第51話「妹、曇る」
「仕事の――同僚です」の、ダッシュのところに半拍あった。
私は考察歴8か月。深夜の配信と、コメント欄の攻防で耳は鍛えてある。大人の言い直しは、直す前の半拍にいちばん本当が詰まってる。この綺麗な人はいま、名乗りの途中で何かをひとつ引き出しにしまった。
「灰崎ひよりです。兄が、いつもお世話になってます」
ベッドの上でできる最上級のお辞儀をした。氷室さんはパイプ椅子に、定規で計ったみたいな角度で座る。姿勢のいい人は信用できる。信用はするけど、油断はしない。
「本日は、その……取材のようなものです。お兄さんの、昔のお話を伺いたくて」
「兄の、昔」
「ご両親のこと。8年前のこと。それから、あなたが小さかった頃のお兄さんのこと」
変な取材だった。同僚が知りたがるのは普通、今の話だ。昔を欲しがるのは記者か、刑事か――保存する人だ。
「いいですよ。……あ、でも交換条件がひとつ」
「伺います」
「兄の近況。手紙が業務連絡ばっかりで、映像が足りてないので」
氷室さんは頷いて、鞄から分厚い手帳を出した。防水の表紙に糸綴じ。角がまだ立っている。開かれたページは、細かい字でぎっしり埋まっていた。
「最近のお兄さんは、こちらに。時給は1,250円で、深夜手当と潜行手当つき。定食屋の注文は塩むすび。面会は夕方5時前。売店のプリンは、特売の日だけ2個」
「合ってます。怖いくらい」
「その窓の鉢はガジュマル。12行目です」
笑いそうになって、途中でやめた。
プリンの特売日まで載ってる業務日誌が、世界のどこにあるんだろう。これは記録っていうより、あれだ。旅行の前に冷蔵庫へ貼っていく、留守番用のメモ。誰かがいなくなる前提で書く紙だ。
「……この手帳って、なんのためのものですか」
「バックアップです。データ管理の基本は、二重化なので」
「じゃあ、原本はどこにあるんですか」
氷室さんの指が、ページの角で止まった。数字の人が、数字にならないものを計算する顔になった。
その半拍で、足りてしまった。
ガジュマルの名前に首をかしげた、8か月目の水やり係。増えていくど忘れ。「年だな」って言った23歳。ああいうことが、あの現場ではもっと起きてるんだ。それも、手帳が1冊必要になる速度で。
「氷室さん。兄のど忘れって、お仕事と関係ありますか」
「…………」
「お掃除をするたびに、進みますか」
「――データは、嘘をつきません。だから私はいま、何も申し上げません」
言わない、が答えだった。
頭のいい人の、精一杯の不器用さだと思う。この人は嘘だけは、つかないでいてくれた。だから私も、持ってる中でいちばんの営業スマイルを出した。
「兄の昔の話、しましょっか。何から聞きたいですか」
母の鼻歌のこと。洗剤のCMの歌で、兄はいまだにサビしか歌えないこと。父の広い背中のこと。8年前の、体育館の毛布の匂いのこと。私は覚えているかぎりを話して、氷室さんは全部書いた。ペンの音は正確で、途中からすこしだけ速くなった。急いでくれてるんだって、分かってしまった。
帰り際、氷室さんはドアの前で振り返った。
「……妹さん。お兄さんの毎日は、私が保証します。数字の外も、です」
「知ってます。兄、いい職場にいるので」
はいは1回。ドアが閉まりきるまで、笑顔は崩さなかった。私は病人だけど、灰崎家の営業部長でもあるので。
◇
消灯後の病室は、考えごとに向きすぎている。
枕元の明かりで、手紙を読み返した。「この現場が終わったら、お前の病気は良くなる」。医者より確かな筋。……そういうことだ。私の病気の大元はダンジョンの奥にあって、あの人はそれを掃除しに行った。終われば、私は治る。ここまでは、いい報せだ。
そして、お掃除には値段がある。
あの人の払い方は、昔から決まってる。自分の財布から先に出す。時間も、睡眠も、食費もそうだった。今度の財布の中身は、記憶なんだ。
消えるのは、たぶん外側から。お店の人の名前。敵の名前。時給。それから、だんだん内側へ。内側のいちばん奥には、何がいる?
……私だ。
布団の中で、膝を抱えた。
「私の病気が治る速度と、お兄ちゃんが私を忘れる速度の、競争なんだ」
声に出してみたら、ちゃんと化け物の形をしていた。
治ったとして。退院の日、玄関で待ってるあの人が「初めまして」の顔だったら。……忘れてもいいよって、言った。言ったよ、たしかに。何回でも初めましてから始めてあげるって。でもあれは、仕組みを知らないまま振り回した、無敵の約束だ。
止める方法は、ひとつだけある。
私が、治らなくていいと言えばいい。大掃除なんてしないでって、電話口で泣けばいい。現状維持なら、あの人は何も払わずに済む。プリンの取り締まりも、はいは1回も、ぜんぶ手元に残る。
枕の下から、メモ帳を出した。
「退院したらリスト」。1番から9番まで。いちご狩り。海で写真の、足まで入る続編。枚数の暴力のパンケーキ。お墓への、二人の報告。……このリストが、あの人の背中を押した。つまりこれは請求書だ。私の「したいなあ」のぜんぶに、あの人の記憶で値段がついてる。
破ろう、と思った。
紙の端をつまんだ。指に、力を入れた。
入らなかった。
ページのいちばん下。手で隠して書かれた、退院までお預けの1行が、明かりの下で読めてしまった。
【ひよりに、今までのお礼を言う(忘れる前に)】
(忘れる前に)。
……知ってたんだ。自分が何を払うことになるか、ぜんぶ知ってて。知ったうえで、この人が最後の枠に書いた「したいこと」は。無事に帰るでも、お金でも、思い出ですらなくて。
お礼を、言う側。
8年前の体育館から、ずっと言われる側だったのは私のほうなのに。
紙の上に点が落ちて、にじんだ。あわてて遠ざける。濡らさない。これは私たちの、契約書だから。
毛布をかぶった。音の出ない泣き方は練習済みだ。体育館の夜より、ずっと上手になってる。……上手になんて、なりたくなかったけど。
ひとしきり済ませた。顔を出して、窓際のガジュマルに宣言する。
「――諦めるのは、なし」
私が治るのをやめたら、あの人は宛先のない「お礼」を抱えたまま、この病室に一生通うだけだ。それは助かったって言わない。どっちも助からないって言う。
「二人とも助かる。それ以外、認めない」
リストは破らない。かわりに、10番を書き足した。
【10. お礼は言わせない。先に私が言う】
競争なら、受けて立つ。相手が病気でも、世界でも、お兄ちゃん本人でも。考察歴8か月、灰崎ひよりの本気を見せてやる。
◇
翌朝。検温より早く起きて、自分の足でナースステーションまで歩いた。実績から見せる。交渉の基本は、うちの兄から習った。
「あら、灰崎さん。呼んでくれれば行くのに」
「歩けるところを、見てほしくて。……お願いがあります」
夜中に組んだ理屈は3つあった。ぜんぶ飛ばして、頭を下げる。
「面会じゃなくて、テレビ電話でいい。お兄ちゃんと話したい」




