゲートは昨夜の時点で全基が応答停止。補給も退路も、当面ありません。三。……」
氷室さんの指が、三つ目で止まった。止まってから、まっすぐ言い直した。
「三。それでも、生きて帰る前提の数字だけを揃えてあります。……今回も、です」
「急ぎ仕事で人を落とすのが、いちばんの手戻りさ。ペースは俺が決める。ついてこい」
降下の途中で、端末が1回だけ震えた。地上の電波が届く、最後の深さだ。妹からの返信だった。
【掃除がんばって。早く終わったら、10番は前倒しね】
……前倒し。うちの妹は、交渉の筋がいい。10番の中身を、俺はまだ知らない。知らない予定があるってのは、悪くない。生きて戻る理由は、多いほどいい。既読だけつけて、端末を防水袋の奥にしまった。ここから先は、圏外の国だ。
箱が着いた。扉が開く。
最初に来たのは、匂いだった。
濡れた鉄と、熟れすぎた果物。うちの業界で「腐り水」と呼ぶ系統の、いちばん深い棚のやつだ。上等な防塵マスクを配られていた理由が、降りて3歩で分かった。
前に来たとき、第66層の壁は濡れて「見える」だけだった。今は、見えるだけじゃない。
照っている。そして――脈打っていた。
膨らんで、戻る。押して、引く。通路まるごと、でかい生き物の血管の内側だった。天井の高さが、呼吸のたびに半歩ぶん変わる。遠近の帳尻は、前回よりさらに雑になっていた。発光苔は半分がた黒ずんで、足りない明かりは氷室さんの投光器が払っている。
床には浅い水たまり。モップの柄の先を浸けたら、樹脂が白く曇った。
「酸性です。消化液だと思ってください。……長靴の交換部品は、ありません」
「床は踏むな寄りの現場、ですね。了解です」
現場というものには、普通、礼儀がある。掃除屋が入れば、現場の側も掃除屋を迎える。ここは違った。廊下の空気ぜんぶが、こっちを向いている。招かれていない側の肌で、それが分かる。視線の主を探すだけ無駄だ。廊下そのものが、目玉なんだから。この仕事を始めて初めて、現場調査の欄に「敵意」と書く羽目になった。
「三日の内訳を言う。今日で第79層。明日で白紙区間。三日目に、核の間の大掃除さ。――走るぞ」
駆け下りる。
順番は決めてある。レイジさんが開ける。所長が読む。氷室さんが刻む。俺は最後尾で、財布に鍵をかけて走る。
「第67層への連絡坂、予定より30秒巻いています。この貯金、維持してください」
「壁に寄るな。膨らむ側は薄い。……右の岩棚を渡れ。そこの水は、飲み込む側の口さ」
所長の道読みは、地図より正確だった。30年前の紙にない変化を、目と足の裏で直しながら行く。角を三つ。坂を二本。滑る床は跳ぶ。跳べない幅は、レイジさんが瓦礫を蹴り込んで橋にする。道を塞ぐ影は、前回の倍は湧いた。倍のまま、レイジさんの前で半分になり、残りは視界の端で消える。10年ぶんの在庫処分は、まだ在庫が切れないらしい。
俺の仕事は、走ることと、拭かないことだ。すれ違う汚れに未練の目だけやって、財布は開けない。道中の払いは、ぜんぶ前借りされている。……うちの班の給与体系は、たまに温かすぎて困る。
異変は、角のむこうで起きた。
「氷室さん、こっちが近道です」
俺の声だった。俺は、言っていない。
全員が止まった。投光器が角を薙ぐ。誰もいない。壁の脈だけが、半拍ずれて打っていた。
「……音の真似が、上達しています。前回は反響が遅れるだけでした。いまは『声』を返してきます。以後、経路の指示には合言葉を付けます。昨夜、決めたとおりに」
決めた。決めたはずだ。ゆうべの工程会議で、手も挙げた。
合言葉の欄が、白い。
脈打つ壁より、そっちのほうが冷えた。喉の手前までは来ている。来ているのに、出てこない。ゆうべだぞ。ゆうべの帳簿が、もう白い。
指が先に動いた。胸ポケット。ノートの、隣。防水の表紙。
昨日の日付のページに、定規で引いたみたいな字が並んでいた。
【合言葉。問い「本日の現場は」。答え「特別清掃」。昨夜21時に決定。あなたは2回、復唱しました】
「――特別清掃、です」
「正解です」
氷室さんは、こっちを見なかった。端末に目を落としたまま、道の先へ顎をしゃくった。
「記憶は消えても、記録は消えません。……次、巻きますよ」
見ないでいてくれるのは、あの人の優しさの様式なんだろう。向かいのページには今日の段取りが、同じ字で並んでいる。昇降機の中で一度見た欄だ。一度で済んでいないことは、黙っておく。手帳を胸に戻すと、心臓の上が少し重い。……ちょうどいい重さ、というやつだった。
第67層の大広間。天井が高く、声を張れば山彦が3つ返る造りだ。前回は1つも返らなかった。今日は逆だった。張ってもいない声が、どこかから返ってくる。だから全員、黙って歩いた。
出口の手前で、所長が足を止めた。
壁際の一角。何もない。瓦礫もない。ただ、発光苔の黒ずみが、そこだけ人の背丈ぶん途切れていた。
「30秒だけ、くれ」
所長は籠手を外して、手を合わせた。深くはない。長くもない。線香の代わりに、革の軋みがひとつ鳴っただけだった。
「三十年前、ここで医者の先生を置いてった。毒の霧さ。俺が退き時を、1分読み違えた」
誰も口を挟まなかった。レイジさんは通路の先を見張る顔のまま、耳だけこっちに置いていた。氷室さんが、手帳に短く書き足していた。座標と、たぶん座標じゃないものを。
「先生は最後まで、他人の脈ばかり数えとった。自分の残り時間は、数えもせんでな」
籠手を、はめ直す音がした。
「――今度は、しくじらん」
工程表にない30秒だった。ただ、うちの所長の30年は、こういう30秒の積み立てでできているんだろう。俺は黒ずみの途切れ目に、モップを持っていない方の手を合わせた。ここの掃除は、また今度。生きて戻る、道すがらに。
第68層、下り坂。
初戦の現場だ。最初の「こびりつき」を、一拭きで落とした坂。
……坂の底が、見えなかった。
黒で、埋まっていた。
照りのある黒。縁の整った黒。人の形に伸びかけて、やめる黒。それが1体じゃない。数えかけて、やめた。数字にすると、士気の帳簿が赤字になる。
音はなかった。3桁の何かが蠢いて、それでも音がない。世界がまた、音の受け取りをやめていた。
「観測、追いつきません。……概算で、3桁です」
氷室さんの声が、初めて数字の手前で丸くなった。所長が半歩出かけて、止まった。読みの合わない数字を前にした、指揮官の止まり方だった。
坂の縁で、足音がひとつだけ前へ出た。
レイジさんだった。首を一度鳴らしただけで、包帯も巻き直さない。振り向いた顔は、定食屋で大盛りを頼むときと同じだった。
「ここは通行止めだ。――俺以外はな」




