第70話「おかえり、お兄ちゃん」
「――初めまして、から始めましょう。お兄ちゃん」
波の音の合間に、その言葉は落ちてきた。初めましてと、お兄ちゃん。帳尻の合わない2つが、1つの文の中で澄ました顔をして同居している。
……帳尻。また出た。俺の頭は、考えごとのたびに勝手に経理の言葉を使う。誰に習ったのかは知らない。3か月前の浜より手前が、俺にはないからだ。
夕陽を背にした女の子は、言い切ってから長く息を吐いた。長距離走のゴールみたいな吐き方だった。笑っている。笑っているのに、目の縁だけが濡れて光っていた。
「……人違いだと、思いますよ。俺、名前がないんです」
「知ってます。名前なら、私が預かってます」
即答だった。人違いを疑う速度じゃない。彼女は俺が空けた場所には座らず、正面に立ったまま続けた。
「考察歴1年。世界中が8か月探して見つけられなかった人を、病室のベッドから言い当てた実績があります。……だから、いきなり泣きついたりしません。検証から始めます」
「検証、ですか」
「質問1。そのいちご、最後のひと粒だけ残したの、なんでですか」
膝のパックを見下ろした。蓋の内側で、いちばん大きいひと粒が転がっている。
「……分かりません。手が、勝手に」
「ですよね」
採点の声が、揺れた。彼女は頷いて、鞄から1冊のメモ帳を出した。角がすり切れて、表紙の色が変わるほど使い込まれている。
「質問2は、これです。見てください」
開かれたページに、リストがあった。
――退院したらリスト。1、いちご狩り。2、お兄ちゃんの職場見学。3、教室のみんなとお弁当。4、海で写真。5、家の掃除を私が代わる。6、夜のお散歩。
7、パンケーキを並んで食べに行く。二人とも同じやつ。分けっこ禁止。
7番の横には、絵が描いてあった。3段に積み上がったパンケーキ。てっぺんのバターまで、ちゃんと黄色い。
目の奥で、何かが音もなく決壊した。
頬が、濡れた。
拭いた。追いつかなかった。
理由が、どこにもない。悲しくないのに。痛くもないのに。水だけが勝手に、たまっていた何かの精算を始めている。
「……なんで、だろう。これ、『あまいの』……食べる約束を、してた気がする」
「してました」
彼女の声も、もう揺れっぱなしだった。
「7番です。予約済み。……席、ずっと取っておいたので」
「1枚で、よくないですか」
口が勝手に動いた。俺の知らない台詞だった。彼女が変な音を立てる。笑うのと泣くのの、ちょうど中間の音。
「よくないの。あれは枚数の暴力に、意味があるの」
それから彼女は両手で顔を一度拭いて、姿勢を直した。
「……まだ言いません。言いたい言葉が2つあるけど、順番があるので。先に、家族の証拠だけ置いておきますね」
彼女は俺の隣の、空けたままだった場所に座った。パックの蓋を開けて、最後のひと粒を摘まみ上げる。
「これは私のぶんです。うちでは昔から、そうなので」
ひと粒は宣言どおり、彼女の口に消えた。……不思議と、どこも惜しくなかった。むしろ、勘定がひとつ合う音がした。
◇
堤防の向こうから、足音が3つ来た。
「――いた。飯の兄ちゃん! やっと見つけたぜ!」
先頭のでかい男が、白い歯を見せて笑っている。見覚えは、ない。ないはずなのに、口が先に動いた。
「……大盛り、2つの人」
「はっ! 上等だ。頭が忘れても、腹の客は覚えてやがる」
男は俺の前にしゃがんで、拳を軽く突き出してきた。
「取り立てだ。めしの約束が1件、未回収でな。利子は複利だぜ。……逃げ切れると思うなよ、清掃員」
その後ろから、眼鏡の人が薄いノートを差し出した。事務の手つきだった。指先だけが、少し震えていた。
「配達です。宛先――『明日の灰崎湊』さま。お受け取りください」
はいざき、みなと。
口の中で転がすと、妙に据わりのいい名前だった。ノートを開く。俺の字だ。癖まで同じだから、疑いようがない。1行目に、こうあった。
――ひよりのことは全部あるので、まだ大丈夫。次のページからは、明日の俺あての引き継ぎ書。
ページをめくる。妹の名前はひより。プリンは経費で、いちごは投資。はいは1回。ガジュマルの水やりは、頼まれなくてもやる。……3か月どころじゃなかった。8年ぶんの暮らしが、俺の字で几帳面に並んでいた。
空白は、埋まらなかった。かわりに、引き継ぎが済んだ。前任者は、ずいぶん妹に甘い男だったらしい。
「……配達、完了です。私の業務は、いま終わりました」
眼鏡の人はそう言って、手帳をもう1冊重ねた。
「こちらは控えです。8か月ぶんの、あなたの毎日。……ここから先は、業務ではなく私用で通います」
「うちのエースが無断欠勤とはな」
最後に、熊みたいな年寄りが言った。作業着の胸に、くまがいクリーンサービスの刺繍がある。
「3か月ぶんの欠勤届は、まけといてやるさ。備品も貸出中のままだしな。……戻る席なら、拭いて待たせとるがな」
「待ちなよ。あんちゃんは、もううちの戦力さ。熊谷さん、引き抜きは筋が違うがね」
「元の帳簿はうちさ。……まあ、出向の相談なら受けるがな」
年寄り2人の間で、俺の所属が勝手に取引されはじめた。給与交渉なら同席したい。時給は、大事だ。
隣で妹が、泣きながら噴き出していた。
◇
翌朝の海辺のカフェは、窓が大きくて床が綺麗だった。よその床の綺麗さで機嫌が良くなるのは、どうやら俺の古い持病らしい。
テーブルには、同じパンケーキが2皿。3段で、てっぺんのバターは黄色。絵のとおりだった。
「分けっこ禁止だからね。1段も渡さないから」
「リストの7番、だったな」
「うん。……でもね、ほんとの7番は別だったの」
ひよりはフォークを置いた。ナプキンで指を拭いて、居住まいを正す。
「入院してた頃ね、7番だけ書けなかったの。書くと、泣いちゃいそうで。……ノートのいちばん下、見たでしょ。お兄ちゃんの字のやつ」
見た。最後の行に、こうあった。――ひよりに、今までのお礼を言う(忘れる前に)。
前任者が、唯一やり残した仕事だった。
「私の10番はね、『お礼は言わせない。先に私が言う』。……だから、これは私の勝ちなの」
ひよりは息を吸った。長い呼吸だった。8年ぶん吸ったのかもしれない。
「ほんとの7番。――お兄ちゃんに、ちゃんとありがとうを言う」
「ありがとう、お兄ちゃん。8年ぶんと、3か月ぶん。……あと、世界のぶんも、私が代わりに言っておくね」
窓の光の中で、妹は泣きながら笑っていた。俺の目は、今度は決壊しなかった。かわりに、胸のいちばん深い棚で何かが定位置に収まった。長いこと、貸出中だった何かだ。
「それでね」
ひよりはもう一度、居住まいを正した。
「おかえり、お兄ちゃん」
頭の帳簿は、白紙のままだ。それでも返す言葉は、最初から決まっていた気がした。記憶より深いところに、置いてあったやつだ。
「……ただいま。あと、初めまして」
妹は、今日いちばんの顔で笑った。
皿の上で、同じパンケーキが湯気を立てている。窓の外では、朝の商店街が今日のぶんの汚れを積みはじめていた。……食ったら、店の前だけ掃いておくか。時給は出ないが、まあいい。前任者の帳簿によれば、こういうのは投資と呼ぶらしい。
世界で一番静かな最強は、今日も誰かの日常を、綺麗にして生きていく。
(完)




