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第54話「人質」


 検温より早いノックは、いい報せを連れてこない。


 朝の8時50分。ゆうべ、画面越しに兄と約束をした。忘れても、もう一回家族になる。だから今朝は作戦初日で、私は枕元のメモ帳に10番の段取りを書き足している最中だった。先にお礼を言う側へ回るには、準備が要る。


 ノックは、その途中に割り込んできた。


 入ってきたのは、白衣じゃなかった。灰色のスーツが3人と、うちの病院の事務長。スーツの胸には見慣れたバッジ。ダンジョン協会――兄の業界で、いちばん大きい建物の紋章だ。


 先頭の男が、黒い手帳を開いて見せた。


「協会医療対策部です。灰崎ひよりさん。あなたの特別保護が本日付で決定しました。協会中央医療センターへ、転院していただきます」


「……初耳です。主治医の先生は」


「病院側の手続きは、完了しています」


 事務長が目を伏せた。完了。大人がこの単語を使うのは、途中を見せたくないときだ。


 呼んでもいないのに主治医の先生が駆けつけて、廊下で食い下がってくれた。容態の安定しない患者の移送には同意できない。男の返事は1行だった。「移送先にも専門医がおります」。専門医。何の専門かは、言わなかった。


 保護、と男は言った。考察歴8か月の耳が、単語を分解する。テレビでこの言葉が出るのは大体、誰かをどこかへ連れていく場面だ。連れていかれる側のコメントは、テロップにならない。


「同意書は」


「特別保護は、ご本人の同意を要件としません」


「なら保護者の同意は。うちの保護者は兄です。連絡が取れるまで、私は動きません」


「お兄さんと連絡が取れないから、保護なんですよ。はい、ご準備を」


 はいは1回。……とは、言わなかった。あの取り締まりは身内専用なので。


 差し出された書類の決裁欄には、判子が4つ並んでいた。日付は今日。決定から実行まで、半日。大人の本気は、中身じゃなくて速さに出る。


 廊下では、看護師さんが両手を広げてくれていた。面会フロアの入口には「患者保護区画」の札。兄の同僚さんたちが張ってくれた、結界のはずだった。


 男は、その札を指の背で叩いた。


「ちなみにこの区画の申請名義は、当協会です。解除書類も持参しています」


 ……借り物の盾は、貸し主には効かない。


 頭の中で、考察が勝手に組み上がる。兄は今、深いところで大事な仕事の途中にいる。それをやめさせたい誰かがいて、私が運ばれる。つまり私は患者じゃなくて、餌だ。


 いいよ。餌、やってあげる。餌は暴れない。餌は――時間を稼ぐ。


「荷物をまとめます。30分ください」

「10分で」

「点滴の差し替えが10時です。管を挿したまま走るんですか。事故になったら、その判子ごと新聞に載りますよ」


 男の眉が、初めて動いた。30分、もぎ取った。


 ぬいぐるみを鞄に詰めて、ガジュマルの鉢をひと撫でする。これは連れていかない。水やり係が帰ってくる場所の、目印だから。メモ帳だけは、鞄のいちばん奥に沈めた。「退院したらリスト」は身代金に含まれない。渡さない主義だ。


 廊下を進む車椅子の上で、私は計算を続けた。玄関まで約80メートル。エレベーター待ちで2分。靴の履き替えで3分。会計の確認で、あと5分。


 諦めるのは、なし。二人とも助かる。それ以外、認めない。――だから私は、1秒でも遅く連れていかれる。


 ◇


 第79層の朝は、氷室さんの端末の中にしか来ない。


 その朝は、朝礼より早く来た。見張り明けの氷室さんが、寝袋の列の前に立っていた。目の下に夜の残りが溜まって、手帳の角だけが白く握られていた。


「確定した情報だけを、申し上げます」


 声は、いつもの報告の声だった。


「未明、協会上層部が決裁を出しました。件名は、関係者の『保護』。対象は――灰崎ひより、16歳。移送班が今朝、病院に入りました。行き先は協会系の医療センター。名目は治療環境の改善。実態は」


「そこまでで、いいです」


 自分の声が、他人のもののように低かった。


「……未明の時点で、掴んでいました。あなたを起こす言葉を、朝まで選べませんでした」


「氷室さんのせいじゃないです。どの時刻に聞いても、俺のやることは変わらないので」


 キャンプから、音が消えた。レイジさんの手が包帯の結び目で止まった。所長の籠手が、鳴りやんだ。発光苔の明かりだけが、いつもどおりの顔をしていた。


 保護。妹を、金庫にしまう。俺という雑巾を絞るための、取っ手として。


 換算しようとして、やめた。時給にも手当にも、あれは換算できる科目じゃない。帳簿の外から手を突っ込んできたのは、向こうが先だ。


 俺は、モップを置いた。


 立ち上がる。それだけのことで、キャンプの空気が軋んだ。


 足元の苔が、白く色を抜かれていく。円く。俺を中心に。氷室さんの端末が砂嵐の音を吐き、レイジさんが半歩引いて腰を落とした。あの人が、構えた。俺に。


 みんな、何をそんなに――いや、違う。多分いま、この場でいちばん変なのは俺だ。分かってる。分かった上で、引っ込め方が分からなかった。


「――俺の妹に、触るな」


 誰に向けた言葉かも、分からなかった。地上は、深さ79層ぶん頭の上だ。それでも言った。言わないと、体が勝手に階段を探しそうだった。


 肩に、籠手が乗った。重い。岩でも載せたのかと思う重さだった。


「落ち着け。お前が地上に戻るのが、連中の狙いだ」


「……所長」


「考えてみい。お前が現場を捨てて上がれば、浄化は止まる。妹さんの病気は治らんまま、連中は雑巾と取っ手を両方手に入れる。人質ってのはな――取り返しに来させて、完成するんさ」


 計算なら、俺も済んでいた。上がって、間に合って、それからどうする。拘束されて、浄化が止まって、妹の病気は現状維持の先へ進むだけだ。計算は一瞬で終わった。終わったのに、体はまだ階段を探していた。


 奥歯が鳴った。爪が手のひらに食い込んだ。それでも、足は止まった。所長の理屈は正しい。正しさってのは、こういう朝にはいちばん苦い。


 苔の白い円が、ゆっくり元の色へ戻っていく。レイジさんが構えを解いて、首の後ろを掻いた。


「……はっ。初めてだぜ、人間相手に背中が冷えたのは。――で、地上の殴り込みは俺の仕事か」

「お前さんが動けば戦争になる。座っとれ、世界1位」


 氷室さんが、端末を操作した。砂嵐の向こうから回線が戻ってくる。


「打てる手は三つ、用意していました。一、移送手続きの不備を突いて遅延させます。二、報道側へ匿名の照会を流します。三、法律の専門家を――」


 指が、止まった。


 画面を見る目が、二度まばたきをした。データの人が、データを疑う顔だった。


「……移送車が、停止しています。病院の正面玄関前で」


「班の誰かが動いたんですか」


「いいえ。裁判所です。転院差し止めの仮処分申立が、今朝受理されています。申立代理人は弁護士12名。それから現地の協力者から、映像が1本」


 差し出された画面の中に、男が立っていた。


 磨かれた靴。皺のないスーツ。片手に書類の束。白い移送車の鼻先を、正面から塞いでいた。


「……嘘だろ」


 誰の声だったか。多分、全員のだった。


 ◇


 靴の履き替えで3分。会計の確認で5分。粘っても、玄関は来てしまった。


 正面玄関のスロープの上で、私の車椅子は停まっていた。


 目の前には、口を開けた白い移送車。その口の前に、知らない背中がひとつ。後ろには、そろいのバッジを胸につけたスーツが1ダース。遠巻きの通院客が、スマホを構え始めていた。


 移送班の男が、初めて定型文じゃない声を出した。


「王城さん……なぜ、あなたが」


「東京地裁に、転院差し止めの仮処分を申し立てた。受理は今朝の8時32分。事件番号を読み上げようか」


 書類の束が、男の胸に押しつけられる。


「その決裁には、医療上の必要の記載が1行もない。起案は未明、決裁まで40分。裁判所で経緯を説明する用意が、あなたの上司にあるならどうぞ。係属中の強行移送が報道に載って困るのは、現場のあなたじゃない。決裁欄の4つの判子だ」


 男が無線に手をやって、それきり動けなくなった。背中は、どかない。


「持ち帰って、こう伝えろ。――数字で語れ、と。この移送で誰が何を失うか、あの人たちは1円も計算していない」


 高そうなスーツなのに、ネクタイの結び目だけ少し曲がっていた。急いで来た人の曲がり方だ。誰かを切る側に10年立っていた人の背中だと、このときの私はまだ知らない。


「……あの。あなた、誰ですか」


 背中が、少しだけ振り向いた。目の下に、兄の同僚さんと同じ色の夜が溜まっていた。その目が私を見て、膝の上のぬいぐるみを見て、ほんの少しだけ細くなった。


「――灰崎への借りを、返しに来た」



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― 新着の感想 ―
妹ちゃんの粘りと王城の罪滅ぼし? どっちも無駄にならなくて良かったね
一億円分の借りがあるものな!
ほう… やるじゃないか!
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