第52話「兄妹喧嘩」
深層の夜は、時計の中にしか来ない。
第79層、中継ベースキャンプ。発光苔の明かりは一日じゅう同じ顔で、朝と夜の帳尻は氷室さんの端末だけが知っている。その端末が21時を指した頃、俺は明日のぶんのモップの毛先を替え終えた。
第80層から先は、地図が白い。人類の帳簿にない区間だ。準備は済んだ。あとは寝るだけの夜のはずだった。
夕飯は水と、塩だけの握り飯。握ったのは俺で、塩加減は満点だった。手ってやつは、余計なことまでちゃんと覚えている。
氷室さんが、折りたたみの端末を三脚に立て始めた。
「回線試験です。地上との中継が生きているか、白紙区間の前に確認します」
「了解です。俺は何を」
「そこに座っていてください。……試験のついでに、通話をひとつ繋ぎます。病院と」
毛先を揃える手が、止まった。
「面会時間、終わってますよ」
「病棟の許可は取れています。妹さんが、ご自分で申請されたそうです。面会じゃなくて、テレビ電話でいいから話したい、と」
妹が、自分から。
あいつの回線は着信専用だ。「あったら鳴らす」と言って、これまで1回も鳴らさなかった。それが今夜、深さ79層まで伸びてきた。……プリンの在庫でも切れたか。そうであってくれ。
「はっ。襟が曲がってるぞ、清掃員」
「画面が小さいんで、映りませんよ」
言いながら、直した。
画面が明るくなる。見慣れた病室の白。窓際のガジュマルの照り。ベッドの上で膝を抱えて、あいつはこっちを見ていた。
「おす。悪いな、こんな時間に――」
「お兄ちゃん。手帳のこと、聞いた」
フルコースの前菜が、抜かれた。
あいつの顔に、営業スマイルがなかった。あの顔は8年前の体育館からこっち、俺の前で外されたことがない。外し方を忘れたんだと思っていた。
「……手帳って」
「氷室さんの手帳。お兄ちゃんの毎日の、控えのやつ。なんで控えが要るのかも考えた。考察歴8か月を、なめないで」
「ど忘れが多くてな。ほら、年――」
「年って言うの、禁止。23でしょ」
画面の中で、あいつは息を吸った。
「私の病気が治る速度と、お兄ちゃんが私を忘れる速度の、競争なんでしょ」
キャンプの音が、消えた。
レイジさんが装備の点検に戻るふりをした。所長は腕を組んで、目を閉じた。氷室さんの指は切断のキーの上で止まったまま、押されなかった。誰も、電波の中には入ってこられない。ここから先は、兄妹の席だ。
「……誰に聞いた」
「誰でもいい。合ってるか間違ってるかだけ、答えて」
嘘の入る隙間は、なかった。あいつの目は、請求書の金額を確かめる目だ。ここでごまかせば、8か月ぶんの信用ごと落ちる。
「――合ってる」
「帰ってきて」
即答だった。
「大掃除、やめて。私、治らなくていい。一生入院でも、お兄ちゃんが通ってくれるならそれでいい。だから――私のために忘れるくらいなら、帰ってきて!」
「嫌だ」
自分でも聞いたことのない速さだった。
「ひよりが死ぬ方が嫌だ」
「死なないもん! 現状維持って言われてる!」
「現状維持の先は、緩やかな悪化だ。医者の言い方を経理に直すと、そうなる」
「茶化さないで! ……お兄ちゃんはいっつもそう。手当とか、経費とか、時給とか。ぜんぶ数字の話にして、自分の払いだけ黙って増やす。8年前からずっとそう!」
「俺の財布だ。使い道は俺が決める」
「その財布に、私が入ってるんだよ!」
声が、割れた。
「いちご狩りも、パンケーキも、はいは1回も。ぜんぶお兄ちゃんの記憶から払われてくの。私の『退院したら』が、お兄ちゃんを削ってくの。そんなの――請求書じゃなくて、脅迫状だよ……!」
点滴の管が揺れていた。音の出ない泣き方の練習を、あいつは全部どこかへ置いてきていた。音が、出ている。8年ぶりに。
……なあ、ひより。兄ちゃんはいま、見とれてる場合じゃないのに少しだけ見とれてる。お前のその払い方は、俺と同じ財布の使い方だ。血は争えないってやつだろう。
「ひより。俺は帰らない。ここは譲らない」
「なんでっ」
「お前が今言ったことを、そっくり返すぞ。――俺のために、治るのをやめるな」
「ずるい! それ、私のセリフ!」
「兄は先に生まれてる。セリフの先取りができる」
「屁理屈の……天才……っ」
罵り文句が、途中で萎んだ。あいつの目線が、初めて下を向いた。
「……わかってるよ、ほんとは。諦めるのはなしって、決めたの。二人とも助かる、それ以外は認めないって、ゆうべ自分で決めたの。……なのに、お兄ちゃんの顔を見たら、ぜんぶ崩れた。順番が、めちゃくちゃになった」
「ひより」
「まだ話してる途中。……次ので、最後だから」
あいつは腕で顔を拭いた。それから、まっすぐこっちを睨んだ。
「じゃあ約束して! 忘れても、もう一回私を好きになるって! 家族になるって!」
……ああ。そうきたか。
俺は自分の右手を見た。人差し指の付け根の、かたい皮。モップの柄があたる場所だ。店主の名前を忘れても、この手は塩むすびの固さを覚えていた。敵の名前を忘れても、モップの絞り方は一度も間違えなかった。記憶ってやつには、階層があるらしい。頭の帳簿と、もっと下の――体の帳簿だ。
だったら、答えはもう決まってる。
「……それは約束できる。何回忘れても、俺はお前の兄ちゃんをやる。それだけは多分、記憶より深いところにあるから」
「…………」
「頭の帳簿が飛んでも、手の帳簿は残る。8年こすれて、兄ちゃんの形になった手だ。初めましての顔でお前に会っても、どうせ3日でプリンの取り締まりを始める」
画面の向こうで、変な音がした。笑うのと泣くのの、ちょうど中間の音。
「……なにそれ。ぜんぜん格好よくない」
「掃除屋に格好つける手当は出ない」
「絶対だよ。絶対、絶対」
「はいは1回、だろ」
「絶対は何回でもいいの。私が決めた」
営業スマイルが、ようやく画面に戻ってきた。目のふちは赤いままだったが、そこはお互い様ということにしておく。
あいつは洟をすすって、声を半分落とした。
「リストの10番、書いたから。私の字で」
「見ていいのか」
「退院したら」
「……ずるい。この制度のいちばんずるい使い方」
「制度は使うためにあるんでしょ。だから、ちゃんと帰ってきて。10番はね、お兄ちゃんの書いたやつより、先にやるの」
どういう意味かは訊かなかった。訊いても教えない顔をしていたし、楽しみの前借りはしない主義だ。
「おやすみ、お兄ちゃん。……あのね。なんかあったら夜中でも鳴らせって言ったの、お兄ちゃんのほうだからね」
「おう。――ちゃんと出たろ」
「うん。満点」
画面が暗くなった。
誰も、何も言わなかった。発光苔の明かりの下で、大人が3人、そろって明後日の方を向いていた。所長は目を閉じたまま。氷室さんは手帳の上でペンを止めたまま。レイジさんは巻き終わったはずの拳の包帯を、もう一度巻き直していた。
やがて、レイジさんがぼそりと言った。
「……いい家族だな」
「……電話代、経費で落ちますかね」
「落としとくさ。特別清掃の枠でな」
所長が目を開けて、籠手を鳴らした。解散、消灯――そう続くはずだった。
氷室さんの端末が、鳴った。
回線試験の音じゃない。短い連打。あの人の指が画面を走って、止まる。顔から、色が引いた。
「協会からの緊急信号です。……特別清掃班の位置が――上層部に漏れています」




