第53話「裏切り者」
囮の警報に、音は付けなかった。
鳴ると分かっている罠に、音は要らない。地上を発つ前、私は分析室の書庫に偽物をひとつ残してきた。特別清掃班の管制記録――の体裁をした、中身のない空箱だ。誰かが開けば、私の端末だけが震える。即時にではない。閲覧が途切れて、履歴を録り終えてからだ。慌てた速報より、揃った足取りのほうが価値が高い。5年勤めた古巣に置いてきた、紙1枚ぶんの不信だった。
それが今夜、震えた。
「開封は22時41分。分析室の共用端末からです。……ここからは、確定した数字だけを申し上げます」
発光苔の明かりの下で、3人が私を見ていた。所長は腕を組んだまま。天海さんは包帯の結び目を歯で締めた姿勢のまま。湊さんだけが、モップの毛先を替える手を止めていなかった。世界の終わりの報せも、この人はたぶん夜勤の申し送りの姿勢で聞く。
「紙しか使ってないのに、漏れるものなんですか。うちの居場所」
「囮は空箱です。開けられただけなら、実害はありません。問題は――その後の38分です」
同じ端末の閲覧履歴を、時刻順に読み上げた。物流課、配送伝票綴り。中継局、回線申請ログ。どちらも協会でいちばん退屈な棚だ。上層部なら年度末まで、表紙も開かない。
第70層。第75層。第79層。水と食料の先送りで、私が切った配送伝票が3枚。それに回線試験の中継申請が1件。病棟の許可を通した、あの夜の書類だ。
伝票の宛先と、中継局の深度。2種類の帳票を重ねれば、この班の現在地は定規1本で引ける。
「囮を開けた誰かは、数字を疑ったんです。疑って、裏を取りに退屈な棚へ潜った。……私の仕掛けた不信が、そのまま道案内になりました」
負けた。それも、私の勝ち方でだ。
「はっ。で、そのご立派な読書家はどこのどいつだ」
「共用端末に、名前は残りません。ただ――検索式には手癖が出ます。絞り込みの刻み方。並べ替えの順番。定規の当て方と同じです」
過去のログを3年分、遡って照合した。一致は1人だった。
分析室の三雲主任。5年前は、隣の島にいた人だ。先輩の報告書の写しを、一緒に綴じたことがある。私の検索式を、協会でただ1人褒めた人でもある。
手帳を持つ指に、力を入れ直した。数字は感情で欠けない。欠けるのは、いつも人のほうだ。
「殴り込む先は決まったな」
「まだ早いさ。嬢ちゃん、連中の狙いは読めとるのか」
読めていた。読みたくなかっただけだ。
三雲主任の閲覧の先に、起案文書が1本ぶら下がっていた。連絡役の権限で、骨子までは開ける。件名――「特別観測対象・確保実施計画(案)」。
確保の時機は、浄化事象の完了直前。事象の功績は協会に帰属。対象の身柄は「国際調整における交渉材料」として管理。決裁欄に、判子が4つ。
人命に関する欄は、様式のどこにもなかった。
核は消させる。掃除は、させ切る。雑巾が絞り終わるのを待って、雑巾ごと金庫へしまう。彼らの帳簿で、あの背中はそういう科目だった。
読み上げる自分の声が、やけに平らに聞こえた。
「身柄って、俺のですか」
「あなたのです」
「……転職の予定は、ないんですけどね。うち、社名で申請が早いので」
湊さんは本気で困った顔をした。困る場所が、ずれている。ずれたままでいてほしいと、初めて思った。
ペンを置いた。置かないと、軸が折れそうだったからだ。
5年前と同じ構図だった。あのときも、数字は正しかった。正しい数字を、判子が上から潰した。「清掃業者の作業不備による事故」――あの一行を起案した棚と、同じ棚の匂いがする。
添付の発注記録も開いた。開いて、もう1段冷えた。
名目、「先行観測」。無人観測機、36機。納入、済み。展開座標は――核の間の、周辺。
私たちが命の値段で歩く白紙の区間に、彼らはもうカメラを置いていた。書類の中で、その区間は「中継画角」と呼ばれていた。誰かの決死行を、彼らは生中継の座組で数えている。
手帳のページを裏返して、機体の型番と数を書き写した。使い道はまだない。嫌な数字は、裏のページに控えると決めている。
報告は以上――のはずだった。口が、勝手に続けた。
「提案があります。穴は、塞ぎません」
「塞がねえのか」
「塞げば、こちらが気づいたことまで伝わります。開けたままにして、そこへ餌を流します」
癖のまま、指を折った。折った途端、いつもどおり呼吸がひとつ楽になる。
「一。配送伝票を偽装します。次の中継を第72層の西側に切り、ゲート便だけ本当に流す。読み手には、班が西ルートへ逸れたように見えます」
「二。回線申請で遅延を演出します。進行は実際より3日遅く。向こうの言う『完了直前』が、3日ずれます」
「三。本物の工程は、これまでどおり紙と手渡しで。これより深い金庫を、私は知りません」
「偽の伝票なら、うちの書式を使ってください。清掃業の見積もりって、外の人には読めないので」
湊さんが、倉庫の鍵でも渡す口調で言った。
……そうか。彼らが5年間読み飛ばしてきた退屈な紙は、そのまま彼らに読めない暗号でもあるのか。見えない仕事の書式は、見えない盾になる。
「ちなみにこの偽装、観測協力の手当は」
「出ません。共犯なので」
「ですよね」
「はっ。読ませて、間違わせて、空振りさせる。――いい性格になってきたな、分析官どの」
「褒め言葉として記録します」
「決裁は俺だ。……存分にやんな、嬢ちゃん」
所長の籠手が、きし、と鳴った。
端末を引き寄せて、偽の伝票の下書きにかかる。指先は、もう冷えていなかった。
網の張り方を決める席で、網の避け方を考える。あれはいい眺めだった。今夜で、眺めるのはやめる。向こうが読む側に回るなら、こちらは書く側だ。
データは嘘をつきません。――ただし、書く手が嘘をつくことは、ある。教わらなかった使い方です。先輩、悪い後輩になります。
◇
午前2時。見張り番の私の端末で、会議資料の共有棚が更新された。
定期便に紛れて、決裁済みの文書が1本。起案から決裁まで、40分。役所の判子は、夜には走らないものだ。走るときは、よほど急いで隠したいものがある。
件名、「浄化事象成功率の向上に係る関係者の保護について」。
保護。
……この単語には、二枚目がある。私はその様式を、そらで書ける。
対象者の欄に、氏名が1件だけ載っていた。
灰崎ひより、16歳。
実施区分は、地上にて即日。――もう、始まっている。
寝袋の並ぶ暗がりの方を、見た。
寝息はまだ規則正しい。あの人を起こすための言葉を、私はひとつも持っていなかった。




