第56話「データは嘘をつかない(完)」
地上の朝は、白すぎた。
発光苔に慣れた目が、順応までに2分を要求した。補給ゲートの帰り便を4時間乗り継いで、私は5年勤めた建物の前に立っている。鞄の中には、角の擦り切れた封筒がひとつ。所長の裁可は1行だった。
「行ってきな、嬢ちゃん。地上はあんたの現場さ」
協会本部の正面には、中継車が6台停まっていた。王城巧の基金会見からこちら、報道は玄関に張り付いたままらしい。都合がいい。会見場を運ばせる手間が、今回は要らない。
職員証をゲートにかざす。扉は開いた。休職扱いの5年目は、まだ生きている。カードは自分では動かない。動かした人間が、責任ごと持ち帰る。今日の分は、そのつもりで来た。
◇
朝礼前の分析室は、眠い顔をしていた。
私は共用端末の前に座った。22時41分に囮を開けた、あの端末だ。読まれる側の席で書く。今日の様式には、それがいちばん似合う。
封筒の中身を、頁の順にスキャナへ通した。
一。先輩の報告書、写し全12頁。第31層の濃度曲線と、三度の却下の記録。
二。同年度の決裁記録。件名「深層清掃予算の削減について」。削減幅6割。起案理由は「費用対効果」の5文字。決裁は、第31層の事故の4か月前。
三。今年度の起案文書「特別観測対象・確保実施計画(案)」。人命の欄がない様式と、見覚えのある判子の並び。
5年前、清掃を削った判子。今年、人間を金庫にしまおうとした判子。並べると、押した指の角度まで同じに見える。単発の告発は握り潰せる。だから5年、写しを集めて温存してきた。相関は、潰せない。
宛先は全職員、3,842名。会議資料の共有棚の、定期便に載せる。定期便は止められない。止める権限を持つ名前が、添付の判子欄に全部並んでいるからだ。同じ時刻でもう1本、送信予約を組む。届け先は、正面玄関の中継車6台。
起案者氏名の欄に、氷室紗雪と打った。
最後に、自分の判子を押した。役所の判子は、夜に走るとき悪いことをする。なら朝いちばんの判子は、たまには正しいことをしていい。
指が、送信の上で一拍止まった。
5年前は、正しい数字が負けた。……いや。あのときの数字は、単独だった。今日は数字が、数字を守っている。
送信。処理は3秒で終わった。5年が、3秒で通った。
「……氷室さん」
背後に、三雲主任が立っていた。顔色が、画面の白に負けていた。
「なぜ、その端末で」
「手癖の出る端末だからです。――検索式には、手癖が出ますよ。主任」
視線が泳いで、宛先の行数で止まった。あの止まり方は、読んだのではない。数えたのだ。調査の名簿に自分の名前が載るまでの、残りの日数を。
「私は……」
「データが決めます。私ではなく」
椅子を戻して、席を立った。借りた席は、直して返す主義だ。
◇
正午の協会は、いい観測対象だった。
10時、報道各社が一斉に打った。11時、テロップに「握り潰し」と「協会上層部」が同じ行で載った。11時20分、外務系の回線が騒ぎ出す。《ファントム》の「保護」を申し入れていた3か国が、そろって声明の文言を差し替えた。保護。昨日までは大義だった単語が、今日からは5年前の判子と同じ棚に入る。
昼の食堂で、若い職員が2人、無言で私に頭を下げた。名前は知らない。先輩の頁を、今朝初めて読んだ世代だ。
12時40分、12階の会議室に呼ばれた。
長机の向こうに、判子の持ち主たちが座っていた。決裁欄でしか見たことのない名前が、顔と血色を持って並んでいる。血色のほうは、あまり残っていなかったが。
「氷室くん。これが何を意味するか、分かっているのかね」
「はい。様式どおりの報告です。起案、添付、押印。すべて協会規程の範囲内です。皆さんの作ったルールで、皆さんに届けました」
「数字というものには、解釈の幅がある。組織には組織の事情が――」
「データは嘘をつきません」
5年間、言い続けてきた口癖だ。続きを声に出すのは、今日が初めてだった。
「――嘘をつくのは、いつも人です」
沈黙が長机に落ちて、誰も拾わなかった。拾える手は、全部判子で塞がっていた。
退室の廊下で、部長に呼び止められた。
「ひむろくん」
5年目で初めて、正しい読み方だった。
「……戻る気は、あるのかね。分析室に」
「あります。私の観測対象が、仕事を終えたら」
夕方の定期便が、辞表の受理を3件伝えた。決裁欄の4つの判子のうち、3つが消えた。残る1つも週明けを越えない、というのが庁内の賭けの相場らしい。総辞職。様式の言葉にすれば、4文字で済む。5年かかった訂正が、半日で通った。
手帳に「訂正」と書いて、頁を裏返した。裏には、何も書かなかった。今日の分に、裏はない。
◇
夜、中継局から回線を深層へ繋いだ。
三度のコールで、聞き慣れた低温が出た。
「はい、くまがいクリーンサービスです。……氷室さん?」
「整理して、報告します」
癖のまま、指を折った。
「一。移送決裁は撤回。病室の保護区画は、病院名義で再申請済みです。二。確保実施計画は廃案。起案側は全員、決裁権を失いました。三。……」
三つ目で、指が止まった。三つに割れる話なら、どこまでも行けるはずだった。
「――地上は、片付きました」
回線の向こうで、モップの柄がバケツの縁に立て掛けられる音がした。夜勤の、入りの音だ。
「お疲れさまです。そっちの現場のほうが、大変だったんじゃないですか」
「あなたの心配は、いつも順番が逆です」
声が、最後の音節で揺れた。
「回線、遠いですか。中継、もう1本立てましょうか」
「いいえ」
データのせいにする道は、あった。ノイズ。距離。減衰。もっともらしい変数なら、いくらでも並べられる。
並べなかった。嘘は、0割のままにしておきたい。
「回線は正常です。……そちらの『大掃除』に、集中してください。地上の数字は、全部私が見ています」
「はい。――先輩の報告書、世界がやっと読んだんですね」
……この人は、こういうところだけ、拭く場所を間違えない。
「ええ。5年遅れの、初版です」
通信を切って、目元を拭いた。手帳は、開かなかった。私一人の観測日誌にも、載せない行はある。
端末を落とす前に、業務の癖で監視画面を開いた。
ゲートの搬入記録が、1行だけ増えていた。
深夜帯、最深層方面の最終関門ゲート。名義は海外の資源会社――登記から3か月のダミーだ。品目、「採掘機材一式」。搬入責任者の欄には、見覚えのある所属が並んでいた。
ゼノギア。王城の解任に、従わなかった側の残党。
採掘。あの深さで。核の、すぐ隣で。
指先から、昼間の熱が引いていく。
様式の中の悪意なら、私はもう倒し方を知っている。……様式の外の暴挙は、誰が止めるのか。
――回線を、もう一度深層へ。




